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2020年8月31日 (月)

【掲載記事の一覧】

 酷暑が続いておりますが、新型コロナウイルスの感染はおさまりません。
安倍首相が引退を表明して、政治・経済の状況も変化を見せようとしています。
 このブログは2006年8月29日に開設しましたから、まる14年が過ぎました。1日の休載もなく、毎日書き続けてきました。掲載記事数は6300本を超えました。
 ブログをお読みくださってありがとうございます。
 お気づきのことなどは、下記あてにメールでお願いします。
    gaact108@actv.zaq.ne.jp
 これまでにブログに連載した記事を、内容ごとに分類して、一覧を記します。掲載日をもとにして検索してください。

【日本語に関する記事】

◆ことばと生活と新聞と (1)~(192)~連載中
    [2020年2月22日 ~ 連載中]

◆言葉の移りゆき (1)~(468)
    [2018年4月18日 ~ 2019年8月31日]

◆日本語への信頼 (1)~(261)
    [2015年6月9日 ~ 2016年7月8日]

◆言葉カメラ (1)~(385)
    [2007年1月5日 ~ 2010年3月10日]

◆新・言葉カメラ (1)~(18)
    [2013年10月1日 ~ 2013年10月31日]

◆ところ変われば (1)~(4)
    [2017年3月1日 ~ 2017年5月4日]

◆おもしろ日本語・ふしぎ日本語 (1)~(29)
    [2007年1月1日 ~ 2009年6月4日]

◆現代の言葉について考える (1)~(7)
    [2007年7月1日 ~ 2007年7月7日]

◆文章の作成法 (1)~(7)
    [2012年7月2日 ~ 2012年7月8日]

◆自分を表現する文章を書くために (1)~(11)
    [2007年10月20日 ~ 2007年10月30日]

◆六甲の山並み[言葉つれづれ] (1)~(4)
   [2006年12月23日 ~ 2006年12月26日]

◆地名のウフフ (1)~(4)
    [2012年1月1日 ~ 2012年1月4日]


【兵庫県明石市などの方言に関する記事】

◆明石日常生活語辞典・追記 (1)~(111)
    [2019年9月9日 ~ 2019年12月31日]

◆明石日常生活語辞典の刊行について (1)~(8)
    [2019年9月1日 ~ 2019年9月8日]

◆【明石方言】 明石日常生活語辞典 (1)~(2605)
    [2009年7月8日 ~ 2017年12月29日]

◆『明石日常生活語辞典』写真版 (1)~(4)
    [2010年9月10日 ~ 2011年9月13日]

◆「入口」はどこまで続くか (1)~(3)
    [2019年11月28日 ~ 2019年11月30日]

◆じいさまはヤマへしばかりに -明石日常生活語辞典を作るということ-
                        (1)~(9)
    [2017年12月30日 ~ 2018年1月7日]

◆私の鉄道方言辞典 (1)~(17)
    [2007年9月13日 ~ 2007年9月29日]

◆暮らしに息づく郷土の方言 (1)~(10)
    [2007年8月11日 ~ 2007年8月20日]

◆兵庫県の方言 (1)~(7)
    [2020年2月15日 ~ 2020年2月21日]

◆兵庫県の方言(旧) (1)~(4)
    [2006年10月12日 ~ 2006年10月15日]

◆姫路ことばの今昔 (1)~(12)
    [2007年9月1日 ~ 2007年9月12日]

◆ゆったり ほっこり 方言詩 (1)~(42)
    [2007年2月1日 ~ 2007年5月7日]


【郷土(明石市の江井ヶ島)に関する記事】

◆名寸隅の船瀬があったところ (1)~(5)
    [2016年1月10日 ~ 2016年1月14日]

◆名寸隅の記 (1)~(138)
    [2012年9月20日 ~ 2013年9月5日]

◆朔日・名寸隅 (1)~(19)
    [2009年12月1日 ~ 2011年6月1日]

◆江井ヶ島と魚住の桜 (1)~(6)
    [2014年4月7日 ~ 2014年4月12日]

◆西島物語 (1)~(8)
    [2008年1月11日 ~ 2008年1月18日]

◆名寸隅舟人日記 (1)~(16)
    [2016年1月1日 ~ 2016年4月2日]

◆屏風ヶ浦の四季 [2007年8月31日]


【『おくのほそ道』に関する記事】

◆『おくのほそ道の旅』【集約版】 (1)~(16)
    [2018年3月18日 ~ 2018年4月2日]

◆『おくのほそ道』ドレミファそら日記【集約版】 (1)~(15)
    [2018年4月3日 ~ 2018年4月17日]

◆奥の細道を読む・歩く (1)~(292)
    [2016年9月1日 ~ 2018年3月17日]


【江戸時代の五街道に関する記事】

◆中山道をたどる (1)~(424)
    [2013年11月1日 ~ 2015年3月31日]

◆日光道中ひとり旅 (1)~(58)
    [2015年4月1日 ~ 2015年6月23日]

◆奥州道中10次 (1)~(35)
    [2015年10月12日 ~ 2015年11月21日]


【ウオーキングに関する記事】

◆放射状に歩く (1)~(139)
[2013年4月13日 ~ 2014年5月9日]

◆新西国霊場を訪ねる (1)~(21)
[2014年5月10日 ~ 2014年5月30日]

◆ことことてくてく (1)~(26)
    [2012年4月3日 ~ 2012年5月3日]

◆テクのろヂイ (1)~(40)
    [2009年1月11日 ~ 2009年6月30日]


【国語教育に関する記事】

◆国語教育を素朴に語る (1)~(51)
    [2006年8月29日 ~ 2007年12月12日]

◆改稿「国語教育を素朴に語る」 (0)~(102)
    [2008年2月25日 ~ 2008年7月20日]

◆相手を思いやる姿勢と、自分を表現する力 (1)~(3)
    [2006年10月2日 ~ 2006年10月4日]

◆これからの国語科教育 (1)~(10)
    [2007年8月1日 ~ 2007年8月10日]

◆高校生に語りかけたこと (1)~(29)
    [2006年11月9日 ~ 2006年12月7日]

◆高校生に向かって書いたこと (1)~(15)
    [2006年12月8日 ~ 2006年12月22日]


【教員養成に関する記事】

◆教職課程での試み (1)~(24)
    [2008年9月1日 ~ 2008年9月24日]

◆学力づくりのための基本的な視点 (1)~(7)
    [2006年10月5日 ~ 2006年10月11日]

◆教員志望者に必要な読解力・表現力 (1)~(18)
    [2006年10月16日 ~ 2006年11月2日]

◆教職をめざす若い人たちに (1)~(6)
    [2007年6月1日 ~ 2007年6月6日]


【花に関する記事】

◆写真特集・薔薇 (1)~(31)
    [2009年5月18日 ~ 2009年6月22日]

◆写真特集・さくら (1)~(71)
    [2007年4月7日 ~ 2009年5月8日]

◆写真特集・うめ (1)~(42)
    [2008年2月11日 ~ 2009年3月16日]

◆写真特集・きく (1)~(5)
    [2007年11月27日 ~ 2008年11月13日]

◆写真特集・紅葉黄葉 (1)~(19)
    [2007年12月1日 ~ 2008年12月15日]

◆写真特集・季節の花 (1)~(3)
    [2007年5月8日 ~ 2007年6月30日]


【鉄道に関する記事】

◆鉄道切符コレクション (1)~(24)
    [2007年7月8日 ~ 2007年7月31日]


【その他、いろいろ】

◆生きる折々 (1)~(45)
    [2020年1月1日 ~ 2020年2月14日]

◆神戸圏の文学散歩 (1)~(5)
    [2006年12月27日 ~ 2006年12月31日]

◆百載一遇 (1)~(6)
    [2014年1月1日 ~ 2014年1月30日]

◆茜の空 (1)~(27)
    [2012年7月4日 ~ 2013年8月28日]

◆消えたもの惜別 (1)~(10)
    [2009年9月1日 ~ 2009年9月10日]

◆母なる言葉 (1)~(10)
    [2008年1月1日 ~ 2008年1月10日]

◆足下の観光案内 (1)~(12)
    [2008年11月14日 ~ 2008年11月25日]

◆昔むかしの物語 [2007年4月18日]

◆小さなニュース [2008年2月28日]

◆辰の絵馬    [2012年1月1日]

◆しょんがつ ゆうたら ええもんや (1)~(13)
    [2009年1月1日 ~ 2010年1月3日]

◆1年たちました (1)~(7)
    [2007年8月21日 ~ 2007年8月27日]

◆明石焼の歌 (1)~(3)
    [2007年8月28日 ~ 2007年8月30日]

◆失って考えること (1)~(6)
    [2012年9月14日 ~ 2012年9月19日]

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ことばと生活と新聞と(192)

部分に焦点を当てた教育記事


 夕刊1ページの全面を使った記事に、「大学選びの夏 オンラインの波」という見出しのものが掲載されました。この時期に多く開催されるオープンキャンパスが、新型コロナウイルスの感染拡大でオンライン化が相次いでいるという記事です。各大学の取り組みが詳しく述べられているのですが、最後の部分にまとめのようなものが載っていました。こんなふうに書かれています。

 異例の受験シーズンに向けて、どのように準備すればよいのか。
 河合塾大阪校の山田浩靖校舎長によると、河合塾では、5~6月の模擬試験で、基礎問題を解けない高3生が例年より目立ったという。長期休校によって、多くの学校では1学期はカリキュラムの消化に追われ、学力の定着に至らなかったためだとみる。 …(中略)…
 山田さんは受験生に「新型コロナの終息は見えないが、やれることをやるしかない」とアドバイスする。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月22日・夕刊、3版、1ページ、花房吾早子・長富由希子)

 まとめの文章だけでも27行に及びますが、こういう場合の発言者はどうして予備校関係者なのでしょうか。高等学校の校長や教諭にコメントを求めた記事はごく僅かしか、目にしません。新聞社特約の予備校や私立学校が存在するようです。
 「河合塾では、5~6月の模擬試験で、……」と限定された状況の中では、全体のまとめの記事としては失格です。特定の予備校を受講する高校生で、高校生全体の動向を判断してはいけません。もしかしたら、一部の恵まれた生徒群でしかあり得ないのです。どうして、高校生全体に対する広い視野を持つ、公立高校関係者のコメントを載せないのでしょう。大きな疑問です。
 不思議なのは、「山田さんは受験生に『新型コロナの終息は見えないが、やれることをやるしかない』とアドバイスする。」という表現です。「やれることをやるしかない」というのは、どんな時代にも、どんな人にも当てはまります。これがアドバイスだというのなら、受験指導とは気楽なものと言えるでしょう。受験産業の指導法と、現実の高等学校の生徒指導とはかけ離れたものかもしれません。予備校の見方や指導法は、商業主義に浸かったものかもしれません。

