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2020年7月31日 (金)

ことばと生活と新聞と(161)

ミリ単位の「世界最短」文字


 クイズを出題します。明さん(例えば、あきらと読みます)、勝さん(かつ)、一さん(はじめ)の3人の名前を漢字で縦書きしたとき、最も短いのは誰でしょうか。
 答えは、後回しにして、こんな記事を読んだので紹介します。

 ローマ字表記なら「世界最短」とPRする駅が山口県萩市にある。JR山陰線の飯井駅。ローマ字では「Ii」の2文字で、三重県の津「Tsu」駅より短い。
 高台にある無人駅で日本海を一望できる。JR西日本の観光列車が通過する際も、車内アナウンスで「世界最短」と紹介されているという。
 兵庫県の粟生「Ao」駅や長崎県の小江「Oe」駅など、ローマ字2文字の駅は他にもある。「Ii」は「書いた時の幅が一番短い」と山口県の担当者。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月2日・朝刊、14版、26ページ、「青鉛筆」)

 何でも「一番」ということに価値があると言うのでしょうか。ローマ字2字の「短い駅名」の一つに加わるということだけで満足できなくて、その中でも「最短」であると言わなくてはおれない気持ちなのですね。「Ii」が最短だと言っても、ワープロ文字では「Ao」や「Oe」より1~2ミリ程度の差でしょうね。
 心の狭さのようなことが表現されていて、世界最短という言葉に拍手をおくる気持ちにはなりません。
 漢字で縦書きしたら、「一さん」が最短だ(縦幅が短い)というようなことを話題にしたら、あざけられ、笑われてしまいそうですね。〈JR西日本の観光列車が通過する際も、車内アナウンスで「世界最短」と紹介されているという。〉とありますが、アナウンスをする人も納得しないままに口にしているのかもしれません。
 この話題を記事にした記者も、どこまで本気で書いたのかと疑問に思ってしまいます。

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2020年7月30日 (木)

ことばと生活と新聞と(160)

人名漢字は読み方自由でよいのか


 明石市の広報紙『広報あかし』には「わが家のアイドル」という欄があって、月に2回、4人ずつの幼児が写真とともに紹介されています。7月に掲載された計8人の名前(氏名の、名の方)は、望希(みさき)、蒼(あおい)、栞里(しおり)、蒼葉(あおば)、水希(みずき)、千彰(ちあき)、七椿(なつ)、梨太郎(りんたろう)という名前でした。親が、わが子の幸せな成長を祈って名づけたのだろうと思います。
 さて、よく似た漢字の「昴」(すばる)と「昂」(こう)は、どちらも人名に使われることが多いのですが、その漢字のことを紹介した文章に、次のようなことが書かれていました。

 「昴」。清少納言は「すばる」を美しい星の一つに挙げています。子どもの名前に使える人名用漢字に入ったのは意外と遅く、1990年でした。「昂」は「昴」より〝先輩〟で、81年に入っています。
 ある有名なスポーツ選手は自分の子どもに昴と付けたかったのですが、その時点では使える字でなかったため、形の似ている「昂」を使い「すばる」と読むことにしたといいます。人名に使える字の種類には制限がありますが、読み方は自由ですから、こんなウルトラCもできるわけです。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年6月27日・夕刊、3版、6ページ、「漢字の感じ」、鳥居美樹)

 記事の内容には異論はありません。その通りです。ただし「ウルトラC」などという言葉を使って褒めてよいのでしょうか。
 問題は、このようなことを決めた側(国)にあります。常用漢字や人名用漢字を制定することには賛成です。けれども、人名に関してはもっと文字数を増やしてもよいのではないでしょうか。制限を設けなければ、現在ではほとんど使うことのない文字や俗字のようなものを選ぶことも起きるでしょうから、制限は必要です。けれども、使える文字はもっと緩和してはどうでしょうか。
 それとともに、読み方には一定の枠組みを設けるべきです。「昂」と書いて「すばる」と読んでもよいということだけではなく、もっともっと異なった読み方であっても、すべて許容されているのです。
 「金」と書いてゴールデンとも読んてもよし、マネーと読んでもよし。「山」と書いて「うみ」や「かわ」と読んでもよいのです。そんな極端な読み方はないでしょうが、かなり凝った読み方は現実に存在しています。親の願いで付ける人名ですが、子どもにとっても納得できるものでなくてはなりません。「昂」と書いて「すばる」と読ませることは、誤用だという印象を周囲に与えてしまいます。
 萬葉仮名のような読み方などは許容してもよいと思いますが、余りにも特異な読み方を排除するルール作りは必要であると思います。

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2020年7月29日 (水)

ことばと生活と新聞と(159)

「食べ乗り」という言葉


「食べ歩き」という複合語は国語辞典の見出し語にも採用されています。名物料理や美味しいものを、あちこち食べて歩くことという意味です。同時に「食べ歩き」の「き」という発音を「記」と考えて、そのようなことを書いた文章のことを意味することもあります。
 ところで「食べ歩き」という言葉は、食べることと歩くことのどちらに重点を置いた言葉でしょうか。一般的には、2つの動作のうち、後ろに重点があるように思いますが、「食べ歩き」は、歩くことが欠けても、食べることは欠かせないと思います。
 次のような文章を見かけました。

 大阪メトロは27日、スパイスや食材にこだわる大阪発祥「スパイスカレー」」を提供する沿線の37店舗を地下鉄に乗って巡ってもらう催しを始めた。 …(中略)…
 参加店舗は地下鉄8路線からえりすぐった名店や人気店ばかり。同社の担当者は「「食べ歩き」ならぬ「食べ乗り」で個性豊かな1皿を楽しんで」。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月28日・朝刊、14版、26ページ、「青鉛筆」)

 「食べ歩き」になぞらえて「食べ乗り」という言葉を使っているのですが、この言葉は、後ろの動作に重点があるように思います。「食べ歩き」と同じように乗ることが欠けてもよく、食べることは欠かせないと考えると、大阪メトロの趣旨に反することになります。食べることをしながら、電車には必ず乗ってほしいということです。
 「食べ歩き」は熟した言葉ですから、食べることに重点が置かれ、「食べ乗り」という新しい言葉は、乗ることに重点が置かれることになっていると思います。
 この催しには特典が付いているようですから、参加者は食べることも乗ることもすると思いますが、言葉遣いの点から感じることを書いたのです。

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2020年7月28日 (火)

ことばと生活と新聞と(158)

「つづくる」という言葉


 『ことば事始め』という本を読んでいると、こんな文章が目にとまりました。

 たしか「つづくる」と言った。
 「ズボン、つづくっといたヨ」
 母親が実物を手に、問題の個所を示しながら言う。念のため目の上に差し上げて明かりにすかしてみた。あてがった布が、きちんと納まっているかどうか、たしかめるためである。
 いま手近な辞書にあたってみると「つくろう(繕う)」はあるが「つづくる」はない。「つづく」につづいてあると思っていたのに「つづける」にとんでしまう。
 田辺聖子の小説に、サラリーマンが飲み屋の女将に上衣を「つづくって」もらうくだりがあって、てっきり日常語と思っていたが、おりおりあるとおり、関西語といったものにあたるのかもしれない。大阪を中心とした上方言葉に特有の語彙であって、この場合は「つくろう」が訛って「つづくる」になったものか。「つくろって使いつづける」を一語にしたようにもとれる。
 (池内紀、『ことば事始め』、亜紀書房、2019年6月21日発行、40ページ~41ページ)

 池内紀さんは姫路の出身ですから、小さい頃には関西言葉の中で育っておられます。書いておられるように「つづくる」は関西で広く使われていますが、それを全国でも使われていると思われて、国語辞典をお引きになったのでしょう。
 この文章で書かれていることについて、異論を一つだけ申します。「つづくる」は衣類などのやぶれたところを修繕するという意味であって、「つくろって使いつづける」という意味ではありません。
 参考として、私の『明石日常生活語辞典』から、関連する個所を引用します。

●つぎ【継ぎ】《名詞》 衣服などの破れたところに、他の布をあてて修繕すること。繕いのため破れ目にあてる布など。「ずぼん(ズボン)・に・ つぎ・を・ あ(当)てる。」〔⇒つづくり【綴くり】、つづくりもん【綴くり物】〕
●つづくり【綴くり】《名詞、動詞する》 衣服などの破れたところに、他の布をあてて修繕すること。そのようにして修繕したもの。「よ(夜)なべ・に・ こども(子供)・の・ ふく(服)・の・ つづくり・を・ する。」〔⇒つぎ【継ぎ】、つづくりもん【綴くり物】〕
●つづくりもん【綴くり物】《名詞、動詞する》 衣服などの破れたところに、他の布をあてて修繕すること。そのようにして修繕したもの。「ひ(引)っかけ・て・ やぶ(破)っ・た・さかい・ また・ つづくりもん・を・ せ・んならん。」〔⇒つぎ【継ぎ】、つづくり【綴くり】〕
●つづくる【綴くる】《動詞・ラ行五段活用》 破れたところに、他のものを補ったりして修繕する。「やぶ(破)れ・た・ たび(足袋)・を・ つづくる。」「にわ(庭)・の・ かき(垣)・の・ やぶ(破)れ・を・ つづくる。」■名詞化=つづくり【綴くり】〔⇒つづる【綴る】〕
●つづる【綴る】《動詞・ラ行五段活用》 ①書類などを一つに束ねて、一続きのものにする。「かみ(紙)・を・ つづっ・て・ たば(束)・に・ する。」②破れたところに、他のものを補ったりして修繕する。「ずぼん(ズボン)・の・ ひ(引)っかけ・た・ とこ・を・ つづる。」③言葉を続けて、文章として書き表す。「えんそく(遠足)・の・ こと・を・ つづる・の・が・ しくだい(宿題)・や。」■名詞化=つづり【綴り】〔②⇒つづくる【綴くる】〕

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2020年7月27日 (月)

ことばと生活と新聞と(157)

「注目」という言葉の使い方


 「これから後の成り行きが注目される」などという言葉で文章を締めくくる書き方が新聞記事や放送のコメントなどにあって、自分の意見を述べないで文章を終わらせるやり方を、記者自身が自虐的に「ナリチュー」という言葉で呼んでいたことがありました。「成り行きが注目……」という表現は少なくなりましたが、「今後の展開が気になります」とか「誰がどう責任を取ることになるのでしょうか」とか、同様の言葉遣いは今でもしばしば見られます。
 ところで、この「注目」という言葉ですが、注意してよく見る、とか、関心を持って見守る、とかの意味です。他者から「この文章に注目しなさい」となどと促されることもありますが、もともとは、自分から進んでしっかり見るというような意味で使われてきました。注目することには、その対象物(内容)があるのです。
 そういうふうに感じていますから、ある時、教員が子どもに向かって「はい、注目!」などと言っていたのを聞いたときには、ちょっと違和感がありました。対象物があるわけでもなく、よそ見をしている子どもに向かって、前を向くことを促す言葉として「注目」を使っていたのです。
 それと共通点があるのかどうか、わかりませんが、こんな文章を読みました。

