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2020年6月10日 (水)

ことばと生活と新聞と(110)

「責任」は感じるだけでよいものか


 「責任」という言葉が、政治の世界で大変革を遂げているようです。それを端的に指摘する言葉があります。

 「ある」と言いながら取らぬ首相の責任。失政や失言を「誤解」とごまかす閣僚ら。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月25日・夕刊、3版、1ページ、「素粒子」)

「責任」という言葉は、例えば『明鏡国語辞典』では次のように説明されています。

 ①まかされていて、しなければならない任務。
 ②ある行為の結果として負わなくてはならない責めや償い。
 ▼法律では、法に基づく不利益や制裁を負わされることをいう。

 言うまでもないことですが、多くの日本人は、「責任」を国語辞典にあるような意味で使っています。「責任を果たす」「責任を取る」ということは、口先だけで、「私に責任がある」などと言って済まされることではないと、誰もが思っています。責めや償いが伴うもののはずです。ところが政治の世界では、様子が異なっているのです。責めや償いを受けないように、口先だけでごまかして、うやむやにしてしまうことが日常的に行われています。
 そういう人たちにとって、「責任」という言葉は、次のように変化しているようです。

 ①まかされていて、しなければならない任務を、自分が行ったように見せかけながら、他の人に委ねて行わせるようにすること。(すなわち、「責任転嫁」と同じ意味。)
 ②ある行為の結果として負わなくてはならない責めや償いを、弁舌たくましくして、その責めや償いが必要でないように見せかけること。(すなわち、「責任逃れ」と同じ意味。)

 「責任」という言葉は、その言葉だけでは意味を持たず、他の言葉と結びついた使い方になってしまっているようです。アベノミックスなどという言葉を使い続けて、新しい言葉として定着させようとした人は、これまでにきちんとした意味で使われていた言葉の意味・用法を変えるということまでしているようです。もちろん改善・改良ではなく、逆の方向です。この内閣が退陣した後には、日本語の大掃除(修復)が必要なことは言うまでもありません。

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