 話は変わりますが、こんな特集記事がありました。

 【特集】あと半年! 働くパパママ 受験の乗り切り方
 コロナ禍が収まらないなか、中学受験の準備が本格化してきました。家族で走り切るために気をつけることは。経験者や専門家に助言してもらいました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月23日・朝刊、「EduA」1ページ)

 そして「小6秋~冬はやることがいっぱい!」という記事があって、8箇条が羅列されています。2~3ページに経験者や専門家の助言が載っています。裕福な家庭の親たちの取り組みが書かれています。小学校6年生の親たちをけしかけるような内容です。
 全国の小学校の児童にはほとんど関係のない記事です。人間を育てるためには、もっと他になすべきことがいっぱいあるのにと思います。
 首都圏だけで、国立・私立の中学校受験者は5万人ほどのようです。中高一貫校の受験者が2万人ほど、全国にしても僅かの人数でしょう。学校教育(小学校教育)のうちのごく僅かの人向けに、こんな新聞記事は不要です。宣伝・広報の役割を持った「EduA」という新聞は不要です。ごく一部の児童・生徒や私立学校などに焦点を当てて、正規の学校教育をおとしめるような新聞は即刻、廃止にしてほしいと思います。

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2020年8月30日 (日)

ことばと生活と新聞と(191)

〝民間表記〟のこと


 私が幼かった頃、気になった漢字の文字遣いがありました。看板などに「明石公円」と書いてあるのです。明石公園そのものをこのように書くことはありませんでしたが、商店や医院などの所在地の表記に「明石公円前」というように書かれたものをいくつも見ましたから、頭の中に残っています。
 他の地域で、公園のことを「公円」と書くことはしていなかったように思います。当時の看板は手書きのものが多かったように思います。たぶん公園と書くよりも「公円」の方が書きやすかったのでしょう。また、「公円」という書き方を見たから、真似て書くことをしたということかもしれません。
 けれども、子どもでも、正しくは公園と書くのだとわかっていましたから、これは俗っぽい書き方だと思っていました。
 八百屋さんなどの店先に手書きで、白才、人肉、正油などと書いてあっても、ハクサイ、ニンニク、ショウユであるとわかりますから、人々は間違いを指摘することもなく、商店の用語であろうと理解していたように思います。今でも使われています。けれども、スーパーなどではパソコンで処理しますから、このような文字遣いは減っているようです。
 こんな記事がありました。

 焼き肉店にテイクアウトのメニューが出ていました。下の〈B・B丼〉が謎ですが、ビビンバ丼のことらしい。それよりも目を引かれたのは〈白才キムチ〉です。野菜の「白菜」をこう書いています。
 誤字でしょう、と言うのは簡単ですが、それにしてもあちこちのお店で目にします。私が最初に「白才」を見つけたのは2001年です。昔の雑誌『言語生活』1966年7月号にも報告があり、半世紀以上の歴史があることが分かります。 …(中略)…
 これを「民間表記」と呼ぶ人もいます。
 生活のための文字は、素早く書けることも大切です。昔はいろいろな当て字や略字が作られましたが、スマートフォンの普及で知られなくなりました。少し寂しいですね。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月25日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 私は国立国語研究所が編集に関わっていた『言語生活』(筑摩書房)の「目」欄や「耳」欄への投稿に夢中になっていた時期がありますから、この雑誌を〈昔の雑誌〉と書かれるとちょっと寂しい気持ちになります。「白才」は私の感覚では21世紀になるずっと前から使われていたと思います。
 ところで上記引用文の文末「スマートフォンの普及で知られなくなりました。」という表現は、私にはどういう意味なのか、理解できませんでした。スマートフォンの普及によって、どういうことが知られなくなったのでしょうか。
 なお〈B・B丼〉という表記がビビンバ丼をあらわすとすれば、それは私が何度も指摘しているような、新聞見出しのアルファベット略語の濫用ということを真似たものだろうと思います。新聞の見出しが社会に悪影響を与えていることの、一つのあらわれだと思います。

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2020年8月29日 (土)

ことばと生活と新聞と(190)

「字引」と「生き字引」


 「生き字引」とは、〈生きた字引〉ということであって、知識が広く、物事を何でもよく知っている人のことです。言葉をよく知っているという意味ではなく、もっと広い意味で使われています。
 長野県警山岳安全課が山の特徴や注意事項などを記した「信州山カード」(全55種類)を作ったという記事の中に、こんなことが書かれていました。

 昨年までチラシを配っていた。「山に入るのにもらっても邪魔になるでしょう」(県警山岳遭難救助隊の櫛引知弘隊長)と、ポケットに入るサイズに改めた。個々の山の事情に精通しきれていない警察官にとって「字引」的な役割を果たす狙いもある。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月27日・夕刊、3版、5ページ、「地域発 長野県から」、里見稔)

 〈「字引」的な役割〉とは、言葉の意味を教えるという役割ではないことは明らかです。それぞれの山についての特徴や注意事項などを知らせるという役割です。〈「字引」的な役割〉は比喩表現ですが、それでも、「字引」は辞書(国語辞典)という意味を超えています。
 手元の国語辞典で「字引」を引いてみると、たいていは字引=辞書という説明になっています。『三省堂国語辞典・第5版』だけが、〈①字書。②辞書。③事典。〉となっていて、「事典」にまで広げています。
 中村明『日本語 語感の辞典』では、「字引」の項目で、〈「字典」のほか「辞典」をさすことも多いが「事典」は含まない。〉と説明していますが、広い意味を設定しておいた方がよいように思います。
 「字引」の説明に加えるべきこととして、例えば、「それぞれの分野などについての広い知識内容」というようなことも必要ではないでしょうか。
 そうすれば、「信州山カード」には、〈「字引」的な役割〉すなわち、〈それぞれの山についての、広い知識内容(山の特徴や注意事項)を知らせる役割〉があるという意味が明確になるでしょう。

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2020年8月28日 (金)

ことばと生活と新聞と(189)

骨太でない「骨太の方針」

 政治に文学的修辞を持ち込むことはどうかと思いますが、「骨太の方針」という言葉を聞きます。この言葉を解説する記事がありました。

 政府は毎年、この時期から来年度の予算案をつくり始める。案に反映させる政策や改革の方向性をまとめた文書を「骨太の方針」と呼んでいる。 …(中略)…
 正式名称は、「経済財政運営と改革の基本方針」だ。首相をトップとする経済財政諮問会議が決めている。 …(中略)…
 最近は各省庁や与党がやりたい政策を全部のせるだけになっている。19年の文書は、01年の約2倍にあたる75ページにまで増えた。 …(中略)… 首相の大方針を打ち出す「骨太」の本来の意義はうすれてしまったね。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月18日・朝刊、14版、2ページ、「いちからわかる!」、山本知弘)

 政策の大方針で骨子となるものなら「骨太の方針」と呼んでよいのかもしれませんが、「やりたい政策を全部のせるだけ」羅列するものに、そんな呼び名を与えることは正しいことではありません。「やりたい政策」というのは願望だけであって、現実性が乏しいようにも見えます。
 話題は変わりますが、女性リーダーを各分野で3割にする目標を、日本は17年かけても達成できなかったというニュース記事の中に、こんなことが書かれていました。

 自民党の二階俊博幹事長は21日の記者会見で、目標未達成について問われ、「あくまで努力目標ですから。今後に期待したい」。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月22日・朝刊、14版、4ページ)

 実は同じ日の1ページの記事見出しは、次のようになっています。

 「指導的地位に女性3割」目標 / 政府、20年達成を断念
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月22日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 国の掲げた「目標」がこのように踏みにじられるものであるのなら、「方針」も骨太という言葉を掲げつつ貧弱な骨のものになっても不思議ではないでしょう。酷暑の季節とは裏腹に、寒々しさを感じてしまいます。
 ついでながら、こんな寸評が掲載されました。

 女性活躍を掲げる安倍政権なのに、「202030」、あっさり先送り。やる気も国際感覚も欠く男性支配政治。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月22日・夕刊、3版、1ページ、「素粒子」)

 この「202030」に、「にいまるにいまるさんまる」という振り仮名が施されています。オリンピックの「東京2020」に振り仮名が施されることはありませんが、放送では「にいゼロにいゼロ」と読んでいるのが大半です。
 「2020」と書いたものは「にいれいにいれい」と読むのが日本語の本来です。「にいまるにいまる」は「0」を「まる」と読ませています。「にいゼロにいゼロ」は日本語の発音と英語の発音を混ぜた読み方です。こんな簡単なことについても、新聞・放送各社には基本的な方針が作られていないようです。

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2020年8月27日 (木)

ことばと生活と新聞と(188)

新聞は「サブスク」だそうです

 もともとの日本語の言葉も、外来語のカタカナ言葉も、短く言うことが行われています。新聞や放送の常道のようです。発音を少しだけ短くすることにどれほどの意味があるのでしょうか。ほとんど意味がないことを日常的に行っているのです。
 私たちの日常生活でも短く言うことはありますが、それは臨時的なもので、愛嬌がある場合も多いのですが、新聞や放送がそれをすると、その言い方が定着することにもなります。短縮した言い方を新聞や放送が日常的に生産を続けると、それが無理やりに定着させられていくことにもなります。
 こんな記事がありました。

 毎月定額を支払ってモノを借りたり、楽しんだりするサービスが急拡大している。「サブスクリブション」(サブスク)とよばれ、音楽や動画の配信だけでなく、腕時計やカバンのレンタルなど幅広い分野に広がる。一定額で使い放題の仕組みがうけているようだ。
 日本サブスクリブションビジネス振興会によると、新聞の定期購読などサブスク自体は古くからあるビジネスモデルだが、近年の特徴はITを駆使している点。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月27日・夕刊、3版、3ページ、「知っとこ!DATE」、森田岳穂)