 群馬県では学校の朝礼で「起立、注目、礼」と言ったりするといった、その地方出身のスタッフは常識と思っていたことが、周囲にはまったく理解されなかったことだったという。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月22日・朝刊、14版、12ページ、「フォーカス オン」、黒田健朗)

 「秘密のケンミンSHOW極」というテレビ番組を紹介する記事からの引用です。
 文章を読んでいるときに、「筆者の考え方に注目してみよう」などと言われることがあります。注目する対象や方向性が指示されるのですから、具体性があります。
 ところが、対象物の指示がなく唐突に「注目せよ」と言われたら、前を向いて、正面のものを見つめるという意味しか考えられません。どの部分に注目するのか、どのように注目するのか、というような具体性がありません。前を向いたけれども、注目に値するものは何もなかったということもありうるのです。よそ見をしないで、真っ直ぐ前を向きなさいという指示に「注目」を使うのは、少しばかり硬い言葉を使って注意を促しているということに過ぎないようです。

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2020年7月26日 (日)

ことばと生活と新聞と(156)

「不要」は「不急」を含んでいる


 新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、「3密」とか、「不要不急」という言葉を多く見かけます。不要不急の一例として、こんな文章があります。

 「不要不急」の反対語は「必要至急」か。思えば二つの言葉のあいだには、どちらともとれる領域が広く横たわる。親や子ども、孫に会いに行くのはどちらに近いだろう。お見舞いは。里帰り出産は。悩んでいた方も多かったのではないか
 自粛要請という関所はなくなったが、心の中には自分なりの小さな関所がある。いまはまだ、そんな気がする。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月21日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「3密」というのは、密閉空間、密集場所、密接場面の3つを合わせた言葉です。3つをすべて避けなければなりません。
 それに対して、「不要不急」というのは、不要かつ不急ということではありません。不要または不急ということだと思います。本当は2語の間を区切って「不要・不急」とするのがよいのかもしれません。けれども、考えてみれば、人には不要なことなどは、そんなにあるはずがありません。
 「不要」は「要」を打ち消したものですから、反対語は「必要」のように見えますが、筆者も言うように、そこには「どちらともとれる領域」が広がっています。つまり、普通の生活で営まれているもののうちのごく一部だけにしか「不要」なものはありません。
 「不急」という言葉にも同じことが言えます。「至急」行わなければならないものなどはごく僅かです。自分の周りにあるのは「どちらともとれる領域」に属しています。
 しかも、「不要」と断じてしまえば、それらはすべて「不急」であるはずです。「不要」は、「不急」をも含んでいるのです。
 「不要不急」という言葉は一種の強調語ですが、人の行為を「不要」と言うのは行きすぎです。それを「不急」と断じるのもおかしいと思います。「不要(な外出)」の1語だけでは強く響きすぎるから「不急(な外出)」を付け足したのでしょう。けれども、そんながんじがらめのような表現をして、人々を悩ませることになったのです。
 もちろん。コロナ禍の中で移動を抑えようという趣旨は理解できますが、それを「不要不急」という言葉に託すのはおかしいと思います。「(どうしても行かなければならない場合を除いて)外出や旅行を控えてください」と言う方がしっくり心に届くのではないでしょうか。
役所の言葉にはこういうものが多いようです。「安全安心」も似たような言葉です。ほんとうに安全である状態であるのなら、人は安心する気持ちを持ちます。言葉を重ねて強調しておかなければ、揚げ足を取られたらかなわないというような姿勢の表れかもしれません。

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2020年7月25日 (土)

ことばと生活と新聞と(155)

「遺憾」という言葉遣いはイカンなぁ


 「この度の件については、私は責任を感じております。」という言葉を発しながら、具体的な責任の取り方を示さないのが、この国の首相ですから、この国は政治家だけでなくすべての国民が、責任というのは頭を下げておけばよいものだと思い始めているようです。これも政治の大きな責任だと思います。言葉を壊していく政治は、そろそろ幕引きをしなければなりません。
 似たような例として、「今回の出来事については、皆さま方にお詫びを申し上げたいと思います。」という言葉だけで済まそうとしている人もたくさん、おります。「お詫びを申し上げたい」という言葉は、お詫びをしたいという希望(願望、意思)を述べているだけであって、お詫びをしているわけではありません。お詫びをしたいと思ったなら、改めて、「お詫びを申し上げます」と述べて、頭を下げなければいけません。お詫びをしているようなポーズだけで済まそうとする魂胆が間違っています。あるいは、日本語の使い方がわかっていないのなら、日本語を根本から勉強しなければなりません。
 わけのわからない言葉を述べていると思うことが、他にもあります。事を起こした本人が「まことに遺憾に存じます。」と言うのは間違っていると思います。「遺憾」という言葉を国語辞典で確かめると、〈思い通りにならなくて、心残りなこと〉とあります。謝罪する必要のないような、軽い事柄であるのなら、自分の意志の通りにならなくて、残念に思うというような場合に使ってもよいと思います。
 けれども、ニュースなどでこの言葉を耳にして違和感を覚えるのは、謝るべき行為をした本人が使っているからです。「この度の私のしたことは誠に遺憾に存じます。」という発言は、思い通りにならなくて(=隠し通すことができなくて)心残りである(=謝らなくてはならなくなって残念だ)、という意味に聞こえます。開き直った言葉です。「謝罪」という言葉の代替として「遺憾」を使おうとしても、それは認められません。
 国民の側が、元・法務相が犯罪を起こして遺憾だという感想を持つなら、それは正しい使い方でしょう。政治家は間違ったことはしないという期待感が裏切られたことこそ遺憾の気持ちになるのです。
 何でも「責任」という言葉を吐いておけば済むものではありませんし、「お詫び申し上げたい」でお終いにはできません。「遺憾」という言葉で謝罪したような体裁をつくろうこともできません。「遺憾」などという言葉を使ってごまかすことは、イカン(=だめだ)なぁと国民は思っているのです。きちんと相手に気持ちが伝わるような言葉を選んで、丁寧に謝罪をすべきです。

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2020年7月24日 (金)

ことばと生活と新聞と(154)

どんな大きさの、何に「印刷する」のか?


 「印刷」という言葉は、一般的には、文字や図形などを紙や布などに刷り写すことです。印刷の技術が向上して、今では金属片に印刷したり、チューブや卵の殻に印刷することもできるようになりました。そのような場合に、印刷という言葉を使うことは抵抗感がなくなりつつあります。
 小さな紙片ではなく、縦横それぞれ数メートルの紙などに絵や写真が印刷されることもあります。大きさについても抵抗感はなくなりつつあります。
 けれども、次のような表現を読んだときは、ちょっと抵抗を覚えました。

 最前線で闘うあなた達はヒーローです--。こんなメッセージを荷台に印刷したトラックが、各地を走っている。新型コロナウイルスの対応にあたる医療従事者への感謝の気持ちを届けつつ、感染拡大防止に一役買えたらと、京都の運輸会社が取り組んでいる。 …(中略)…
 同様の動きが広がっている。京都市伏見区の同業者は、吉川さんに10トン車3台の印刷を発注。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月10日・夕刊、3版、6ページ、小西良昭)

 これまでの感覚では、トラックに文字や絵をかくことは、それがどのような方法であれ、「塗装する」というような表現をしたように思います。記事には2枚の写真が添えられており、〈医療従事者へのメッセージを荷台に印刷した10トン車〉と、〈「コロナに負けない!!」と荷台に印刷した茨城県の運輸会社のトラック〉という説明があります。
 金属片への「印刷」も、とても大きな紙などへの「印刷」も認めたいと書きましたが、大きな金属でできた荷台へは「印刷」とは言ってほしくないと思うのです。なぜでしょうか。
 どのような方法でトラックの荷台に文字や絵をかくのかは、記事に書かれてはいません。金属片に印刷することの規模を大きくすれば、トラックに印刷することは可能なのでしょう。
 けれども、「印刷」という言葉の持つ意味が、あっと言う間に拡大されてしまいそうで、にわかに認めたくないという気持ちがあるのです。
 もう一つの理由は、印刷は基本的には、同じものをたくさん作るというときに使う言葉のようにも思います。印刷技術を応用して、ただ一つのものを作ったときにも、「印刷」と言ってよいのでしょうか。
 このような言葉遣いを拡大していけば、丸みをもった飛行機の機体にも印刷できるし、複雑に入り組んだ住宅の外壁部分にも、アスファルトの道路の区画指示などにも「印刷」できることになるのでしょう。けれども、そういうことについては、他の言い方を工夫することこそが、本来の言葉の使い方だと思うのです。

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2020年7月23日 (木)

ことばと生活と新聞と(153)

Tacoバスとたこフェリー


 明石市は東経135度子午線上に位置する「時の町」ですが、明石海峡大橋でも知られる交通の要衝でもあります。そしてもう一つ、美味しい魚の町でもあります。魚と言えば明石鯛も明石蛸も知られています。明石の代表的な商店街である魚の棚(うおんたな)には、鯛や蛸をはじめ、さまざまな魚介類などが並んでいます。魚の棚では、水揚げされたばかりの蛸が、立って歩くと言われています。大げさな表現ではなく、店先でその様子を目にすることもできます。
 鯛も蛸もどちらも美味しく、明石の代表を鯛にしても、蛸にしてもよいのですが、言葉遣いとしては蛸を取り上げることが多いのです。鯛が高級料理に使われるというイメージであるのに、蛸は玉子焼きに使われて庶民の日常の食べ物と結びついているからかもしれません。地元で玉子焼きと言っている食べ物は、ふんわりとした蛸焼きで、ダシ汁につけて味わいます。大阪の蛸焼きと区別するために、明石焼きと呼ばれることもあります。
 さて、その庶民的な蛸を名にしたのが、かつて明石と淡路・岩屋を結んでいたフェリーボートです。もともとは国道の一部としての役割を担っていたのですが、後に民営化されました。明石海峡大橋の開通によって廃止に追い込まれたのですが、最終段階に愛称として使っていたのが「たこフェリー」という名称でした。
 そして、地域交通(コミュニティ)バスとして明石市が現在、市内を走らせているバスの名称が「Tacoバス」です。
 その「taco」を話題にしている文章がありました。

 しゃれたホテルのバイキングで、タコ形のウインナーを見かけました。傍らの表示プレートに〈taco winner〉と英文字で書いてあったので、おやっと思いました。 …(中略)…
 日本語の「タコ」には可愛らしい響きがあります。一方、英語の「オクトパス」は感じが違います。『ウィズダム和英辞典』第3版によれば〈米英では気味の悪い生物と考えられてきた〉とのことです。 …(中略)…
 可愛らしさはなくなるかもしれません。ホテルの人はそれを直感して、英語でも「タコ・ウインナー」と書いたのかも。 …(中略)…
 もっとも、つづりは「taco」でなく「tako」でいいと思いますが。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月11日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「Tacoバス」には可愛らしい蛸の絵が書いてあります。気味の悪いものなら、愛称に選ぶはずはありません。明石では、蛸は美味しく可愛いものというイメージが漂っているのです。
 文字遣いの「taco」と「tako」とを比べると、やっぱり「taco」の方がスマートな感じがします。ローマ字表記を守って「takoバス」と書くのなら、「たこバス」という仮名書きの方がよいと思います。
 もっとも、明石の隣の加古川市のコミュニティバスの愛称が「カコバス」ですから、仮名書きなら紛らわしい感じがしないでもありません。

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2020年7月22日 (水)

ことばと生活と新聞と(152)

饅頭は蒸し菓子のはずだが…


 電子レンジを使うと何ができるのでしょうか。あたためることはできますが、煮ることや焼くことはできるのでしょうか。煮るのと同じようなことも、焼くのと同じようなことができるのですが、それは煮たと言えるのか、焼いたと言えるのかというと、微妙なところがあるように思います。
 さて、「饅頭」を国語辞典で引いてみると、小麦粉・そば粉などを使って皮とし、中に餡を包んで蒸し上げた菓子、というような説明がされています。皮の材料や、中に包む餡などについてはバラエティが生まれてもおかしくはありませんが、蒸すということは必要な条件でしょう。蒸していないものを饅頭とは言いにくいと思います。
 焼き饅頭という言葉があるとすれば、それは蒸して作ったものを、さらに表面を焼いて出来上がった菓子ということになるでしょう。
 こんな記事を読みました。

 ピザ、シナモン、コーヒー、キャラメル、きなこ、チョコバナナ--。バラエティ豊かな変わり種の「焼きまんじゅう」がSNSなどで話題だ。その専門店「くしや」(群馬県伊勢崎市)も新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて客足は鈍った。 …(中略)…
 焼きまんじゅうは、小麦を練った生地を竹串に刺し、甘辛いみそでこんがりと焼いた群馬の郷土料理。 …(中略)…
 「新しいメニューを食べに来てもらえるとうれしい」。いまは「お好み焼き焼きまんじゅう」に挑戦している。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月8日・夕刊、3版、7ページ、「地域発 群馬県から」、松田果穂)

 焼きまんじゅうという名の食べ物は、蒸すということはしていないようです。竹串に刺して、こんがりと焼いているのです。「焼きまんじゅう」は、厳密な意味での「饅頭」ではないのです。餡の代わりにピザ、シナモン、コーヒー、キャラメル、きなこ、チョコバナナなどを使っているということは認めるとしても、焼かないものを「饅頭」と言う理由は何なのでしょうか。形が饅頭に似ているという、ただ一点だけで「まんじゅう」と称していることになります。言葉としては、だらしのない使い方をしていることになります。
 さらに輪をかけているのは、「お好み焼き 焼きまんじゅう」という二重に「焼き」を使った命名です。お好み焼きを焼き上げてから、それを餡のように使うのでしょうか。できれば、もう一工夫、蒸すという工程をどこかに加えることはできないのでしょうか。

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2020年7月21日 (火)

ことばと生活と新聞と(151)

「負けてはいない」という言葉

 何事によらず、東京一極集中が進んでいます。新型コロナウイルスの感染者数も、北海道や福岡県で一時的に多くなることがあっても、いつまでも続く中心は首都圏の1都3県です。首都圏の人たちが全国へ移動することによって感染が拡大しないようにと祈りたい気持ちです。首都圏以外の人たちは、そんな気持ちを持っているかもしれないと思います。
 コロナ禍でリモートワークが進んでも、それは一時的な現象で元に戻ってしまうのでしょうか。リモートワークを推進して、中央官庁や大企業の地方分散が進まない限りは、東京一極集中はますます進んでいくのかもしれません。東京都知事選挙のことは全国に広く報道されます。日本の中心のことなのだから関心を持ちなさい、と言わんばかりの姿勢です。
 さて、「負けてはいない」という言葉遣いがあります。「負けてはいない」という健気さは称賛すべきでしょうが、この言葉が使われる場面は微妙です。例えば「関西の文化活動は首都圏に負けてはいない」という言葉を聞いたとき、関西が首都圏を凌駕していると受け取る人はいないでしょう。「肩を並べる」とまではいかないときに、実際の状況よりは少し高く評価しようとして使う言葉でしょう。
 何事においても、「東京に負けていない」「首都圏に負けてはいない」という言葉は、多少、あるいは随分と他地域を持ち上げて使う言葉でしょう。東京の巨大化に勝てるものはありません。もちろん、この言葉は、東京と比較するとき限って使う言葉ではありませんが、東京と比較して使う場合は、負けが決まっているけれども、というニュアンスを込めて使われているように感じています。
 テレビ各局が、人気番組の画像を使った「バーチャル背景」を次々と無料で公開している、というニュース記事がありました。東京のキイ局がこんなことをしているという紹介が書かれた後、こんな表現がありました。

 在阪各局も負けてはいない。
 毎日放送は、20年以上つづく午後の名物番組「ちちんぷいぷい」のスタジオ画像をツイッターで配る。 …(中略)…
 関西テレビは、おなじみの局キャラ「ハチエモン」をプッシュ。 …(中略)…
 放送局の舞台裏を見せるのは読売テレビ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月30日・夕刊、3版、6ページ、尾崎希海)

 話題になっている「バーチャル背景」の内容を比較する能力は私にはありません。けれども文章を読んでいると、東京の局については詳しく紹介し、視聴者の反応についても書かれています。「在阪各局も負けてはいない」以下は、東京で書かれた記事に付け足して書かれたものかもしれません。大阪本社以外へは、東京のことだけが配信されたのかもしれません。
 東京と他地域を比較した文章を書く場合、他地域が「負けてはいない」と言うのは、お世辞か過大評価に過ぎないでしょう。それほど東京はどうにもならない大きな存在になってしまっているのです。

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2020年7月20日 (月)

ことばと生活と新聞と(150)

「手術」の発音のバラエティ


「手術」は発音しにくい言葉です。どのような発音になるかを、自分の周囲で眺めてみますと、正しく発音しようとして「しゅじゅつ」と言う人もいますが、その他にも「しゅじつ」「しじつ」「しうつ」「しゅうつ」などの発音をする人もあります。方言的な特徴かとも考えて、私は『明石日常生活語辞典』にはそれらの言葉をすべて記載しました。
 発音が崩れて「しうつ」と言うのは、正しく発音することをあきらめて、発音しやすい別の音で代用しようという意思がはたらいているようにも思えます。けれども、その場合も、他の言葉と混同するような発音を避けているように思われますから、工夫をしているように感じられます。
 井上ひさしさんの「ニホン語日記より(その二)」という題名の文章に、こんなことが書かれていました。

 この間まで「シンジク派」と「シンジュク派」の両派がひそかに対立していた。筆者の知るところでは、かつて下町の浅草から柳橋あたりにかけての人たちは「シンジク」と言っていた。けれども今ではたいがいの人が「シンジュク」と発語している。
 もっと凄い例がある。筆者が国立療養所で庶務係をしていた頃のこと、厚生省から次のような文書が届いた。
 〈「手術」のことを、それぞれ勝手に、シジツ、シュジツ、シリツ、シュジュツと発音しているようだが、これからは「シュジュツ」と統一するように。〉
 (井上ひさし、『井上ひさし発掘エッセイコレクション 社会とことば』、岩波書店、2020年4月10日発行、146ページ)

 ずいぶん昔の出来事のようですが、よほど発音が乱れているという判断をしたからなのでしょうか、厚生省(当時)から文書が届いたということに驚きました。書き言葉ならともかくも、話し言葉の発音を統一しようという意図のようで、そんなことは実現できるのかと思います。個人の状況で、正しく発音しにくい人もあったはずです。
 私が日常生活で聞く言葉遣いとよく似ていますが、私が耳にする「しうつ」がなくて、私の周囲では発音しない「シリツ」が入っています。こういうことこそが地域的な特徴と言えるのかもしれません。
 今どきの言葉は外来語でしょう。「オペ」などという言葉を使う人が増えているのかもしれません。そういうことを思い浮かべると、昔は正しい発音の日本語を守ろうという意識が強かったのであろうと、懐かしい気持ちにもなりました。

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2020年7月19日 (日)

ことばと生活と新聞と(149)

ついでの「ご挨拶」


 国会中継などを見ていると、質問をする人が「はじめに、新型コロナウイルスでお亡くなりになった方にお悔やみを申し上げます」というようなことを述べることがあります。そんな言葉が2人、3人と続くこともあります。自然災害などが起こったときも同様です。
けれども、このような言い方は、何か義務的に述べているようで、あまり好ましいとは思いません。他の人が言っているから自分も同じように口にするという風情がただようような人もあります。このような口上は、心がこもっているように感じられなくてはなりません。口ごもったり言い間違えたりしたら逆効果です。
 「新型コロナウイルスでお亡くなりになった方」は全国に広がって、ひとりひとりの顔を思い浮かべることができません。大災害の直後にこのような言葉を聞くのは、その場面にふさわしい言葉だと思いますが、いつまでたっても同じ言葉を繰り返しているのは、単なる挨拶言葉のように聞こえてしまいます。
 悲惨な交通事故が起こった場所で、黙祷を捧げるような場面をテレビで見ることがありますが、その場合は1年後であっても、5年後であっても、参列者には、亡くなった人の面影が浮かぶことでしょう。
 それに対して不特定多数の人が対象である場合は、ついでの機会にご挨拶をしているという印象が強いのです。そういうことを述べるのなら、別の話をするときの冒頭だけに述べるのではなく、そのことだけに徹して丁寧に述べてほしいと思うのです。けれども、そのことだけに徹して述べる機会というものがあるのかというと、それはほとんど無いと思います。
夏の全国高校野球選手権大会が中止になりました。そのことを知らせる朝日新聞社と全国高等学校野球連盟の連盟の挨拶文が掲載されました。冒頭は次のようになっています。