 この記事の見出しは、〈レンタルにも広がる「サブスク」〉となつています。そのようなサービス方法を初めて知った人に対しても、「サブスク」という略語で知らせようとしているのです。
 新聞の購読料が「サブスク」と呼ばれるものであることを、私は初めて知りました。昔から購読料と呼び慣わしてきたものを、突然のように、それも「サブスク」だと言われても納得はできません。
新聞の購読料は「毎月定額を支払っ」ていますが、「借りたり、楽しんだり」しているわけではありません。「一定額で使い放題」という印象はありません。つまり、新聞購読料と、「腕時計やカバンのレンタルなど幅広い分野」とが、同じ「サブスクリブション」に該当するということが理解できません。そういうことを説明しないで(つまり、「サブスクリブション」の定義をきちんと説明しない段階で、「サブスク」という短縮語だけを気軽に使ってほしくないのです。
 その言葉が使い始められた(日常語として定着した)最初の段階から、「サブスク」という言葉が耳慣れたものになったとすると、それが「サブスクリブション」という言葉の短縮形であるということや、その言葉の本来の意味などは理解されないままになってしまうかもしれません。日本語に対して、新聞や放送の犯している罪悪です。
 それにしても、カーネーション、スイートピー、チューリップ、グラジオラス、ポインセチア、セイタカアワダチソウなどの花の名前を短縮形で呼ばないのは何かの理由があるのでしょうか。
 ブッポウソウ、タンチョウヅル、アオバズクなどの鳥の名前や、ツクツクボウシ、アゲハチョウ、ショウリョウバッタ、ウスバカゲロウなどの無視の名前を、短縮形で呼ばないのは何かの理由があるのでしょうか。わずかな良識が残っているということなのでしょうか。
 1年に1度くらいしか紙面に現れないような言葉すら、短縮形で書いてしまう新聞には、日本語に対する敬虔さがまったく欠如してしまっています。
 このような疑問に対して、新聞社の考え方が説明された記事を、私は読んだ記憶がありません。嘆かわしいことです。

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2020年8月26日 (水)

ことばと生活と新聞と(187)

国語辞典における「語り部」

 戦争や災害などの経験を、そのような経験を持たない人たちに語って伝えることをしている人を「語り部」と言います。戦争の語り部を務めていた方々が高齢となって亡くなられる方々が増えています。
 こんな文章があります。「語り部」という言葉の、ごく普通の使い方でしょう。

 静かな駅舎には似つかわしくない巨石が目にとまった。京都府南部の井手町にあるJR玉水駅。6トンの塊は500メートル先の川から転がってきた。戦後の復興期に起きた大水害の物言わぬ語り部である
 地元ガイドの宮本敏雪さん(85)はいつもこの石を前に語り始める。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月25日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 「語り部」という言葉は、ずっと以前から使われている日常語だと思いますが、国語辞典が追いついていないように思います。国語辞典の説明を列挙します。

『現代国語例解辞典・第2版』
 上代、文字のなかった時代に、朝廷に仕えて、歴史、伝説などを語り伝えることを職とした者。また、部民。
『旺文社国語辞典・改訂新版』
 古代、朝廷に仕えて、古い言い伝えや伝説を語り伝えることを職業とした氏族。
『三省堂国語辞典・第5版』
 古代日本で、古い言い伝えや伝説を専門に語りつたえた氏族。
『岩波国語辞典・第3版』
 日本で上代、朝廷に仕えて、古い伝承を暗誦して語るのを職とした氏族。
『新明解国語辞典・第4版』
 歴史書が無かった上代に、その部族の古い伝承を暗誦して語り伝えることを職とした氏族(に属する人)。
『広辞苑・第4版』
 古代、儀式に際して旧辞・伝説を語ることを職とした品部。出雲・美濃・但馬などに分布。
『明鏡国語辞典』
 上代、朝廷に仕えて、神話・伝説などを後世に語り伝えることを職とした氏族。▽ある事柄を語り伝える人の意でも使う。

 国語辞典の記述は、このような状態です。私の手元にある国語辞典は、『明鏡国語辞典』を除いて、この言葉の現代語としての意味を記載していません。その後の改訂版で、すべての国語辞典が、現代語としての意味・用法を記載したのでしょうか。指摘されない限りは旧態依然とした辞典も多いので、ちょっと心配しています。
 ところで、『明鏡国語辞典』の説明は、「ある事柄を語り伝える人の意でも使う」となっていますが、今では、「人」だけでなく、6トンの塊のような「物」も「語り部」の役割を果たしているのです。

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2020年8月25日 (火)

ことばと生活と新聞と(186)

アルファベット略語を使う意図は…


 不思議な見出しの書き方がありました。「CF 現場へ迅速な支援」という見出しで、その「CF」の右側に小さな文字で「クラウドファンディング」と書かれています。その記事に書かれている文章を引用します。

 厚生労働省のクラスター対策班に加わる東北大の小坂健教授が、クラウドファンディング(CF)と組んで新型コロナウイルスの感染拡大に苦しむ人々を支援する基金を設立し、約2万人から資金を集めた。CFの可能性や日本の危機管理の課題を小坂氏に聞いた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月24日・朝刊、13版S、4ページ、「新型コロナ 揺れる経済」、木村裕明)

 カタカナ語をすぐさまアルファベット略語に置き換えるのは新聞・放送の常套手段です。本文の書き方は理解できます。「クラウドファンディング」という言葉は長いので、この記事では「CF」と書くという意志を表明して、2度目以降は「CF」と書いているのです。ただし、それはあくまでも、その記事の中での操作であって、日常的に「CF」という文字遣いを勧めているわけではないと理解しています。
 ところが見出しの書き方は異例です。「CF」と書いて「クラウドファンディング」と読むように求めているのです。あるいは、「CF」と書けば「クラウドファンディング」という意味であると理解せよと求めているのです。使われている言葉が難しい場合は、小さな説明記事が載ることがありますが、この記事には「クラウドファンディング」の説明はありません。
 言うまでもないことですが、「CF」というアルファベット略語は、古くは「コマーシャル フィルム」の略として使われていたように思います。広告宣伝用のテレビや映画のことです。あるいは「センター・フォワード」の略でもあります。ラグビーなどで前衛の中央にいる選手のことです。そういうものに加えて「クラウドファンディング」の意味でも使おうというのです。このようなアルファベット略語の使い方は、幾通りもの使い方を行って、制限を設けないのでしょうか。
 なお「CF」は発音上は「シーエフ」でしょう。文字の大小は異なりますが、カリホルニウムの元素記号としての「Cf」もありますし、参照せよ、比較せよの意味で使う「cf.」もあります。
 本当は「クラウドファンディング」という言葉も日本語に直した言葉で表示すべきでしょうが、それができないのなら、文字数が多くても「クラウドファンディング」と書くべきではありませんか。

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2020年8月24日 (月)

ことばと生活と新聞と(185)

外来語の表記のしかた


 ミシンとマシンは、外来語としては別々の意味を持っています。ミシンは布や皮を縫い合わせたり刺繍をしたりするのに使う機械のことに限定して使われますが、マシン(マシーンとも書きます)はさまざまな機械の意味で使われます。ミシンはsewing machineに由来する言葉であり、マシンはmachineですが、ミシンとマシン(マシーン)の発音はmachineの部分に基づいています。ミシンのことミシーンなどと書くことはありません。外来語として受け入れる場合は、一定の表記に定めるべきで、様々な形を認めたら混乱してしまいます。
 新型コロナウイルスの感染によって、「withコロナ」という言葉が用いられたりしますが、日本語の文章の中で「with」の部分だけ英語そのものの発音をするのは気障に聞こえます。ウイズコロナとかウィズコロナという表記をして、日本語の音韻に基づく発音をすべきでしょう。「GO TOトラベル」というような馬鹿げた表記も、政府が率先してすべきことではありません。
 商売上の都合で、特殊な書き方をする場合がありますが、それはあくまで例外です。様々な表記を受け入れることはできません。だから、そんな表記を見つけたと言って、得意がる必要はありません。
 こんな文章がありました。

 下町の老舗の洋食店も、このコロナ禍でテイクアウトを始めた模様。店外ポスターに〈お持ち帰り タンスチュー 2,810円〉とあります。リッチなお弁当です。 …(中略)…
 シチューは、昔は「シテュー・シチー・スチウ・スチュー・スティウ」など、いろいろに書かれました。 …(中略)…
 洋食店で、古風な「スチュー」の語形を今も使っているのはなぜでしょうか。これは簡単ですね。このほうが伝統がにじみ、おいしい雰囲気が出るからです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月1日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 昔は「シテュー・シチー・スチウ・スチュー・スティウ」など、いろいろに書かれたと述べていますが、それはシチューという言葉に定着するまでの過渡的なものでしょう。シチューという表記に定着したら、外来語としてはシチューを使うべきでしょう。ただし、商売上の都合で、他の表記が現れても仕方がありません。
 けれども、国語辞典は標準的な表記を採用すべきです。いくつもの表記を見出し語として採用すべきではありません。また、外来語として日本語の文章の中に使われる言葉を口にする場合、外来語の部分だけを本来の発音にして読むことはすべきではありません。それは日本語の中に外国語が混在する表現になってしまいますから。

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2020年8月23日 (日)

ことばと生活と新聞と(184)

実感できない数字


 私は、何%とか何割とか言われた場合、その数値を実感する力に乏しいと思っています。1万円のものを8000円で買えたときは2割の得をしたと思いますし、高性能電池を倍の時間使い続けて、一般の電池より2倍の長持ちをしたと思うことはあります。
 けれども、降水確率が70%とか、薬の効き目が2倍とかと言われた場合に、降水確率70%と40%の違いを実感したり、効き目が1倍と2倍ではどう違ったのかということを実感することはできません。
 磨いたらステンレスの輝きが2倍になったとか、写真を調整したら赤みが70%増したとかということになると、単なる宣伝文句のような気がします。何らかの基準でそんな数値をはじき出しているのでしょうが、そんな基準と%との関係がわからないのです。
 だから、「数字は冷静に捉えたい」という見出しの記事を見ても、冷静になれません。こんなことが書かれています。

 駅で見かけた日本対がん協会の広告。〈がんは、万が一じゃなく二分の一〉とのコピーに目が留まりました。「万が一がんになったら……」などと言うことがありますが、実は2分の1の確率だったのか。 …(中略)…
 ただし、「2分の1」の数字には注意が必要です。これはあくまで「2人に1人は、亡くなるまでにがんになる」という意味です。働き盛りの半数ががんになるわけではありません。また、死亡リスクの数字は、もちろんもっと低いのです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月27日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 〈がんは、万が一じゃなく二分の一〉という言葉は巧いなぁと思います。人の心に訴えかける力があります。
 がんについては、「2人に1人は、亡くなるまでにがんになる」ということは、いろいろなことから知っています。けれども、個人にとっては「私はガンになるか、ならないかの、2つに1つだ」という程度の理解でしょう。
 ガンにかかる割合が「2人に1人」(50%)であろうと、30%と言われようと70%と言われようと、自分にとっては2分の1だと感じるのは自然な受け取り方でしょう。全国民の平均値が自分にも適用されるはずはありませんから。
 それにしても、他に比べて赤みが増したものを「70%赤みが増した」などと実感する能力は私以外の人も持ち合わせていないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 新型コロナウイルスの感染者が確実に増えていても、非常事態宣言が出ていた頃よりも事態は深刻ではないというような解釈が持ち出されるのですから、数字はどのようにでも基準や解釈を変えられるのです。数字を冷静に捉えることよりも、数字を宣伝に利用することの方が優先しているのかもしれません。

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2020年8月22日 (土)

ことばと生活と新聞と(183)

「自粛」という言葉を使うことを自粛する

 

 

 これまでにも使われてきた言葉ですが、新型コロナウイルス感染者の拡大に伴って、毎日のように目にする言葉が「自粛」です。けれども、私たちが日常使う言葉として「自粛」が増えたのではなく、政府・自治体や、新聞・放送などの使う言葉としての頻度が高まったということだろうと思います。
 「自粛」を国語辞典で引くと、自分から進んで行動や態度を慎むこと、というような説明がされています。私としては、その「行動や態度」のうち、「態度」に重点が置かれているように感じてきました。そのような心を持つ、姿勢になる、ということです。
 ところが現在の用例を見ると「行動」に重点が置かれているように感じます。しかも、「自ら進んで」ということではなく、他からの要請に従って、仕方なく「やめる」というような状況にまで、「自粛」という言葉を使っています。「自粛」という言葉が持っている根幹の意味合いは骨抜きになってしまっているのです。
 「豪雨調査 研究者派遣自粛」という見出しの記事がありました。本文の文章を引用します。

 

 九州豪雨に伴う研究者の災害調査に、新型コロナウイルスの影響が出ている。大規模災害では、全国の研究者が被災地に赴いて様々な角度から原因を分析するが、今回は関連学会が、感染者が多い関西や関東などからの派遣を自粛。 …(中略)…
 関西でも現地入りを自粛する研究者が多い。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年7月21日・夕刊、3版、8ページ)

 

 新型コロナウイルスについては、感染をさせてはいけないという面と、感染させられては困るという面があります。感染者の多い地域から出かけることによって相手地域に感染を広げてはいけないということと、相手地域から感染を受けては困るということとがあります。その両面を厳密に区切ることはできません。感染させる・感染させられるの2つは分けることができません。感染させてはいけないという(態度・行動の)面だけなら「自粛」は当てはまりますが、感染させられるのを避けるという(行動の)面では「自粛」という言葉遣いは不適切かもしれません。
 私は「自粛」という言葉を使うことを避けて、「やめる」と言えばよいと思います。他からの強い要請に従って「やめる」場合に、「自粛する」という言葉は適切ではありません。「自粛」は名詞にも動詞にも使えますから便利ですが、新聞・放送がこの言葉の意味・用例を無視して、やたら使うことは控えるべきだと思います。「やめる」という動詞は、名詞にすれば「やめ」ですから、締まりのない表記になりますが、「自粛」の垂れ流しよりは望ましいと思います。

 

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2020年8月21日 (金)

ことばと生活と新聞と(182)

一部始終を伝えるテレビ

 8月20日、日光市のゴルフクラブに小熊が迷い込んだというニュースがありました。熊は人に危害を加えることがありますから、熊の姿を見つけるとそれがニュースになることがあります。日光市のことを伝える、あるテレビ局の映像に、「熊の捕獲作戦の一部始終を伝える」という言葉が使われていました。字幕にも、その言葉が書かれていました。ニュースの内容は、何人かの人が捕獲に関わって、小熊を捕まえて市有林に連れていって放したというものです。
 テレビは大げさな言葉が大好きです。誰それさんに密着取材したとか、何かの事件を徹底取材したとか、一部始終を伝えるとか、の言葉を使います。
 この日のテレビ映像は、「一部始終を伝える」と言っても、捕獲に当たる人たちの動きをうしろから撮影していて、時間はせいぜい数分です。実際の取材はもう少し時間がかかったのかもしれませんが、映像に「一部始終」が盛り込まれているとは思えません。これが捕獲の全体像であるのなら、一部始終を伝えるというのは大風呂敷の表現です。
 「密着取材」という言葉も、他局の取材班が混じり込んでいないというだけであったり、相手との親密感がちょっとだけあったりという程度のものが多いのです。取材を受ける側もたいそうな「密着」などをされたら迷惑ですから、辞書的な意味での「密着」など、ありえないことなのです。
 「徹底取材」も同じです。言葉で言うほどの「徹底さ」のあるものなどはほとんどありません。こんな程度を「徹底」というのなら、どれもこれも徹底取材と言ってよいだろうと思われるようなものが多いのです。
 「一部始終」を伝えるというのも、本当に始めから終わりまでを丁寧に伝えるようなものは、ほとんどありません。「一部始終」という言葉には、こまごまとしたものまですべて、という意味が込められているのです。
 これらはすべて、内容の伴わないものを言葉だけを大仰に言い立てているのです。視聴者を言葉でおびき寄せているに過ぎないのです。
 ところで、テレビ関係者は、「一部始終」を伝えるという言葉を、〈経緯の一部を時間を追って〉伝えるという意味であると誤解しているわけではないでしょうね。そんなことも言いたくなってきます。
 「一部始終」は、事柄の初めから終わりまでという意味です。それでは「一部」ではなくて「全部」ではないかと思われるでしょう。ところが、「一部始終」は、ひとつの書物の初めから終わりまでというのが、もともとの意味です。その書物に書かれていることのすべてを、あますところなく伝えるということです。何かの事柄についても、それに関わることをすべて隅から隅まで残りなく伝えるということです。ちょっとした事件であっても、たとえその表面に現れた事象だけであっても、一部始終を伝えるということはたいへんなことであるのです。わずか数分で一部始終が伝えられると思うのは、伝えようとする人の思い上がりに過ぎません。
 さて、小さな国語辞典で「一部始終」を引いてみると、〈事柄の初めから終わりまで〉という意味は書いてありますが、〈ひとつの書物の初めから終わりまで〉という意味が書かれていないようです。それでは、〈初めから終わりまで〉の意味で使う言葉に、なぜ「一部」という文字が含まれているのかということは、わからないままになってしまいます。「一部」は部分という意味ではなく、一冊(書物全体)という意味であるということをきちんと書かなければなりません。

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2020年8月20日 (木)

ことばと生活と新聞と(181)

天声人語の文章構成法


 「天声人語」の文章の書き方は、一般の文章とは異なった仕組みになっていますので、読んでいて戸惑うことがあります。例えば、冒頭がこんな表現で始まる文章があります。

 「千、リ、川、月、丁、天、カ、ツ、丸、〇」。金魚の競り市で使われる符丁で、順に1から10の数字を指す。ふだんなら仲買人のそんな声が金魚の卸売市場を飛び交う季節だが、今年はウイルス禍で競りも活気を欠く
 全国有数の産地、愛知県の弥富金魚漁業協同組合長の伊藤恵造さん(68)は「体験したことのない大打撃です」と話す。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月18日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 金魚の競り市で使われる符丁が紹介されて、それについての説明が述べられますから、それより後ろで述べられる文章で、その符丁が意味を持つのかと期待して読み進めますが、関係する記述はまったく出てきません。私はこんな符丁を知っているぞと述べただけで、文章表現上は何の意味も持っていません。つまり初めの2文は書かなくてよい文章です。ただ、この日の文章は、最初から最後まで金魚について書かれていますから、一貫性はあります。
 その翌日の「天声人語」はこんなふうに始まっています。

 「東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京 書けば書くほど恋しくなる」。そう記したのは、少年時代の寺山修司である(『誰か故郷を想はざる』)
 青森から数年後に上京することになる寺山だが、東京への憧れは尋常ではなかった。人々を引きつけてきた大都会。それが今は、外からこう映るか。「東京東京……聞けば聞くほど遠ざけたくなる」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月19日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 どうしてこれだけの文字数を使って、同じ言葉を繰り返す必要があるのでしょうか。寺山修司を批判しているのではありません。詩人は詩人としての言葉の選び方があります。けれども、コラムの筆者としての書き方は別です。別の書き方(詩の紹介の仕方)もできたはずです。
 驚くのは、こんなに詳しく詩を紹介しながら、それは話のマクラとして使われているだけです。詩人に対して失礼です。この日の文章の末尾は次のようになっているのです。

 本当なら今頃は五輪の直前で「ウェルカムトゥー東京」の文字があちこちで見られたはずだ。「東京者、ゴーホーム」と、各地で叫ばれていないだけまだましか。えっ、もう言われてる?
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月19日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 この日の「天声人語」は結局、何が言いたかったのでしょう。文章に首尾一貫性がありません。話題が分裂してしまっています。最近の「天声人語」は、マクラが長すぎて、最後は別の話題に転じるという、おかしな文章が多いのです。
 そのくせ、文字数だけは忠実に守って、その文字数で書かれたということを自慢に思っている気配があります。70文字ほどの「東京」の繰り返しによって、他の部分の文字数を削って、それでも所定の文字数に収める……。これは遊びに過ぎません。読者に書き写させるような値打ちのある文章とは思えません。
 昔の「天声人語」を読み返して、文章構成の妙味を駆使したような、素晴らしい文章を書いてくださることを、読者のひとりとして熱望いたします。教室で生徒に読ませたく思うような文章に出会いたいと思います。よろしくお願いします。

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2020年8月19日 (水)

ことばと生活と新聞と(180)

タクシーの「あんどん」という言葉


 香川県は、讃岐うどんで知られ、うどん県と自称しています。貸し切りタクシーによって讃岐うどんの店を案内するサービスもあるのですが、「うどんタクシー」の名前をめぐって商標の使用禁止を求める提訴があったというニュースがありました。その記事と写真説明に、こんなことが書かれていました。

 琴平バスのうどんタクシーは、あんどんがうどんの形になっているのが特徴。讃岐うどんの作り方などを問う独自の試験に合格したドライバーが、高松空港などを出発して1~2時間で有名店を巡る。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月14日・朝刊、14版、30ページ、良妻昭明)

 琴平バスの「うどんタクシー」。あんどんがうどんになっている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月14日・朝刊、14版、30ページ、写真説明)

 写真を見ると、タクシーの屋根の上にうどん鉢がのせられた形になっていて、「うどん」という文字が読みとれます。明かりもつくことになっているのでしょう。「あんどん」とは行灯のことだろうと推測します。
 行灯は、昔 使われていた、部屋を明るくする道具です。木や竹の枠に紙を張って、中に油を入れた皿を置いて火をともしました。
 この言葉は現在では、本来の意味の他に、どのような使い方がされているのでしょうか。国語辞典には、本来の意味の説明しか載っていませんが、様々な使い方が広がっているのなら、国語辞典もその説明も加えるべきでしょう。
 また、タクシーの屋根の上に設置されているものは、全国広く「あんどん」と言っているのでしょうか。ある特定の地域での使い方でしょうか。
 私には、現代文明で生まれたクルマと、古い時代の行灯との取り合わせが、バランスを欠いた言葉遣いのように思われてなりません。