 新型コロナウイルス感染症でお亡くなりになった方々にお悔やみ申し上げますとともに、罹患された皆様にお見舞い申し上げます。
 第102回全国高等学校野球選手権大会は6月下旬からの49地方大会、8月10日に阪神甲子園球場で開幕予定だった全国大会の中止をともに決定しました。安全と健康を最優先に考えた苦渋の決断です。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月21日・朝刊、14版、1ページ)

 配慮が行き届いた挨拶と見ることもできますし、述べようとする話題だけに絞った方がよいのではないかという考え方もできると思います。

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2020年7月18日 (土)

ことばと生活と新聞と(148)

取材先の偏り


 神戸の王子動物園のパンダは中国から貸与されていたのですが、期限が来たということで今年の秋には返すことになりました。テレビのニュースで、幼い子が「可愛いー。い なくなったら寂しいょー」と言っている姿が映し出されると、ほほえましく思い、同感します。けれども、大人の人の「もう少しいてほしい」などという言葉を聞いても、ありきたりの感想だと感じます。そんな、誰でも口にするような感想などはニュースに不要だと思うこともあります。
 新聞やテレビなどは、コメントを求めることをやめようとはしていません。ただ一人の人が、全体の代表者であると言わんばかりに氏名などを書いてニュースにしていることも多いのです。行楽や買い物などの記事では、軽く読み過ごせばよいのですから、目くじらを立てることはやめましょう。
 けれども、教育とか文化とか経済とかのやや専門的な記事を読んでいると、コメントなどを述べるのが同じ人に偏っていると思うことがあります。
 そのように感じているのは私だけではないようで、こんな文章が載っていました。

 最近、朝日新聞の紙面を眺めていて、「何かがおかしい」と感じることが増えた。今日の朝刊のはずなのに「前に読んだような気がする」という妙な既視感が漂う。この変な感じは一体何だろう。 …(中略)…
 よく登場する気がする私立開成中学・高校の柳沢幸雄前校長である。登場回数8回。では、同じく私立進学校である男子校の武蔵や麻布、女子校の桜蔭の校長はどうかというと、武蔵は2回、麻布や桜蔭はゼロ回だ。 …(中略)…
 しかし、これは氷山の一角だろう。取材先と記者が固定すれば偏りは避けられないと考え、社として防止策を講ずるほうが良い。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月10日・朝刊、13版S●、11ページ、「メディア私評」、新井紀子)

 文章は長文ですが、そのごく一部を引用しました。この文章では、教育関係の記事に的を絞って、デジタル検索サービスで検索した結果が詳しく述べられています。同じ記者が、同じ取材先を選んで記事にするから、既視感が漂うというわけです。
 残念なことは、教育界全体の話題であっても、記者の取材先は東京に偏っています。特定の地域の、特定の学校の校長が、教育界全体を代表する意見になっているのです。しかも、同じ人の意見が繰り返し掲載されているのです。
 報道も教育も中央集権です。他の地域の人の意見は軽んじられているのです。そして、一つの話題にコメントが一つということならば、そこで述べられていることが教育界全体を代表する考えと受け取られます。
 記者としては、これまで取材して気心が分かる人に再び聞いてみようという気持ちになるのでしょう。別の言い方をすれば、こういう方向の記事を書く(あるいは既に草稿はできている)から、あの人のコメントが都合がよいということでもあるのでしょう。
 これは記者の手抜きだとも思われます。記者が既に知っている人、記者にとって無難な意見を聞ける人、記事の内容に波風を立てない人、というような基準で選んでいるのかもしれません。
 教育に関する記事は、公立学校を避けて、私立学校の校長や教員にコメントを求めることが多いように感じられます。新聞に載れば自分の学校の宣伝になると思わない人は少ないでしょう。新聞社が私立学校偏重になれば私立校は喜んでいるでしょう。癒着です。けれども、そのコメントは教育界全体の意見とは齟齬することも起こるでしょう。
 大学入試制度や9月入学案などについての記事は、東京中心、進学校中心、私立学校中心の記事になっていました。そして、その記事を支えたのが、私学有名校の校長の意見であったのかもしれません。
 私たちは、同じ人の意見を何度も聞きたいとは思っておりません。いろいろな考え方のあることを知りたいのです。安易にコメントの取材先を決めないようにしてほしいと思います。

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2020年7月17日 (金)

ことばと生活と新聞と(147)

3密を「さける」のと「よける」のは行動が異なる


 新型コロナウイルスの感染を防止するためには、3密を回避することが大切だと言われています。3密回避の「避」という文字は、常用漢字の音訓表では「さける」と読むことになっていますが、「よける」と読むこともできます。
 3密回避のためにはどうすればよいのでしょうか。「3密をさける」ことをする最良の方法は、自宅に閉じこもることでしょうが、それに徹することは難しいでしょう。次の方法は「3密をよける」ことだろうと思います。
 「さける」と「よける」は似た言葉ですが、異なる部分があります。野球の打者には「よけたけれどもボールが当たる」ことがあります。死球です。体の動きについては「よける」ことはありますが、「さける」とは言わないのが普通の表現です。死球が恐いのなら、はじめから「試合に出ることをさける」のがよいのです。
 増水した川に落ちないようにするには「川に近づくことをさける」のが得策ですが、どうしても見回りをしなければならないときには「危ないところはよけて通る」ようにしなければなりません。
 「よける」は、危険な状態などにあわないように身をかわす、というような意味で使われることが多いと思います。
 3密回避は望ましい方法なのでしょうが、場面によっては思い通りに行かないこともあるでしょう。そんな場合は、3密を少しでも「よける」行動をしなければならないでしょう。
 私たちは、言葉を使うときに、熟語(漢語)を選んだり、外来語を選んだりすることがあります。漢語ももともとは外来語の一種だと考えることもできます。そんなときに、ふさわしい和語があれば、そんな言葉を選ぶのが好都合なこともあるでしょう。

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2020年7月16日 (木)

ことばと生活と新聞と(146)

前倒しはあっても、「後ろ倒し」はない


 新型コロナウイルスの感染拡大によって、高等学校などで休校が実施されて、地域や学校ごとの学習進度に差が生まれています。大学入試の日程や出題範囲をどうするかということも考えなければならないことになりそうです。
 入試日程のことについては、例えば、後ろの日付に変更するのが自然なのかもしれませんが、そうすることをどう言えばよいのでしょうか。普通に考えれば、「延期」「日延べ」「繰り延べ」「繰り下げ」などの言葉が思い浮かびます。
 このことを報じる新聞記事の見出しが、〈大学入試 日程どうなる? / 後ろ倒しか 予定通りか / 高校 意見分かれる / 多くの大学は「予定通りに」〉となっていました。その記事の一部を引用します。

 コロナ禍の休校で地域や学校ごとの学習の進度に差が出ている高校側は、後ろ倒しを求める意見も根強い。 …(中略)…
 今月上旬に全高長が全国の高校に行ったアンケートでは、大学入学共通テストを予定通り来年1月16、17日に実施すべきだと答えた高校が約7割、2週間や1カ月程度の後ろ倒しを求める高校が約3割だった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月17日・朝刊、14版、28ページ、伊藤和行・宮坂麻子)

 この記事の中には、この他の場所にも「後ろ倒し」という言葉が出てきます。まるで市民権を得た言葉のように使われています。
 国語辞典には「前倒し」は載っていますが、「後ろ倒し」は載っていません。人の姿を想像してみてください。後ろから押して前に倒すということは、危険が伴いますが、自然な倒れ方です。それに対して、「後ろ倒し」は、前から突っかかってきて後ろの方に倒し込むという乱暴な姿を思い浮かべます。「前」の対語は「後ろ」だというような、単純な考え方ではなくて、人の姿を思い浮かべながら、人々は言葉を使ってきたのです。「後ろ倒し」というような、人間の生理や心理に逆行するような言葉を使うことを避けてきたのは、日本の人々が心を大切にしていることのあらわれです。
 そういうことが失われつつあるのが日本語なのでしょうか。残念に思います。
 そもそも、全高長が全国の高校に行ったアンケートで「後ろ倒し」という言葉は使われていたのでしょうか。「後ろ倒し」は記者が使った言葉なのでしょうか。たぶん、報道に携わる人たちが使い始めた言葉であろうと思います。
 「後ろ倒し」というような下品な言葉を使わなくても、前述のように、日本語には「日延べ」「繰り延べ」「繰り下げ」などという言葉が、豊富に存在しています。記者の身に付いた言葉ではなく、よりよい表現を探して文章を書くのも記者の務めだと思います。仮に大学や高校の関係者が「後ろ倒し」という言葉を使ったとしても、望ましい言葉に言い換えるという姿勢を持ってほしいと思うのです。

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2020年7月15日 (水)

ことばと生活と新聞と(145)

ふだんの言葉で感染防止


 新型コロナウイルスの感染を防止するためにはいろいろな方策が用いられました。政府による緊急事態宣言や、東京都の東京アラートなどです。いろいろな行動の自粛も呼びかけられましたが、自粛と言えども強い働きかけであったと思います。それぞれが効果を発揮したことは確かですが、そのようなものが解除されたら感染者数が増えることになるのでは困ります。
 上の方から命じられたら従う、強く求められたら行動を改める、というような姿勢ではコロナ禍から抜け出すのは長い時間が必要になるのではないでしょうか。東京の感染者数が200人を超え、東京に隣接する県の感染者も2桁になりました。こんなことでは全国に広がって、大きな第2波を迎えてしまうかもしれません。首都圏の数字が目立っています。
 人々の心の持ち方が重要です。心に影響を与えるのは言葉です。非常だ、緊急だ、アラートだというような言葉ではありません。普段から自分の心を支えているような言葉が大切です。
 感染防止を津軽弁で呼びかける缶バッジが作られたというニュースがありました。

 地元出身者からは「3密防止と言われるより、しっくりくる」、県外客からは難解な津軽弁が「わからないのがおもしろい」と好評で、販売を始めた4月からの1カ月間で計千個以上を売り上げる人気となっている。 …(中略)…
 感染防止を呼びかける津軽弁は3種類で、「たがればまいね」(集まったらダメ)、「したらにねっぱぐな」(そんなに密接するな)と、3密の回避を促し、「いづだかんだあさぐな」(不要不急で出歩くな)と訴える。 …(中略)…
 「密集といわれても(人数は)何人から?と思うが、『たがれば』と言われればピンと来る」と田村さん。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月25日・夕刊、3版、5ページ、「地域発 青森県」、林義則)

 心に訴えかける言葉が届いたら、人々の行動も変わってくるのです。全国共通語のただ中にいる首都圏にいる人よりも、それぞれの地域に住んで方言を身に付けている人の方が、こういう言葉を心の中にたくさん持っているのでしょう。
 津軽弁の表現よりも言葉が長くなりますが、関西に住む私たちなら、こんな言い方をするかもしれません。
 「ひととこ(一所)に、そないにぎょうさん(仰山)、かたまったら、あかんがな」
 「あわ(慌)ててい(行)かんでもええとこ(所)へは、である(出歩)かんとこ」
 短く言うなら「かたまったらあかん」「あわててであるかんとこ」ということになりますが、そんな言葉の方が胸に響きます。単刀直入に、普段の言葉で語りかけたいものです。

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2020年7月14日 (火)

ことばと生活と新聞と(144)

「バズる」とはどうすること?