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2020年8月18日 (火)

ことばと生活と新聞と(179)

「あげたて」=アゲアゲ


 唐揚げがよく売れているという記事がありました。こんなことが書かれていました。

 ビールがおいしい季節になった。お供は色々あるけれど、なかでもカラッとジューシーな唐揚げとの相性は抜群。このところ宅配や持ち帰りに特化した唐揚げ店が急増しており、家庭でも手軽に本格の味を楽しみたい人たちのニーズを満たしている。
 調査会社の富士経済によると、2019年度の唐揚げ店の市場規模は853億円。前年に比べて4割も増加した。
 居酒屋大手のワタミは専門店「から揚げの天才」を18年11月から展開する。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月13日・夕刊、3版、3ページ、「知っとこ!DATA」、筒井竜平)

 今回は雑多なことを書きます。いちばん言いたいことは最後に書きます。
①「おとも」を「お供」と書くのは間違いではありませんが、望ましい文字遣いでないような気がします。「お供え(おそなえ)」という言葉を思い浮かべてしまいますから、「お供(おとも)」は仮名書きの方がよいかもしれません。「お伴」という書き方は定着していないかもしれませんが、こちらの方が望ましい書き方だと思います。
②唐揚げ店の市場規模は853億円、などと書かれても、読者はその数字にひれ伏すしかありません。全国の唐揚げの売上高などというものはどのようにして計算されているのか、時には説明してほしいと願っております。
③「18年11月から展開する。」という書き方を、ぼんやり読んでいると、これから始まる予定が書かれているのかと思ったりします。間違った表現ではありませんが、「18年11月から展開している。」と書く方が自然な表現だと思います。

 さて、今回もっとも言いたいことを書きます。
 この記事の見出しは、〈アゲアゲ おうちで本格唐揚げ〉となっています。「アゲアゲ」とは何だろうと思って、文章を読み始めました。最後まで読んでも「アゲアゲ」という言葉は出てきませんでした。
 ここからは推測です。関西では、「ご飯の炊きたて」のことを「炊き炊き」とか「炊け炊け」と言います。出来立ては「できでき」とか「でけでけ」と言います。「でけでけの映画を見た。」などと、動詞の連用形を重ねて表現するのです。見出しの「アゲアゲ」は揚げたてという意味でしょうね。この文章の筆者または整理部の担当者が関西人であるのだろうと推測するのですが、間違っているでしょうか。
 この欄のタイトルは「知っとこ!DATA」です。知っておこう、ということを、知っとこ、と言うのも関西言葉のように思います。こういうことは関西を対象にしている新聞としては嬉しいことです。たとえ東京から流されてきた記事であって、本文を書き換えることができなくても、見出し、リード文、写真説明、その他で、関西特有の表現を入れていけば、身近に感じられる記事に生まれ換えさせることができると思うのです。

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2020年8月17日 (月)

ことばと生活と新聞と(178)

語彙力を高めるとは、どうすることか


 前回の続きです。8月9日の「EduA」は、「語彙力で勝負する」という特集を組んでいます。勝負する、とはどういう意味でしょうか。たぶん、1点でも多く得点して入試に合格するという意味でしょう。人間性を高めるということなどは眼中になく、人間の醜さを丸出しにして、他の人を蹴落として勝つということを意図しているのでしょう。首都圏の進学事情はそのようなものなのでしょうか。
 語彙力を高めるとは、どういうことなのでしょうか。幾人もの〝受験専門家〟が書いていますが、そのアドバイスのうちの中心になる部分(あるいは、まとめの部分)を引用します。

 これは全て語彙力だけに起因する問題ではありませんが、やはり言葉を持っていないことには自分の意見は表明できません。また、人は言葉を使って考えており、語彙の多寡は思考力にもつながっています。語彙力は学びの土台なのです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月9日・朝刊、「EduA」1ページ、小池陽慈)

 親の語彙が少なければ、必然的に子どもの語彙も貧弱になります。丁寧な言葉がけを心がけましょう。 …(中略)…
 本の読み聞かせもお勧めです。本には親が使わない言葉も出てくるので、語彙の幅が広がります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月9日・朝刊、「EduA」2ページ、斎藤美琴)

 国語で差が出やすいのが、主人公の心情を読み取らせる記述問題。心情語を多く知っている子ほど、主人公の気持ちに寄り添った記述ができると感じています。 …(中略)…
 言葉の多さは思考力と連動しています。とはいえ、語彙力はすぐには身につきません。時間をかけて取り組みましょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月9日・朝刊、「EduA」2ページ、矢野耕平)

 お薦めは類語辞典。「嬉しい」「悲しい」など言葉のイメージごとにまとまっており、一つの言葉から語彙を広げていくことができます。 …(中略)…
 SNSなどがあるので、覚えた言葉や表現を試す機会は昔より格段に増えています。既知の言葉のなかに閉じこもらず、覚えた言葉を使えるチャンスがあれば間違いを恐れずどんどん挑戦してみてください。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月9日・朝刊、「EduA」2ページ、土井諭)

 斎藤美琴さんの文章は幼児の親向けに書かれています。述べられている事柄に異論はありません。
 さて、「語彙力」というのは語彙の数を増やせば身につくものではありません。その言葉の持つ語感をきちんと捉えて、それを表現する力を身に付けなければなりません。文脈にそぐわない言葉を、唐突に使ってはいけません。書かれた文章を読んで、文脈に沿って意味を理解する。同じ言葉に何度も出くわすことによって、理解が高まっていくのです。促成栽培の受験技術で身につくものではありません。
 身についたものを正しく使う練習することが大切です。SNSなどで舌足らずの表現をして、語彙力が高まっていくとは思えません。
 学校教育では、学習指導要領に沿って時間をかけて指導に取り組んでいます。そのようなものが基盤にあるのに、受験技術指導者は上っ面をとらえて、受験技術を身につけさせようとしています。そういう指導に迎合して新聞社が紙面を作り上げてよいのでしょうか。
 特集の1ページ目に「これは外せない年代別必須語彙」というのがありますが、実に恣意的に並べあげているという印象はぬぐい去れません。いくつもの言葉が提示されている中の一つに「矢も盾もたまらない」があります。これは誤解を生じさせる書き方になっています。「矢も楯もたまらず」と書くべきでしょう。
 「矢も楯もたまらず」とは、あることをしたいという気持ちを思い詰めて、抑えることができない様子を表す言葉です。終止形を「……たまらない」としたくなると思いますが、実際の使い方は「……たまらず」という言い方です。
 この表現は、「矢も盾もたまらず……する」というような連用修飾語(副詞的な働き)となることが大部分です。「……は、矢も盾もたまらない。」というような形で述語として使われることは稀です。そんな場合も「……は、矢も盾もたまらなく思う。」のような表現になることが多いと思います。
 この言葉の用例を載せている国語辞典から引用します。

『明鏡国語辞典』
 「矢も楯もたまらず家を飛び出す」
『現代国語例解辞典・第2版』
 「矢も楯もたまらず彼女に会いに行く」
『三省堂国語辞典・第5版』
 「親からのたよりで矢も楯もたまらず帰国した」

 教える側もきちんと教材研究をしなければなりません。たくさんの言葉を子どもに押しつけて、覚えておけと命じるのは受験技術者の常套手段かもしれませんが、それは教育とは言えません。
 小学生向けに提示されている「安堵に包まれる」という表現は、安心するというような単純な意味ではありません。この言葉の表現している内容を小学校生に感じさせることは難しいでしょう。たくさんの言葉を覚えさせればよいわけではありません。その言葉の語感を実感させて使いこなせるようにさせるためには、年齢に応じた指導が必要です。1ページに羅列されている「年代別必須語彙」の提示は、まるでテレビコマーシャルのような無責任さを感じてしまいます。

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2020年8月16日 (日)

ことばと生活と新聞と(177)

東京向けのPR紙なのか、「EduA」


 「確かな学びをサポートする教育情報紙」という宣伝文句で、月に2回ほど本紙に挟み込まれるタブロイド紙があります。宣伝ビラではなく、本紙の一部をなすものです。〈【特集】語彙力で勝負する!〉と題する号に、こんな言葉が書かれていました。

 うれしいときも悲しいときも「ヤバい」で済ませていませんか?
 読解や表現の基礎となり、入試にも欠かせない語彙力を高めましょう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月9日・朝刊、「EduA」1ページ)

 「ヤバい」という言葉は日常語ですが、自分に不利な状況が身近に迫ったり、そのような状況が予測されたりする様子を表す言葉です。本来は、嬉しいとか悲しいとかの感情を表す言葉ではありません。仮に首都圏でそのような使い方が、(もしかして年若い世代で使われているとしても、)全国でそのような言葉遣いが広がっているとは言えないでしょう。
 朝日新聞も毎日新聞も産経新聞も大阪で発祥した新聞ですが、東京でも発行するようになり、今では東京からの一方通行で記事が書かれています。新聞を作る人たちは、東京での感覚が全国に通用すると誤解しつつ(あるいは各地の事などは無視して)、新聞を作っているようです。しかも、執筆者も東京近辺で手軽に依頼できる人たちに限っているようです。そんな新聞を全国に配ってよいのでしょうか。
 この日の執筆者(1ページ~7ページ)は、次のようになっています。
  河合塾現代文講師  〇〇〇〇さん
幼児教室講師    〇〇〇〇さん
  中学受験専門塾代表 〇〇〇〇さん
  河合塾現代文講師  〇〇 〇さん
教育アドバイザー 〇〇〇〇さん
  算数教育家     〇〇〇〇さん
  国語教室主宰    〇〇〇〇〇さん
  □□中・高校教諭  〇〇〇〇〇さん
  日本新聞協会NIEコーディネーター 〇〇〇〇さん
 執筆者は、ご覧のとおり、公教育(学校教育法に基づいて設置されている学校の勤務者)はごく稀です。幼児・児童・生徒を学校外で指導することを職業にしている人たちが大部分です。このような特殊な方向を持った新聞なのです。
 要するに、世間体の良い学校に首尾よく入学できるようにという趣旨で、作られている紙面です。これまでの号には、自分(執筆者)たちの指導を受けたらうまくいきますよと言わんばかりの表現もありました。
 経済的に恵まれていない子どもや、学習に困難を感じているような子どもや、公立学校で指導を受けようとしている子どもたちに役立つような紙面ではありません。中には、子どもたちの指導について、親も時間を割いて細かな協力をしなければ合格はおぼつかないと言わんばかりの人もいます。このような私立学校や一部国公立学校に入学することに傾斜した紙面を作って、全国に配付する理由がわかりません。その理由をしっかりと紙面で説明をすべきです。
 それとも、これはPR紙面(宣伝紙)であって、私たちは、一般紙面のつもりで読まされているのでしょうか。東京地域に傾斜した紙面作りで、それを全国で読まされているのです。
 この日の紙面で特集されていた「語彙力で勝負する!」ということの内容については、次回で述べることにします。

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2020年8月15日 (土)

ことばと生活と新聞と(176)

「挨拶に代える」「挨拶とする」


 いろいろな場面で挨拶をされる方の、挨拶の最後の言葉が気になって仕方がありません。終わりの部分で、「これをもって私の挨拶に代えさせていただきます。」と結ばれる方があります。そうすると、そこまでに述べられた内容は挨拶に相当するものではなくて、(例えば、関係のありそうな話であって、挨拶とは言えないのであるが、)それを挨拶と見なしてほしいというお願いのように聞こえるのです。
 もちろん、その言葉は、挨拶と言うほどの値打ちのある話ではなかったのですが、これを挨拶と認めてほしいという、謙遜の気持ちが込められての発言であると解釈することもできます。ただ、「挨拶に代えさせていただく」という発言をする人は、そういう発言のクセを持っているということも否定できないような気もします。
 似たような言い方に、「(これをもって)私の挨拶とします。」という言い方もあります。この言い方には謙遜の気持ちが含まれているようには思えませんが、最後をそのような言葉で結ぶクセを持つ人もあります。
 広島での「平和記念式典 首相あいさつ(全文)」という文章の最後は、このようになっていました。

 原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、広島市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私のあいさつといたします。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月7日・朝刊、14版、25ページ)

 長崎での「首相あいさつ(全文)」という文章の最後は、このようになっていました。

 原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私のあいさつといたします。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月10日・朝刊、14版、26ページ)

 広島と長崎のあいさつ(全文)はほとんど同じ文章です。このような新鮮味のない文章を新聞に載せる側も疑問を感じているでしょうし、それを読む側も退屈を感じます。
 文章の末尾は、祈念してはじめて、挨拶の体裁が整うというような言い方です。「私のあいさつとします」という言い方と、「私のあいさつを終わります」という言い方とは、異なる感じがします。
 長い文章の挨拶ですから、その中ではいろいろな事柄が述べられているのですが、「原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、広島市民の皆様のご平安を祈念」することによって、挨拶が成立するというように聞こえます。それならば、その最も大切な事柄を挨拶の最大のテーマであると設定して語ればよいのだと思います。

 話題が少し変わりますが、毎日新聞社校閲センター前部長が書かれた『失礼な日本語』という本を読むと、実に失礼な言葉の間違いが続いていたということが書かれています。
 「皆様に慎んで哀悼の誠を捧げます。」とか、「政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。」とかの文字遣いが長く続いていたのだそうです。
 その本から引用します。

 誤字は「慎んで」の慎の字。正しくは「謹んで」です。「慎んで」は「控えめに」という意味ですので、控えめに哀悼や追悼をすることになってしまいます。「謹んで」は「相手を敬ってかしこまる」という意味。だから「慎んで」だと「敬意がない、失礼だ」と受け取られても仕方がありません。
 この例のうち後者は、2015年の全国戦没者追悼式にも同じ間違いがありました。2016年に指摘を受け、子の式典については「慎んで」と修正されました。 …(中略)…しかし前者の記者会見の発言録は2020年1月になっても修正されていません。
 (岩佐義樹、『失礼な日本語』、ポプラ社(ポプラ新書)、2020年3月9日発行、17~18ページ)

 このような挨拶文は首相官邸スタッフが作成するのでしょうが、何度も同じ原稿を使い回して手を加えているから、誤りに気づかないのでしょう。校閲ということの大切さに気づいてほしいものです。
 それよりも何よりも、挨拶文を作るときには、一回ごとに新しい気持ちで取り組まなければなりませんが、そんな気持ちは持ち合わせになっていないのかもしれません。

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2020年8月14日 (金)

ことばと生活と新聞と(175)

「ふれる」という言葉


 美学者である方が、日本語の動詞「さわる」と「ふれる」の違いについて書かれているのを読んで、興味を持ちました。こんなふうに書かれていました。(冒頭と末尾の部分は引用を省略します。)

 ひとことで言えば、両者の違いは、接触するときの態度にある。「さわる」は一方的なのに対して、「ふれる」は双方向的なのだ。
 「さわる」においては、さわられる側の事情なんてお構いなしである。だから「傷口にさわる」と言うと何だか痛そうだと感じるし、痴漢は絶対に「さわる」と言わなければならない。もっとも「さわる」が常に悪だというわけではない。医師が患者の腹部を触診するのは、感情的な湿度をあえて排した、専門家の手つきとしての「さわる」だ。
 一方「ふれる」には、まさに「ふれあい」と言うように、ふれる側とふれられる側との交流がある。病や障害とともに生きる人に対するケア、子育て、あるいは看取りといった場面で、絶対に必要になる触覚である。ただし相手が人でなくても「ふれる」が使われる場合がある。たとえば外気に「ふれる」。気体の場合には、向こうから流れてくる「出合い」の契機があるからだろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月2日・朝刊、13版S、23ページ、「伊藤亜紗の利他学事始め」)

 ここに書かれている内容については異論はありません。「ふれる」という言葉について、感じたことを書いておきます。
 「相手の肩にふれる」「食べ物に手がふれる」などは、「さわる」に比べて、接触の度合いが軽微であるという印象を持ちます。
 「目にふれる」「耳にふれる」という言い方があります。これを「目にさわる」「耳にさわる」と表現すると、嫌悪感が強まります。「ふれる」には悪印象が伴わないことが多いようです。
 「問題にふれる」「核心にふれる」という言い方は「さわる」に言い換えることはできません。問題や核心の部分に話題を向けようとしても、少し遠慮がちなところがあるようにも感じられます。
「法律にふれる」も、「法律にさわる」とは言いません。熟語を使えば「法律に抵触する」ですから、間違ったさわり方(扱い方)をしているのでしょうが、大きな図体(全体像)の法律の、その一部分に「ふれる」ことをしているというのでしょうか。
 新型コロナ禍によって、私たちは、他者と「ふれる」ことを遠慮がちに行っています。「ふれる」という言葉には、言う、知らせる、という意味もあります。直接のふれあいができなくても、言葉をかけあうことで、ふれあいを深めることも必要でしょう。

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2020年8月13日 (木)

ことばと生活と新聞と(174)

見出しのやさしい言葉は、やればできる


 8月7日、立秋の朝の新聞の1ページは爽やかでした。前日の広島原爆の日のニュース、コロナ禍についての東京都知事の会見のニュース、少年法の見直しを検討している審議会が原案をまとめたというニュースの3本です。それ以外は「折々のことば」と「天声人語」のコラムが載っています。
 その3本のニュースの見出しを引用します。

 75年は草木も生えぬと言われた / 広島は復興したが、遠い核廃絶
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月7日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 都民のお盆の帰省 / 小池知事「自粛を」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月7日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 少年法 18・19歳厳罰化へ / 起訴後、実名報道可能に
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月7日・朝刊、14版、1ページ、見出し)

 やればできるではありませんか。わけのわからない略語や、舌足らずの表現などを排除して、きちんとした日本語で見出しを作ることを、実行してほしいと思います。
 ところが同じ日の他のページではアルファベット略語が、やっぱり並んでいます。

 NYTデジタル収入、紙抜く / 4~6月期 契約69万件増で195億円
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月7日・朝刊、14版、7ページ、見出し)

 GGP東京に戸辺ら
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月7日・朝刊、14版、14ページ、見出し)

 最強を証明 KK完結編
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月7日・朝刊、14版、15ページ、「あの夏 ベストセレクション」、見出し)

 NYTは、米新聞大手のニューヨーク・タイムズのことだそうです。GGPとは、セイコーゴールデングランプリ陸上だそうです。KKは、桑田真澄、清原和博選手の頭文字を並べたものです。
 本文を読まないと分からないような略語を見出しに使うことは排除すべきです。本文には略語など使われていないことが多いのです。

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2020年8月12日 (水)

ことばと生活と新聞と(173)

日常的に、「やさしい日本語」を使おう


 「やさしい日本語」という言葉を時々、目にします。カギカッコ付きで言わなければならないほど特別な言葉ではないと思います。そして、「やさしい日本語」というのは外国人に向けての表現ではないと思います。
 NHKニュースの制作スタッフの山屋頼子さんを紹介した記事がありました。「やさしい日本語」について、このように紹介されていました。

 外国人や小学生など、難しい日本語が分からない人のため、ニュースを分かりやすく伝えるNHKのウェブサイト「NEWS WEB EASY」の2012年の立ち上げ時からのスタッフだ。もともとは日本語教師。ニュース原稿を「1年ほど日本語を学んだ人」でも分かるぐらいの、「やさしい日本語」に書き換える仕事を担っている。
 むずかしいのは、「五山の送り火」のような意味の深い描写だ。シンプルに「やさしい日本語」にすれば、「山に火をつけてきれいでした」……これでは、やや物騒にも聞こえてしまう。送り火とは何で、どうつけられているのか。伝統行事の背景まで調べ、本質を理解した上で言葉を考える。たとえば、「願いを書いた木の板を『大』の形に並べて火をつけると、山に火で『大』の字ができました」といった具合だ。 …(中略)…
 「やさしい日本語」の本質は、いかに分かりやすく伝えられるか。それは本来、外国人や子ども向けに限らない話だ。コツが三つあるという。①文章を短くする、②伝えたいことを最初に言う、③書き換えたものを客観視する。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月29日・夕刊、3版、2ページ、「凄腕しごとにん」、藤崎麻里)

 政治・経済・科学などの専門的な話ならいざ知らず、ごく日常的に話題であっても、聞く人・読む人が理解できないような言葉遣いをする場合があります。相手(聞く人・読む人)のことを考えたら、分かりやすく表現しなければ、理解が行き届くことはないでしょう。引用した文章にある「それは本来、外国人や子ども向けに限らない話だ」という考えに賛成です。そのような文章にできあがっているかどうかはともかく、私は、やさしい表現を心がけてきました。自分だけが理解できているような言葉は使わない、相手がどう理解するかを見定めて、できるだけやさしい言葉を使う、ということです。
 このように国語辞典は説明しているから、こんな言い方をしても大丈夫だ、とは考えないことです。私は小学生向けの国語辞典も愛用しています。子ども向けにはこんな説明をしているのか、それは大人相手の場合にも参考になる、ということにしばしば出くわします。
 「やさしい日本語」とは、相手にとってわかりやすい「易しい日本語」ですが、それは同時に相手を思いやる「優しい日本語」でもあるのです。「やさしい日本語」とは掛詞であるはずです。
 日常的に言葉遣いの中に「やさしい日本語」が行きわたっていくことを私は望んでいるのです。