 大きな文字で〈「バズる」記事やめ 出会った豊かさ〉という見出しのインタビュー記事が載っていました。「バズる」とはどういう意味なのか、その言葉を知らない私には、記事を読んでも意味を推測することはできませんでした。
 本文で「バズる」が使われているのは、次の箇所です。

 数年前までは、記事がいつもソーシャルメディアでバズるので「バズライター」と呼ばれることもありました。個人ブログが一晩で数万アクセスを記録し、新しい働き方と注目いただいたことも。紹介した商品が売り切れる現象も起こり、「商品のバズらせ方」を教えて欲しいと依頼され、企業のコンサルティングもしました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月3日・朝刊、13版S、20ページ、「明日へのLesson」、加藤勇介)

 文筆家の塩谷舞さんに聞いたことをまとめた記事です。文章全体は引用した分量の6倍余りの記事ですが、「バズる」が使われているのはこの部分だけです。けれども、その「バズる」という言葉を見出しにも使っています。「バズる」ことをやめて豊かさに出会ったというのが見出しの意味ですから、「バズる」の意味が理解できなかっても、文章のいちばん言いたいことには差し支えないのでしょう。
 それにしても「バズる」とは何か、気になります。国語辞典に載っているはずはありませんから、インターネットで調べてみます。
 そうすると、さまざまな説明がされていることがわかりました。〈インターネット上で口コミなどを通じて一躍話題となる〉、〈ウェブ上である特定の事柄について話題にする〉、〈話題が爆発的に広がり多くの人の話題を集める〉などというような説明です。説明の重点の置き方は微妙に異なるところがありますが、共通点は「話題になる」ということのようです。
 どうして「バズる」をやめて「話題になる」という言い方をしないのでしょうか。「バズる」はインターネット上でのことに限定されているからなのでしょうか。そうであっても〈「話題になる」記事やめ 出会った豊かさ〉という見出しにしても、意味はじゅうぶん伝わります。
 本文の〈記事がいつもソーシャルメディアでバズる〉は「……話題になる」にしても意味はとおります。同様に、〈「バズライター」〉は「話題を集める書き手」と書けますし、〈「商品のバズらせ方」〉は「商品の話題の集め方」と書けます。インタビューの相手が使った言葉をそのまま用いて記事を書くのは楽なことですが、文章には工夫が必要でしょう。
 塩谷さんの人物紹介にも「フリーマガジン」「ウェブディレクター」「オピニオンメディア」などの片仮名が頻出しています。言われたとおりに書くのは楽ですが、これも工夫が必要でしょう。
 広く定着していない外来語を使って記事を書くときには、使ってよいかどうかの吟味をしっかりとしてほしいと思います。

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2020年7月13日 (月)

ことばと生活と新聞と(143)

「〇〇年記念」という区切りは、何のためにあるのか


 美術館などの催し物、大ホールでの演奏会、そして出版物などに、「生誕〇〇年記念」「没後〇〇年記念」などと銘打たれたものがあります。そのような名の付いた美術展などには、この機会を逃したら何年先になるかもしれないと思って出かけることがあります。けれども生誕や没後の年数に関わらず開催されるものも多いのですから、「〇〇年」にどれほど意味があったのかと思うこともあります。もちろんその年数に意義深いものが含まれることもあるのは否定しませんが、単なる惹句として使われている場合もあります。
 こんな文章を読みました。

 もはや誰も言わなくなってしまったが、今年はベートーベン・イヤーである。生誕250年。様々な企画が世界中で用意されていた。それがほとんど新型コロナの影響で中止になった。
 古典派音楽が専門の指揮者、鈴木秀美さんは昨年末、自身の楽団の指揮を1年間休止すると宣言した。体調などが理由だったが「ベートーベン・イヤーに乗っからずに済みそうでほっとしている。芸術はイベントではない」と公演後のトークで皮肉った。人類の宝をそう易々と「商品」にされてたまるか。そんな矜持を映す言葉だった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月8日・夕刊、3版、7ページ、「取材考記」、吉田純子)

 この機会に、と思って期待をしていた演奏者や音楽ファンがいたことは確かで、中止によって失われたものも多いでしょう。けれどもベートーベン生誕250年だから意味があり、249年や251年だから価値が薄らぐわけではないでしょう。ベートーベン・イヤーが商業主義と無関係ではないとは言えないでしょう。
 私たちはこのような宣伝の言葉に弱いことは確かで、知らない間にそんな口車に乗せられていることが多いように思います。あの人が亡くなって30年にもなるのかという感慨を持つことはありますが、あの人が生まれて200年かといっても時間の長さを感じるだけということもあるでしょう。
 美術展や演奏会だけでなく、出版物にもこの傾向が強いように思います。今年がそういう年に当たるのかということを教えてくれるのは意味がありますが、それに乗っかってしまうのが人間の弱いところです。美術展、演奏会、出版物などを商品として、利益を得ようとしている人が世の中には大勢いるのです。
 何十年ぶりに開かれるというオリンピックや万国博覧会も同じようなものかもしれません。何事をも商品にして、それで金儲けをしようとしている人がいるということを忘れてはなりません。
 商品化されたものに引かれないで、文化などの一つ一つを自分の目で見たり、耳で聞いたりしながら、自分で考えていくという習慣を身に付けておかなくてはならないと、深く思うのです。

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2020年7月12日 (日)

ことばと生活と新聞と(142)

「サ」も「パ」も自立した言葉ではない


 外来語はカタカナで書きますが、そのカタカナの最初の一文字をとって、その言葉全体の意味をあらわす表記法があります。プロ野球のリーグ名のセントラルを「セ」、パシフィックを「パ」と言いますし、国名のロシアを「ロ」と言うこともあります。
 こんな文章を読みました。文章全体に問題があると思いますので、全文を引用します。

 ホテルの朝食の席で、〈納豆〔略〕税サ込三六三円〉などと値段が書いてあります。これが高いかどうかはともかく、〈税サ込〉とは何だろう。「税込み」なら分かるけど……。
 はい、「税・サービス料込み」ということですね。「サ」の1字だけで「サービス料」を表します。ホテルやレストランでよく使われるですが、少々分かりにくい。以前は「サ別」(=サービス料別)というのも多く見ました。
 これだけ「サ」が目につくなら、辞書の項目にあってもいいだろう。そんなわけで、『三省堂国語辞典』では「サービス料」の意味の「サ」という項目を立てています。
 「サ」は、福祉分野でも「サービス」の意味で使われます。「サ責」と言えば介護の「サービス提供責任者」。「サ高住」と言えば「サービス付き高齢者向け住宅」。見守りなどのサービスつきの住宅です。
 カタカナ1字の略語で、もうひとつ辞書に載せてもいいと思うのは「パ」です。「パ・リーグ」ではなく「パーティー」のこと。「鍋パ」「たこパ」(=たこ焼きパーティー)など、これもよく見ます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月4日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「税サ込」という表記は広く行われていますから、わざわざ事新しく取り上げる必要はないと思います。「以前は『サ別』(=サービス料別)というのも多く見ました」というのは当然です。消費税の制度が始まる以前から使われていた表記法だからです。
 「辞書の項目にあってもいいだろう。…(中略)…「サービス料」の意味の「サ」という項目を立てています」という説明は矛盾しています。「サ責」や「サ高住」の「サ」は「サービス料」という意味ではありません。
 そして、このような表記は、この文章の冒頭で私が述べたこととは異なります。「セ」「パ」「ロ」は自立した言葉として、主語になり得ます。「セは、混沌とした首位争いを展開している。」などと言えます。
 それに対して、上に引用した文章に書かれている「サ」や「パ」はしっかり自立した言葉として使われていないのです。そこで述べられている「サ」と「パ」の使い方は、すべて「税サ込」「サ責」「サ高住」「鍋パ」「たこパ」というように、他の言葉と結びついてはじめて意味が示されるのです。「サ」「パ」は自立していません。こんな使い方の「サ」を国語辞典の項目に立てる必要はありません。
 話題を変えます。銭湯に大きな文字で「ゆ」と書いてあります。これは漢字の「湯」ではなくて、ひらがなの「ゆ」です。ひらがなの「ゆ」が独立した意味を持つのです。これこそ国語辞典の項目として採用すべきです。〈ゆ【湯】〉という見出し語のもとで、その一つの使い方として説明している辞典はありますが、そうではなくて、〈ゆ〉という独立した、ひらがなだけの見出し項目を立てるべきです。
 そして、もう一度考えてみてください。〈サ〉というカタカナ見出し項目や、〈パ〉というカタカナ見出し項目を立てて、「サービス(料)」とか「パーティー」とかの説明を書くでしょうか。〈ゆ〉に比べると、まったく自立していない言葉が〈サ〉や〈パ〉なのです。国語辞典は、個人の嗜好で特徴を出すものではありません。

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2020年7月11日 (土)

ことばと生活と新聞と(141)

相手の配偶者をなんと呼ぶか


 「ご主人」「旦那様」「奥様」などという言葉は、男性中心社会を反映してようだから使いにくいと感じている人がいます。私も同感です。けれども、日常的な話し言葉の世界においてまで、その言葉を追放して、「夫」「妻」のような言葉を使わなければならないとは思いません。
 「ご主人」「旦那様」「奥様」などに代わる言葉を、今の日本語から見つけ出そうとしても、なかなか難しいと思います。外国人の真似をするような外来語の導入は嬉しくありません。
 日常的にインタビューなどをする任務のある人は、相手の配偶者をなんと呼ぶかということを大きな問題と感じているようです。
 こんな記事を読みました。