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2020年8月11日 (火)

ことばと生活と新聞と(172)

「んなあほな」という言葉


 前回は「んん」という言葉を取りあげましたが、その続きです。こんな記事がありました。関西の言葉では「そんな」という連体詞が「んな」となることがあるのです。
 記事の見出しは、〈んなアホな! / 「新婚さんいらっしやい!」のイス / こけて半世紀 / 文枝さん分身 転びやすいんやって〉となっています。

 尻の下にも半世紀--。桂文枝さん(76)といつも転がっている、あのイスの話やねん。ボケとツッコミの大阪魂が生きてんねんで。
 放送開始50年目を迎えたABCテレビの長寿番組「新婚さんいらっしゃい!」。文枝さんの司会はスタート時からで、同一司会者によるテレビトーク番組の最長放送としてギネス世界記録を持つ。 …(中略)…
 いつか、イスのルーツを調べたいともくろんでいる。「身内の局ですが、『探偵!ナイトスクープ』は動いてくれるでしょうか」。んなあほな!
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月9日・夕刊、3版、7ページ、土井恵里奈)

 「んなあほな」は、「そんなアホな」の「そ」の発音が小さくなり、聞こえないような状態になったものです。その「んなあほな」という言葉については、以前の記事に取りあげられていたことがありました。

 この言葉の、独特の響きを耳にしたときのことも忘れられない……、って、あれ? いつやっけ。大阪の寄席、天満天神繁昌亭で、五つのひらがなが並んでいるのをはっきり意識したのは間違いないんやけど。
 「んなあほな」
 見かけたのは上方落語協会の情報誌、そのタイトルなのだ。笑福亭仁鶴さんの弟子、笑福亭仁勇さん(56)の案だったそう。「『ん』で始まるから、目立つと思ったんですよ」と命名者は明かす。
 「いきなり『あほな』はキツいけど、前に『んな』って付けると、ノリツッコミのようになるんじゃないかなあ。『そんなあほな』の『そ』がかすれたんでしょうね」。関西のツッコミ文化の一翼を担う言葉だ。 …(中略)…
 そもそも「ん」で始まる日本語って、ほかにあるのか? 広辞苑に「ん」の欄はささやかにあった。「ンジャメナ」「んす」「んず」「んとす」。なんのこっちゃ。「んなあほな」の方がはるかにポピュラーな気がするけどなあ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2015年5月27日・夕刊、3版、2ページ、「またまた勝手に関西遺産」、篠塚健一)

この記事では、〈「いきなり『あほな』はキツい〉と書かれていますが、いきなり「あほな」と言われても、関西人には厳しく響かない場合があると思います。そして、〈前に『んな』って付けると、ノリツッコミのようになる〉ということは関西人にはよくわかる感情だと思います。
 「あほ」または「あほう」という言葉については、国語辞典には、知能が劣っているとか、愚かなことという意味が書かれているだけですが、関西人はそれだけの意味とは考えていません。参考までに、私が『明石日常生活語辞典』に書いている説明を引用しておきます。

あほう〔あほー、あほ〕【阿呆】《名詞、形容動詞や(ナ・ノ)》 ①ぼんやりしていて、頼りないところがあること。鋭さに欠けたり手抜かりが生じたりすること。また、そのような人。「あほな・ こと・を・ し・て・ そん(損)・を・ し・た。」②機能や働きが失われること。効き目がないこと。「この・ じょーまえ(錠前)・は・ あほ・に・ なっ・とる・さかい・ つこ(使)ー・たら・ あか・ん・よ。」③程度が甚だしい様子。「あほな・ほど・ よー・ つ(釣)れる。」〔⇒ばか【馬鹿】。①②⇒あっぽ【阿っ呆】、だぼ。①⇒ぬけ【抜け】、まぬけ【間抜け】、ぼけ【呆け】、ぬけさく【抜け作】、あほうたれ【阿呆垂れ】、あほうだら【阿呆垂ら】、あほんだら【(阿呆垂ら)】、あほんだれ【(阿呆垂れ)】、だぼさく【だぼ作】、ぼけさく【呆け作】、ぼけなす【呆けなす】、とぼけさく【惚け作】、ばかもん【馬鹿者】、ばかたれ【馬鹿垂れ】〕

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2020年8月10日 (月)

ことばと生活と新聞と(171)

「んん」という言葉


 松井簡治、松井驥、松井栄一さんは、3代にわたって『日本国語大辞典』(小学館発行)の編集にそれぞれの一生を捧げられたことはよく知られている事柄です。その松井栄一さんが書かれた『日本人の知らない日本一の国語辞典』を読みました。
 その中に、こんな一節がありました。

 ある辞書の「慨嘆」の項目には、
「戦後の女性の言葉つきはまことに慨嘆に堪えない」
 とありました。編集者は戦前派でしょうか。嘆きの声がまさに聞こえてくるようです。また、「かくて」の項目の例は、
「戦争犯罪人として投獄され、かくて十年の歳月を獄窓に送った」
とあり、時代の空気が反映されています。
 そして、その辞書の最後の項目をみると、それは「んん」という感動詞。
「んん、やっと終わったんだよな」
という感慨を表した例が示されており、私も思わず笑ってしまったものです。
 (松井栄一、『日本人の知らない日本一の国語辞典』、小学館(小学館新書)、2014年4月6日発行、143~144ページ)

 文章の流れからすれば、「戦争犯罪人として投獄され、かくて十年の歳月を獄窓に送った」人が、その10年が果てたときに「んん、やっと終わったんだよな」という思いを口にしたように受け取ることができます。
 それとともに、辞書の編集に携わった人が、最後の項目の「んん」にたどりついて、「んん、やっと終わったんだよな」という重い感慨をつぶやいたようにも感じられます。
 ところで「んん」という言葉を見出しにしている『三省堂国語辞典・第5版』は、この言葉を次のように説明しています。

 「ん」をのばした形。ことばがすぐに出ないときに使う。

 咄嗟に言葉が出ないときに口にするのが「んん」という言葉だという説明です。三省堂国語辞典の説明は正しいと思いますが、「んん」という言葉の使い方のひとつの方向を示しているだけです。「んん」には、「んん、やっと終わったんだよな」という、重い感慨を表すこともあるのです。
 私が編集した『明石日常生活語辞典』には「んん」という見出しを設けていません。「ん」という感動詞については、次のように記述しています。

ん《感動詞》 ①相手に呼ばれて応答したり、相手の言葉を聞いていることを示したりするために発する言葉。「ん・ なん(何)・か・ ゆ(言)ー・た・かいなー。」②相手の言うことを承知したり同意したりしたときに発する言葉。「ん・ わし・に・ まか(任)し・とい・てんか。」〔⇒はあ、はい、うん、へい、へいへい〕

 この「ん」が時には「んん」という発音にもなるのですから、「んん」という見出しも作ればよかったのかなぁと思っています。
 『明石日常生活語辞典』の最後の見出しは次の言葉です。ご参考までに記しておきます。

んやけど《接続助詞》 何かのつながりで、対比されることがらを続けて言うことを表す言葉。「つよ(強)ーに・ ゆ(言)ー・た・んやけど・ き(聞)ー・てくれ・なんだ。」〔⇒もんやけど、けど、けども、けんど、けんども、ところが〕

 話し言葉の世界で言うと、国語辞典の採集項目は「んんんんんん……」などという表現も可能になるように思います。冗談ではなく、真面目な話です。

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2020年8月 9日 (日)

ことばと生活と新聞と(170)

「随時」って、どんな時?


 新型コロナウイルスの感染状況によって、商店や公共施設などが開かれる時期や時間帯などに影響が及んでいます。美術館、博物館、文学館の開催内容などを一覧にした記事がありますが、その記事に、「状況は随時変わります 最新情報は各館にご確認ください」と注記されていました。(朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月7日・夕刊、3版、5ページ、「美術館博物館」)
 言っていることは理解できますが、この場合の言葉遣いは適切であるのだろうかと思いました。
 例えば「随時お越しください」と言われた場合は、何時に行くかということなどは自由に決めて、好きなときに行けばよいと判断します。「予定は随時、変更します」と言われたら、いつ変更されて、どういう予定になるのだろうかと不安になります。
 新型コロナウイルスの感染状況によって、開館などの予定を変更しなければならない事態が起こることは承知できますが、このような場合に「随時」という言葉を使うのがふさわしいかということには疑問があります。
 「随時」という言葉の説明は国語辞典によって異なるのではないかと予想して国語辞典を開いてみました。

『三省堂国語辞典・第5版』
 時に応じて。気が向いたらいつでも。
『現代国語例解辞典・第2版』
 ①好きなときにいつでも。②その時々。
『岩波国語辞典・第3版』
 ①(好きな時に)いつでも。②(気の向いた時に)おりおり。ときどき。
『明鏡国語辞典』
 ①適当な時に行うさま。その時々。②日時に制限を設けないさま。必要なときにはいつでも。
『新明解国語辞典・第4版』
 ①気の向いた・(必要と認められた)時に、いつでもその事をすることを表わす。②順番・日時などをあらかじめ決めておかず、都合のつき次第何かをすることを表わす。
『広辞苑・第4版』
 ①時に随うこと。臨機。②いかなる時にも。いつでも。

 美術館などの開催予定は、新型コロナウイルスの感染状況を考えながら、あるいは政府や自治体の考えを受けながら変更を余儀なくされるのですから、「随時」という言葉がふさわしいのだろうかと思ったのです。「時に応じて」変更するのはわかりますが、「気が向いたらいつでも」「好きなときにいつでも」というような自由さではありません。「必要と認められた時に、いつでも」という意味を載せている辞典もありますが、「随時」という言葉は「気が向いたらいつでも」「好きなときにいつでも」という語感が大きな位置を占めているように思うのです。
 アベノマスクこそは「随時」に配付されたものでしょうが、美術館などは熟慮の末に決めているのでしょう。「状況は随時変わります」ではなく、「感染状況に応じて変更もありえます」と言うほうが望ましいと思います。

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2020年8月 8日 (土)

ことばと生活と新聞と(169)