 取材で初対面の人と話すときに迷うのが、相手の配偶者の呼び方です。「ご主人」「奥様」といった表現に上下関係を思わせる響きがある中で、他にどんな呼び方があるのか。 …(中略)…
 私は「お連れ合い」を使っています。「『お連れ合い』と言ってくれてうれしかった」というメールを取材の後でもらったことがある一方、「え? 主人のことですか?」と聞き返す方もいました。誰もがぱっと口にする言葉にはなり得ていない分、使い方の難しさも感じます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月7日・朝刊、13版S、11ページ、「論の芽」、田中聡子)

 この問題提起について、引用文で「…(中略)…」としたところに、ラジオパーソナリティーの綿谷エリナさんに聞いたことをまとめた部分がありました。けれどもこのインタビューは「相手の配偶者をなんと呼ぶか」という論点から外れたことも多く語られていますので、引用しません。
 まず私自身のことを書きます。私は年齢を重ねている人間ですから、話し言葉で「ご主人(さん)」「奥さん」を使うことに抵抗を感じておりません。
 「お連れ合い(の方)」という表現に抵抗感はありません。「連れ添う」という言葉は古くから使われていますから、「お連れ合い」は自然な表現です。古風な表現で、使う人が少なくなっていることは否めませんが、これから増えていってもよい言い方だと思います。ただし、夫婦関係にある男女の一方から見た相手を指す言葉ですから、夫を指すのか妻を指すのかわかりにくい場合もあるでしょう。
 「パートナーの方」という表現も増えてきているように思いますが、使いたくはありません。仕事のパートナーとか、研究者としてのバートナーという言い方もできる言葉で、相棒というような意味です。配偶者の意味に使いたくはありません。しかも、この言葉には、正式な結婚の手続きをしていない相手とか、同性同士の組み合わせの相手とかの意味にも使われています。
 配偶者の名前がわかっているときは、名前を使うこともあります。「吉田先生は……」と言って夫のことを指したり、「明子さんは……」と言って妻のことを指したりしますが、親しい場合でないと使いにくいかもしれません。

 この記事の話題は「相手の配偶者」の呼び方ですが、ちょっと話題を広げます。
 自分の配偶者については、私は「家内」と言うのがクセになっていますが、改まった場では「妻」と言います。私の配偶者は、私のことを「主人」と言っていますが、改まった場では「夫」と言っています。
 私よりかなり年若い人男性が、自分の配偶者のことを、「奥さんに相談してから返事をします」というように「奥さん」と言うのを聞いてとても驚いたことがあります。「わし(私)の嫁はん」というような、ちょっとふざけたような言い方は耳慣れたものでしたが「奥さん」には驚きました。けれども、この言い方を耳にすることが増えてきたように思います。
 女性が、自分の配偶者のことを、「田中は酒を飲みません」というように姓で言うことにも驚いたことがあります。しかも、結婚して20年とか30年の人が口にしています。
 相手の配偶者や自分の配偶者を呼ぶ言葉は、すぐに望ましい言葉が見つかるようには思えません。ただ、外来語(外国語)から答えを見つけ出そうとすることだけはやめてほしいと思います。

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2020年7月10日 (金)

ことばと生活と新聞と(140)

「掛」の謎が解けた


 長い間、なぜだろうと思っていたことが、ふとした拍子にわかることがあります。ここに述べるのはもう50年以上も昔のことです。
 学生時代のことです。神戸大学の事務室に行ったり、書類をもらったりしたときに、例えば教務掛とか学生掛とかの文字が使われていました。(実際に、教務とか学生とかの言葉であったのかどうかは、昔のことゆえ、記憶があいまいです。)それが教務係や学生係という意味だと思いましたから、誤解はありませんでした。係のことを「掛」の文字で表すことを古い文字遣いだろうと思っていましたが、それ以後、市役所や県庁などの書類などでこの文字遣いに出会うことは無かったように思います。
 井上ひさしさんの連載広告文を集めた、「ことばの泉」という題名の文章がありますが、その中にこんなことが書かれていました。

 「係大学よりも掛大学の方が上」という言い方が受験生の間にあるらしい。言語学の井上史雄さんによれば、昭和二十四年以降にできた新制国立大学の担当職名は「係」、それ以前の国立十大学(北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大、東京医歯大、東工大、神戸大)だけが「掛」を使用しているそうで、「係大学ウンヌン」はそこからきた言い方。こんなことが国語辞典に書いてあればおもしろいが、これは百科語事典が「掛」かもしれぬ。それとも隠語辞典が「係」かな。
 (井上ひさし、『井上ひさし発掘エッセイコレクション 社会とことば』、岩波書店、2020年4月10日発行、143ページ)

 この話はいつの頃の受験生のうわさ話であるのか、わかりません。「係大学」とか「掛大学」という言葉が今も使われているのかどうかも、わかりません。そもそも、現在も同じような使い分けの文字が踏襲されているのかどうかも知りません。
 それにしても、昭和24年より前にできていた大学と24年以降の大学で使う文字がちがうとは、ずいぶん大げさな話だなぁと思います。
 そういうわけで、私にとっては、ひとつの疑問が解消されたということです。

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2020年7月 9日 (木)

ことばと生活と新聞と(139)

「かたち」と「カタチ」と「形」


 ある日の夕刊と翌日の朝刊とに、大きな見出しがあって、同じ言葉がカタカナとひらがなとに書き分けられていました。
 それぞれの記事の見出しとリード文とを引用します。

 プロ野球 新しいカタチ / 当面は無観客・エアタッチ・球審マスク / ジェット風船タオル・共にZOOm観戦
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月6日・夕刊、3版、1ページ、見出し)
 プロ野球が19日、3カ月遅れで開幕する。新型コロナウイルスの感染を防ぐため、選手らは接触を極力避けるなど新しいスタイルで試合に臨み、当面の間は観客を入れないため応援風景も変わる。コロナ時代のプロ野球はどうなるのか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月6日・夕刊、3版、1ページ、木村健一・室田賢・伊藤雅哉)

 新しい旅のかたち / オンライン宿泊してみた / 画面越し「農場ツアー」に活路 / 心に革命起こす機会 / 「人と人」に新発想を / 温泉旅「不要」と言われぬために / 観光地、顧客層広げて
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月7日・朝刊、13版S、7ページ、「フォーラム」、見出し)
 自由な移動は制限され、レジャーを楽しむこともままならない。空前の訪日観光ブームから一転、観光地は新型コロナウイルスで深刻な苦境にあります。でも、今だからこそ日常を離れ、旅がしたい。そう願う人も多いはず。新しい生活様式になじむ新しい旅の可能性とは。旅する人、受け入れる人の声から探ります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月7日・朝刊、13版S、7ページ、「フォーラム」、担当執筆者多数)

 「カタチ」や「かたち」は、見出しに使われるほどですから、キイワードと言ってよいでしょう。けれども、リード文や本文では使われていません。簡単な意味ではなく、いろいろな意味合いを込めた言葉として使っているようです。
 プロ野球の記事のリード文から「カタチ」に近い言葉を探すと、「(新しい)スタイル」「(変わる)風景」といったところでしょうか。
 旅の記事のリード文から「かたち」に近い言葉を探すと、「(新しい)生活様式」になじむ「可能性」といったところでしょうか。
 どうやら、「かたち」や「カタチ」という仮名書きの言葉は、「形」という漢字書きの言葉よりも、広い意味をそなえているようです。国語辞典では「形」という語の意味をそこまで広げて書いているわけではありません。だから漢字の「形」を使わないで、仮名書きにするのは理由のあることだと思います。
 それにしてもカタカナ、ひらがなを自由に使ってよいというものではないでしょう。そのことについてはきちんと法則を設けるべきです。
 カタカナだとカタチという表記で強調されますが、ひらがなにすると「かたち」というようにカギカッコ付きにしたくなるという気持ちは理解できますが、私は、日本語(和語)をカタカナ書きにすることには賛成できません。日本語の表記は外来語と一線を画すべきであると考えます。

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2020年7月 8日 (水)

ことばと生活と新聞と(138)

「お疲れさん」は以前から使っていた、ごく普通の日常語


 もう1回だけ、「お疲れ様」の話題を続けます。7月4日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」のページの〈「お疲れ様です」考〉の中に、倉持益子さん(社会言語学者)からの聞き書きが掲載されています。その一部を引用します。

 いつごろから「お疲れ様」という言葉が広がったのでしょうか。
 時期ははっきりしませんが、芸能界、例えば歌舞伎役者から広まったようです。戦前から活躍した俳優がよく使っていたという証言が残っています。芸能界からメディア関係者のあいさつとなり、じわじわと一般社会にも浸透したのではないかと考えられています。 …(中略)…
 1980年代ごろからマナー本などで「『ご苦労様』は目上の人に使ってはいけない」という記述が増え、使いづらくなりました。取って代わったのが「お疲れ様」だったのです。 …(中略)…
 これを使っている限りひんしゅくは買いにくい。代わる言葉の候補も、私はまだ見いだせません。まだまだ「お疲れ」時代は続くのではないでしょうか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月4日・朝刊、13版S、13ページ、「オピニオン&フォーラム 論の芽」、田中聡子)

 「お疲れ様」という言葉は、「芸能界からメディア関係者のあいさつとなり、じわじわと一般社会にも浸透した」と言えるのでしょうか。「お疲れ(になられた)でしょう」というような表現はごく普通の日常の言葉です。「ご機嫌さん」「お早うさん」と同じように、「お疲れさん」という言い方は自然に発せられます。短く「お疲れ!」と言うこともあるでしょう。それは相手を思いやる気持ちから発せられていたはずです。それならば、何の問題もありません。同じ言葉が、今では軽い挨拶言葉に転落してしまったということが問題なのです。
 「ご苦労様」の代替として「お疲れ様」が使われるようになったというのも疑問です。上に述べたように、「お疲れさん」はそんなに新しい言葉とは考えられません。「ご苦労様」と「お疲れ様」は意味が異なる言葉です。それを代替品として使うというのは、心のこもらない言葉遣いということになります。言葉は、そんなふうにして変化していくと考えるべきではないと思います。
 「これを使っている限りひんしゅくは買いにくい」という評価は大問題です。ひんしゅくを買いにくいと肯定するのなら、この言葉を新聞で取り上げる必要はありません。そうではなくて、「お疲れ様」は使い方(どんな場面で、どのように使うかということ)に問題があるのです。「お疲れ様(です/でした)」を認めるか認めないかということではなく、どんな場面で、どのように使うかということを、深く考えるべきだということなのです。

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2020年7月 7日 (火)

ことばと生活と新聞と(137)

挨拶という役割だけでは、言葉は相手の心に届かない


 前回の話題「お疲れ様です」の続きです。7月4日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」のページに〈「お疲れ様です」考〉という見出しの企画が掲載されました。赤塚りえ子さんに聞いた話をまとめた記事に対する反応です。
 残念に思ったことは、葉書やメールで寄せられた読者の意見が約40通であったということです。何百万人の読者のうちで、この話題に関心を持った人数があまりにも少なかったのは、言葉への関心が薄いということではないでしょうか。そのせいでしょうか、読者からの反応は短くまとめられていて、その特集ページでは3人の方にインタビューした聞き書きが大きなスペースを占めていました。
 私は、前回のブログで、「お疲れ様です」と「お疲れ様でした」とは、その言葉を口にする人の心の状態がちがうということを書きました。この企画記事の全体の中で、「お疲れ様でした」という表現に言及しているのは、たった1カ所だけでした。3人のインタビューでは、どなたも、その違いについての発言はなかったようです。
 言及されている、その1カ所を引用します。

 肯定的な意見も多々ありました。「夫婦の夕食は『お疲れ様でした』で始まります」という男性は「基本的に温かい『ことば』。これからも大切にしていきたい」とのこと。ねぎらい合えるご夫婦、うらやましいです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月4日・朝刊、13版S、13ページ、「オピニオン&フォーラム 論の芽」、田中聡子)

 私は前回のコラムで、「相手が確実に疲れていると思われているときには『お疲れ様でした』と言います。その人の仕事ぶりなどに一日中、接していた場合などには、腹の底から『お疲れ様でした』と言います。」と書きました。この夫婦の場合はまさしくそれに該当します。けれども、単なる挨拶言葉として使う「お疲れ様」(というような尻切れの言葉)は、相手の心にしっくり届かないということでしょう。
 「ご苦労様でした」「お世話様でした」というような表現は、軽い挨拶言葉としては使いません。本当に相手に苦労をかけた、世話をしてもらったという心がこもっている言葉です。「昨日はご苦労様!」とか「いろいろお世話様!」というような、ぶっきらぼうな表現とは質が異なっています。
 似たような言葉もすべて、同じように考えるべきでしょう。「ご馳走様になりました」「ご愁傷様でございました」「お気の毒様でした」「お待ち遠様でした」「お生憎(あいにく)様でした」「お粗末様でした」という過去形を使った表現は、相手の思いを推察した上で発せられる言葉だと言うべきでしょう。
 相手の心と無関係に発せられる場合の「お疲れ様(です)」は、かえって相手の心を傷つけることがあります。その言葉を発する人の人格や品性が疑われることになるかもしれません。

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2020年7月 6日 (月)

ことばと生活と新聞と(136)

「お疲れ様です」と「お疲れ様でした」


 日常的な挨拶の言葉に悩むことがあります。「ご苦労様」をすべての人に向かって言うのはよくない、「おはようございます」は何時頃までなら使えるのだろう、「こんにちは」という短い挨拶は失礼ではないか、などと考えると、思案をしてしまうことがあります。
〈疲れてなくても「お疲れ様です」 便利だけど…?〉という見出しの記事がありました。海外経験のある赤塚りえ子さんに聞いた話をまとめたものです。次のようなことが書かれていました。

 2006年に12年間過ごした英国から日本に戻った時、驚いたのが「お疲れ様です」の嵐でした。メールはもちろん、オフィスのあいさつも電話もです。そんなに疲れているとは思えない朝から、一日中「お疲れ様です」が続くので、「一体これは何なんだろう」と不思議で、辞書やネットで語源や使い方を調べたほどでした。 …(中略)…
 「みんな疲れている」という共通認識があるから、「お疲れ様です」とねぎらい合っているのかもしれない。そう感じるようにもなりました。
 最初のうちは、どのタイミングで使うのかが分からず、戸惑いの連続でした。でも少しずつ、「こんにちは」とか「さようなら」のような軽いあいさつの代わりなんだ、と理解しました。確かに、メールの書き出しが「こんにちは」だと、ちょっとなれなれしい。「お疲れ様です」はすごく便利な言葉だと分かりました。今では「とりあえず書く」まで日本社会に順応してしまい、あいさつでも、うまく使えちゃう自分がいます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月4日・朝刊、13版S、11ページ、「論の芽」、田中聡子)

 疲れているかいないか分からない人に向かって「お疲れ様」は使いにくいと思います。私は、メールの冒頭に「お疲れ様です」と書いたり、帰りの電車で出会った友人に「お疲れ様です」と言うことはしません。私がこの言葉で挨拶をされたときの気持ちは複雑です。疲れていないよ、と言いたいときがありますが、そんな言葉は口には出しません。単なる挨拶語だと思っているからです。挨拶として「お疲れ様です」を使うことは、私の場合は、ありません。書き言葉として「お疲れ様です」と書くことはありません。押しつけがましいと感じるからです。
 けれども、「お疲れ様」を全く使わないかと言うと、そうではありません。相手が確実に疲れていると思われているときには「お疲れ様でした」と言います。その人の仕事ぶりなどに一日中、接していた場合などには、腹の底から「お疲れ様でした」と言います。
 ここまで書くとお分かりになったと思いますが、私は「お疲れ様です」という現在表現の軽い挨拶言葉は使いませんが、本当に疲れていると思われるときには「お疲れ様でした」という過去表現で、ねぎらいの気持ちを表すことはするのです。職場の同僚に「お疲れ様でした」という別れの挨拶をすることには抵抗感は持ちません。
 【ブログの文章は、前もって書いたものを、1日につき1編ずつを載せています。この文章は、あらかじめ7月3日に朝日新聞社東京本社あてにメールで送りました。その翌日7月4日の朝刊に、この話題についての特集記事が掲載されました。】

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2020年7月 5日 (日)

ことばと生活と新聞と(135)

アベノマスクよりも国語辞典を


 今の日本の首相は、「積極果断な」政策を、「躊躇なく」「間髪を入れず」「一気呵成に」実行しているという自負があるようです。このような言葉を何度も口にしていますが、国民の耳には届きません。国民が聞く耳を持っていないのではなく、発せられる言葉があまりにも空虚であるからです。本人の心の中から出てきた言葉ではなく、周辺の者が書いた言葉を読んでいるだけだからかもしれません。
 もうすぐ「首相用語集」がまとめられて、その意味も記述されるかもしれませんが、その意味・用法は一般の国語辞典と大きく異なるところがあるように思われます。その「首相用語集」が国民に配られたら、言葉の意味の軽さに国民は驚くに違いありません。
 お礼に、国民は首相に、ごく一般的な国語辞典を一冊、差し上げたく思うでしょう。日本語の一つ一つの言葉にはこのような意味・用法があるのだと知っていただくために、差し上げたくなるのです。
 アベノマスクというものが届きましたが、マスクに多額の予算をかけたり、GO TOキャンペーンの取扱手数料を多額に準備したりするよりも、この際、全国の家庭に良質な国語辞典を配付する方が、国家予算の使い方としてはよほど優れたように思います。
 井上ひさしさんの連載広告文を集めた、「ことばの泉」という題名の文章がありますが、その中にこんなことが書かれていました。

明治の初期、新政府は『英和対訳辞書』を作り開拓使学校全生徒に配った。惣郷正明氏の研究によれば、その数は四千部。大学南校(東京大学の前身)も学生に和英辞典を無料配布したらしい。こちらは二千。時代がちがうから同日の談ではないが、これは検討に値する。たとえば全国の中学生に質のいい国語辞典を無料で配るのだ。
 (井上ひさし、『井上ひさし発掘エッセイコレクション 社会とことば』、岩波書店、2020年4月10日発行、136ページ~137ページ)

 これは冗談半分の提言ではありません。ばかげた使い道を考えるよりも、効果のうんと高い予算の使い方だと思います。首相の言語能力の向上にも役立つはずです。全国の中学生ではなく、全国の家庭のすべてに配ればよいのです。

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2020年7月 4日 (土)

ことばと生活と新聞と(134)

贋物の音声がはびこる


 新型コロナとは関係なく、以前からテレビで贋物の音声がはびこっていました。音楽やお笑い番組などで、実際にその場で起こった歓声や拍手などではなく、効果音を取り入れている番組が多くなっていました。効果音と言うと肯定的な言葉になりますが、実際にはそこにない音を追加するのですから、これは状況の作り替えであり、意図的な改変です。内容の異なったものに仕立て上げるのであり、贋物づくりです。こういうことがなぜ責められないのだろうと思っていました。
 相撲やプロ野球などが無観客で行われると、これまでのような大観衆のもとでは聞き取れなかった音が聞こえて、新鮮な気持ちになりました。相撲の行司などの声、力士の声やぶつかったときの音など、野球のバットやボールから出る音、ボールがミットにおさまる音、あるいは選手同士の掛け声などです。無観客ゆえの臨場感が生まれます。
 そのようなことに反して、わざと音声を作り出そうという営みがあることを知りました。こんな記事がありました。

 「いけー」「頼むぞ」。23日のプロ野球・千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズの試合。観客のいないZOZOマリンスタジアム(千葉県美浜区)に歓声が響く。千葉ロッテの井上晴哉選手が九回に同点打を放つと、拍手や声援はひときわ大きくなった。
 活用されたのは楽器メーカー大手ヤマハ(浜松市)が開発した「リモート応援システム」。スマホなどのアプリから「歓声」「拍手」など4種類のボタンを押すと、右翼席のスピーカー3台から、あらかじめ録音された約100種類の男女の声援や拍手がランダムに再生される仕組みだ。ボタンを押した人が多くなるほど音量も大きくなる。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年6月27日・夕刊、3版、8ページ、有留貴博・新田修)

 「あらかじめ録音された約100種類の男女の声援や拍手がランダムに再生される仕組み」というのですから、その球場で出た音(これまでの試合で録音された音)ではなく、作り出した贋物の音です。しかも、「右翼席のスピーカー3台から」出る音というのは、相手チームにとっては、試合をかき乱される音です。
 この記事を書いた記者は、このような応援作戦を肯定的に捉えているようですが、実際の観客の声援とはまったく異なります。試合を妨害する行為です。こういうことが拡大していけば、純粋にスポーツを楽しむことが阻害されかねません。スポーツ精神に反する行為であるのですから、排除しようという声があがることになるかもしれません。
 新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、人々の助け合おうとする態度や、自分から進んで行動を慎もうという姿勢などが、私たち国民の持つ特性として認識されました。しかし一方で、この機に乗じて金儲けを企てたり、相手に打ち勝とうと作戦を練ったりする者が現れています。スポーツの場にふさわしい行為とは思えません。どのようにすることが社会に貢献することになるのかということをよく考えてほしいと思います。

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2020年7月 3日 (金)

ことばと生活と新聞と(133)

どうして毎年、同じ時期に同じ記事・写真なのか


 元旦の新聞の社会面の片隅に必ずと言っていいほど掲載される記事と写真があります。朝日新聞などの全国紙の大阪本社発行の紙面に、ほぼ例外なく掲載されるのです。他の本社発行の社会面には載せられていないかもしれませんが、大阪本社版は十年一日のごとき様相です。いいえ、10年どころではないのかもしれません。
 それは、京都の歳末の風物詩の「をけら詣り」の様子です。ちょっと注目すべきは昔々は「おけら」という仮名遣いであったものが今は「をけら」になっていることぐらいです。京都には寺社がたくさんあり、大晦日の行事もいろいろ行われているのに、毎年毎年「をけら」だけを載せる理由が私にはわかりません。
 例えば、5月15日に行われる「葵祭り」は古くからの伝統を引き継ぐ行事ですから、毎年、その日の夕刊に写真と記事が掲載されるのは当然だと感じています。「をけら」も古い伝統を引き継ぐものでしょうが、新聞社は大晦日の寺社行事の取材をそれに限定してしまっているように思われるのです。
 さて、別の話題に移ります。他の地域にお住まいの方はお気づきでないと思いますが、毎年、衣更えの時期になると必ずと言っていいほど写真が掲載される学校があります。これは、その学校が広報活動をして各新聞社に情報を流して、新聞社がそれに飛びついているのかもしれません。この記事・写真は毎年載るかどうかは確認しておりませんが、かなりの頻度であることは確かです。たくさんの学校があるのに、特定の学校のことばかり報道するのは、まるで癒着があるかのような印象を受けます。
 今年の記事を引用します。

 神戸市灘区の私立松蔭中・高校で26日、衣更えがあり、マスクを着けた生徒たちが、伝統の白いワンピース姿で登校した。
 もともと今月18日から夏服に切り替える予定だったが、新型コロナウイルスの影響で休校が継続。分散登校で学校が再開したこの日から衣更えとなった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月26日・夕刊、3版、7ページ、遠藤美波・西岡臣)

 たまたま通りがかりに衣更えの中高生を見たというのではなく、きちんと計画を立てて記事にしていることは、文章を読んでもわかります。
 白一色のワンピースですから、写真としても見映えがよいのですが、神戸市内にはたくさんの学校があるのに、毎年のように記事にするのはこの学校のことなのです。記事にしやすいという気楽さで、毎年続けて載せるのであれば、記者の怠慢のようにも思います。それとも学校と新聞社とに深いつながりがあるのでしょうか。これも十年一日のごとき記事の作成です。

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2020年7月 2日 (木)

ことばと生活と新聞と(132)

不完全な文が連続する「天声人語」


 前回の続きです。まずは6月1日の「天声人語」を引用します。原文は▼印で段落が変わる形になっていますが、段落は行を改めて引用することにします。

 「大人も初めてのピンチにどうすればよいかわからず、なやんでいます。みなさんは歴史の当事者です」。そう呼びかけたのは1年3組の担任の先生。群馬県邑楽町にある長柄小学校では4月から、先生が交代で思いを学校のサイトに書いてきた
 内容は自由。飼育係の先生は「にわとりのミルクと小雪はとても元気です」。チョコの箱の写真とともに「銀のエンゼルマークが出たんです。あと4枚必要です(笑)」という楽しいメッセージも
 図書室の先生はお気にいりの詩を途中まで紹介し、「続きを読みたい人は、学校が始まったら図書室に来てください」と誘った。小林淳一校長(57)は「休校、再開、また休校と目まぐるしい変化でした。子どもたちを何とか励ましたくて始めた試みです」
 授業はなかったけれど、各地で先生たちは知恵を絞った。慣れないラジオに出演して語りかけたり、町役場に出向いて防災行政無線で言葉を贈ったり。10人でダンスする動画の投稿もあった
 さあ6月。きょうから久しぶりに学校へ戻る人も多いだろう。新しいクラスは溶け込みやすいかな。担任の先生はどんな感じ? 遅れた授業はどうなるの。だれしもドキドキハラハラのはず
 「心っていう漢字ってパラパラしてていいと思わない? 心は乱れて当たり前」。絵本『きんぎょがにげた』の作者、五味太郎さんの言葉をみんなに贈りたい。教室に戻るのがつらかったら無理は禁物。あせらず、あわてず、学校生活を取り戻していこう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月1日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 例えば第1段落の文章は、1文目は引用文だけで、2文目は体言止めの文です。3文目でやっと普通の文章になります。これは新聞記者特有の表現であって、学校教育に持ち込んで真似をしてもらうような書き方ではありません。
 それでは、前回に書いた箇条に沿って指摘していきます。
 「①句読点がきちんと施されていません。段落の最後に句点がありません。」については、すべての段落が該当します。このような新聞特有の書き方は、学校教育とは相容れません。
 「②体言止めの文や、文末を省略してしまっている表現が多くあります。また、活用語をきちんと最後まで表現していない文も多くあります。」については、短い文章の中に次々と出てきます。第2段落の1文目の「自由」、3文目の最後の「楽しいメッセージも」、第4段落の2文目の「贈ったり」、など尻切れトンボの日本語が続出しています。子どもたちに対して、こんな文章も許されるということを教えているのです。
 「③主語と述語が対応していない文が多く、特に、述語を省略している不完全な文が多いのです。」については、第2段落の2文目の「飼育係の先生は」という主語に対する述語がありません。第3段落の2文目は「小林淳一校長(57)は」の述語が省かれています。わかっているなら書かなくてよいという理屈は成り立ちません。
 その他に気づいたことを書きます。第3段落の1文目に来て、やっと整った文が書かれました。けれども漢字・仮名の使い分けで言うと「お気に入り」は漢字で書くのが普通です。「今日」を「きょう」と書くのも新聞の用字です。単に文字数合わせのために利用されているのかもしれません。第5段落の「ドキドキハラハラ」の片仮名も新聞の用字でしょう。文末の「ドキドキハラハラのはず」も尻切れ表現です。第6段落の「無理は禁物」も尻切れで、いささか舌足らずな文章です。
 「天声人語」は中途半端な文字数を設定しています。きちんとした日本語にしようという意識よりも、その文字数に過不足なく合わせようとして、執筆者が遊んでいるのです。そのようなものが学校教育の手本になるはずがありません。昔の「天声人語」に立ち帰ることを考えなければなりません。
 このようなことは、ここに引用した文章だけのことではありません。毎日毎日、同じようなことが繰り返されています。それを、模範的な文章として書き写させようとしているのです。大人には通用するでしょうが、子どもたちにこのような文章の書き方を広めてはいけません。
 こんなことを指摘しても、新聞社は読者の意見などに返事を書こうという意志などはお持ちでないことはわかっていますが、このまま書き続けられると学校教育(国語指導)との関係において問題が大きいと思っております。

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2020年7月 1日 (水)

ことばと生活と新聞と(131)

記者特有の文章を学校教育に持ち込まない

 6月1日の朝日新聞の「天声人語」は、多くの文字に振り仮名を施しています。振り仮名を付けなくても中学生・高校生には読めるはずですから、この措置は小学生にも読んでほしいという願いが込められていると思います。
 「天声人語」には書き写すためのノートも準備されていて、執筆者は自分の書いた文章が学校教育にとっては手本になるものであるという自負を持っておられるようです。
 けれども、私は「天声人語」の文章は学校教育において手本になるようなものではないと思っています。こういう文章を教室に持ち込むことはやめてほしいと思っています。
 誤解がないように申しておきますが、かつての「天声人語」は教室で扱うことができました。問題を感じるのは現在書かれているような文章のことです。文字数が少なくなって、不適切な表現になってきているということです。
 私はこのコラムで「天声人語」の文章を折りに触れて批判してきました。朝日新聞社にもそれらの文章は送りましたが、返事をいただいたことはただ一度もありません。大新聞社の優秀な担当者が書く文章に文句を言うな、という姿勢であることを強く感じております。けれども、学校教育に役立つ文章表現というのは、このような文章ではありません。
 「天声人語」の文章は、記者がニュースなどの紙面に書くような文章の体裁から抜け出してはおりません。誤解のないように書かれていますが、文章としては整っていないのです。子どもたちが、文章を書くときの手本にしてはいけないのです。
「天声人語」の文章が不適切なものであるということを、いくつかの点から申します。①句読点がきちんと施されていません。段落の最後に句点がありません。②体言止めの文や、文末を省略してしまっている表現が多くあります。また、活用語をきちんと最後まで表現していない文も多くあります。③主語と述語が対応していない文が多く、特に、述語を省略している不完全な文が多いのです。
 「天声人語」は半端な文字数で書かれています。その文字数を守って、文章を書き続けておられる執筆者の努力には感服しますが、それは新聞社の紙面構成の都合による字数制限でしかありません。学校教育では、そんな半端な字数で文章を書かせることはありません。学校教育で行う字数制限とは、根本から目的が異なっています。そして、コラムはその文字数に合わせるために、おかしな文を書き連ねて、一つの文章にしているのです。
 「天声人語」を大人が読めば、意味を誤解することはありません。洗練された文章になっていると思います。けれども、この文章を教室で使うということは、文章の書き方の手本であるという意味が加わります。とりわけ国語の教材として扱おうとすれば、厳密な意味できちんと文法を守ったものでなければなりません。その意味では「天声人語」(少なくとも現在書かれているもの)は落第です。手本にはなりません。
 きちんとした文法などに沿わない文章が、毎日毎日、書き続けられているのです。大げさな言い方をすれば、美しい日本語の表現を崩していくような営みを続けているのです。学校教育で参考にしてほしいと言うのなら、そういうことをきちんと守って書かなければなりません。
 このように言えば、執筆者はお気づきにならなければなりませんが、いっこうに文章の書き方が改善されません。ひとつひとつを細かく指摘することは心苦しいのですが、次回は、6月1日の文章を例にして述べることにしたいと思います。

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