強調表現が人々に先入観を与えてしまう


 現在はこのような時代に入っている、などということを強調されても、そんなふうには思えないことがあります。新聞や放送に携わっている人たちは、一般の人よりも感じ方が鋭いのかもしれません。けれども、うがった見方をすれば、記事を書く人たちが使う言葉遣いによって、読者はそのように思わせられているということがあるのかもしれません。
 例えば、次のような表現があります。

 世界は「分断」の時代と言われる。共感できる者とだけつながり、意見が異なる相手とは対話さえしない。国家も自国第一主義がはびこる。底流に格差の拡大がある
 これも分断だろうか。日本の若者に「嫌老感」が広がっているという(五木寛之著「孤独のすすめ」)。生活が苦しい自分たちが、なぜ豊かな高齢者を支えねばならないのか。そんな不満が嫌悪感につながっているようだ
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年7月25日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)

 カギカッコを付けて「分断」と書くと、それがキーワードになってしまいます。それほど意識していない人であっても、こんな書き方を提示されると、今はそういう時代であるのかと思わせられてしまいます。
 「嫌老感」という言葉の使い方は、他人の言葉の引用であるという形を取って、やはりカギカッコで強調しています。巧みなやり方です。それにしても、〈日本の若者に「嫌老感」が広がっている〉というのは、多くの人が感じていることなのでしょうか。個人的な感想である可能性もあります。
 けれども「分断」と言い、「嫌老感」と言う言葉を使うことによって、ある種の見方が強調されます。そして、そういう見方をしていない人との間に、「分断」を起こそうという趣旨の文章であるのかなぁと思わせられます。
 文章には、書く人の考えが表現されます。文章を書く人は自分の考えを強く伝えようと努力をします。けれども、書き方しだいでは、誤った先入観を与えてしまうことも起こりえます。
 実は、上に引用した文章は5つの段落からできています。その第1段落と第2段落を引用したのですが、第3段落の最後の文は「若者が将来に不安を感じるのは当然だろう」と書かれ、第4段落の最後の文は「活発に動き回る若者たちを苦々しく眺めている高齢者は多いのではなかろうか」と書かれています。
 文章の最後(第5段落の最後の文)は、「相互理解が大切なのは、なにも国際社会だけではない。」と結ばれていますが、文章全体で「分断」「嫌老感」を強調した文章ですから、最後の結びは何の提言にもなっていないのです。

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2020年8月 7日 (金)

ことばと生活と新聞と(168)

「想像する」は「思いをはせる」に置き換え可能か


 少し古い記事ですが、「美しいと思う大和言葉」をランキングしたのが出ていました。その1位は「思いをはせる」という言葉であったのですが、こんな説明が書かれていました。

 1位は「思いをはせる」。
 漢語の表現で言えば「想像する」に近いだろうか。だが、意味は同じでも語感が柔らかく、温かみが感じられる。
 北海道の女性(61)から、こんな経験が寄せられた。「友人がご子息を亡くしたとき、かける言葉がなく、『あなたの気持ちに思いをはせるのみ』としか(手紙に)書くことができなかった」
 「はせる」は馬などを「走らせる」ことで、(体はここだが)思いを離れたあなたに向けて走らせるという意味がこもる。ここで「あなたの気持ちを想像するのみ」としたら、神経を逆なでしかねない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2015年12月5日・朝刊、b2ページ、「beランキング」、中島鉄郎)

 この記事の見出しは、〈「想像する」より「思いをはせる」〉となっています。けれども、この2つの言葉は、記事に書かれているように「意味は同じ」とは言えないと思います。「想像する」と表現するところを「思いをはせる」と置き換えてよいわけではありません。それは記事の中で〈「あなたの気持ちを想像するのみ」としたら、神経を逆なでしかねない〉とある通りです。けれどもそれは、「想像する」はまずいけれども「思いをはせる」とすればよいというわけではありません。「はせる」には、気持ちなどを遠くまで至らせるという意味があります。対象物について客観的に「想像する」ことはありますが、「思いをはせる」は違います。対象物(多くの場合は、人)に寄り添うような姿勢で心を巡らせるのです。
 大和言葉の「思いをはせる」は、心の中を表す言葉であるのですが、使うのがふさわしい場合とそうでない場合があることをわきまえることが必要でしょう。「想像を絶するような惨状」とか、「百年前の世の中を想像する」のような場合は、「思いをはせる」という言葉でない方が望ましいように思います。相手とつながることができるかどうかということが肝要でしょう。
 ところで、この「思いをはせる」という言葉を、国語辞典はどう扱っているでしょうか。「思い」や「はせる」の説明はあっても、「思いをはせる」という言葉を説明している辞典は少ないようです。『明鏡国語辞典』はこの言葉を、次のように説明しています。

 遠く離れた人やものに思いを及ぼす。思いをやる。思いを致す。「故郷の空に -」

 ちょっともの足りない気持ちはありますが、見出し語として載せているのは嬉しいことです。このような言葉を辞典に収めようとした編纂者の気持ちに「思いをはせ」て、喜びたいと思います。

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2020年8月 6日 (木)

ことばと生活と新聞と(167)

一例を全体の論理の骨組みにしてはいけない


 幼い子どもが「みんな、ゲーム機を買ってもらっている」と言って、親にねだることがあります。「みんな」と言ったけれども、実は仲のよい友達のひとり(あるいは、ふたり)だけのことであった、ということがあります。子どもの世界ではそういうことがよくあります。
 新聞の社説でそのような書き方をすれば、どうでしょうか。
 高等学校の学習指導要領の改訂に伴って、国語科の科目が再編されて「論理国語」と「文学国語」という科目が登場します。そのことを論じた社説の一部(ひとつの段落)に、こんな表現がありました。

 実際に学校現場はこれまで、物語の構造を分析し論理的な思考力を養う授業を重ねてきた。教員経験のある研究者は、物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいると話す。取りあげる文章の種類に最初からたがをはめてしまうと、教材の多様さが失われ、そうした相互作用は働きにくくなるだろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月31日・朝刊、13版S、8ページ、「社説」)

 このような社説はどんな人が書いているのだろうという疑問が、頭をかすめます。高校教育において、論理的な思考力は、さまざまな分野の文章などで養ってきました。国語科では主として文章によるのですが、それは書かれた文章だけではありません。聞くことや話すことにおいても培ってきました。
 〈教員経験のある研究者は、物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいると話す。〉という表現は、まるで子供だましのような例示です。〈教員経験のある研究者〉というのはどんな人なのでしょう。実在する人でしょうか。高等学校で教員を経験し、今は研究者(大学教員)である人なのでしょうか。そんな人が〈物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいる〉と話したりするのでしょうか。ばかばかしい談話です。物語を読んでいるうちに、苦手だった説明文が読めるようになった生徒などは、いくらでもいます。そうでない生徒もいます。生徒の成長は様々の形で現れます。一例をもとに全体の説明をすることなどは成り立たない論理です。まったく論理性のないことを述べているのです。本当に、〈教員経験のある研究者〉に取材して、こんな馬鹿げた談話を聞いて、社説に書いたのでしょうか。
この社説の末尾は、次のように締めくくられています。

 そもそも論理国語がめざすような思考力や表現力は、国語だけで養われるものではない。理科や地理歴史・公民などとの関わりも深い。高校教育全体の中でそうした力を養う方策について、議論を深めてはどうか。

 思考力や表現力は、理科、地理歴史、公民だけで養われるものではありません。数学も英語もその他の教科でも(高校の全教科で)養っているのです。〈高校教育全体の中でそうした力を養う方策について、議論を深めてはどうか〉という発言は、高校での指導の実際の姿を知らない者の言葉です。思考力や表現力の養成について高校教育が機能していないというような批判に聞こえます。こんな言い方に、腹を立てない教員はいないだろうと思います。
 この文章は、新聞社という机上の空間から、高校教育を眺めているような表現です。「教員現場」などという見下したような言葉を使ったり、生徒のことを「子」と言ったりして、言葉も稚拙です。
 引用した個所でないところで書かれていることですが、大岡昇平の「レイテ戦記」が全集で「小説」に分類されていたら、高校教員はみんな小説だと認識するのでしょうか。「目的にかなう教材だと思えば、ジャンルにこだわらずに、どんどん活用すれば良い」などということは、心ある教員は実践していることです。この社説は、文科省への鋭い提言などはなくて、高校教員に教示を垂れるような姿勢で書かれているのです。

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2020年8月 5日 (水)

ことばと生活と新聞と(166)

肌の色は「肌色」とは限らない


 アメリカで起きた黒人暴行死亡事件をきっかけにして、人種差別につながる社会行動への反発が強まりました。肌の色についての人々の意識も変化していくでしょう。
日本で使われ続けてきた「肌色」という言葉について見直そうという動きがあることが記事になったのはもう20年以上も前のことでした。こんな記事でした。

 子ども用のクレヨンや色鉛筆で使われる「肌色」という色名を見直そう、という動きが活発化している。「肌の色への固定観念を植えつけ、差別につながる」との批判を受け、大手メーカーの「ぺんてる」が、昨秋からクレヨンや絵の具の「はだいろ」を英語名の「ペールオレンジ」に切り替え始め、鉛筆の生産業者の組合も今年一月、色鉛筆の色名から「肌色」を除くことを決めた。「多様な肌の色を認めるきっかけ」と評価する声がある一方、「長年使われてきた色名は守るべきだ」といった意見もあり、議論を呼んでいる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、1999年4月1日・朝刊、13版、25ページ)

 「空色」は地球上のほぼすべての人たちが同じ色を思い浮かべるかもしれませんが、「水色」はそうでないかもしれません。黒っぽい色や黄土色の水を見慣れている人たちもいるかもしれません。「肌色」は日本人の肌の色に限っても同じではありませんし、世界の民族では多様です。
 クレヨンや色鉛筆の「肌色」は、理想的な色として作り上げられた色であって、必ずしも日本人の肌の色と一致しているわけではないでしょうが、絵を描いたときに人の肌には「肌色」を塗るのが当たり前だというようにして、指示や標準化や理想化したりするのは望ましくないでしょう。
 白い肌色こそ美しいという意識も、世界に共通するものではありません。化粧品メーカーにも表現を改める動きが出てきているということを伝える記事がありました。

 欧米メディアによると、世界最大手の仏ロレアルは27日、スキンケア商品について「ホワイト(白い)、フェア(色白)、ライト(明るい)の文言を取り除くことを決めた」と発表した。米大手のジョンソン・エンド・ジョンソンは一部商品名などが「白いことが本来の肌の色より良いかのような表現になっていた」とし、「健康な肌こそが美しい肌だ」と表明。ユニリーバは広告起用も見直し「異なる肌の色の女性を取り上げ、インドや他地域の美の多様性を表せるようにしたい」と述べた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月30日・朝刊、13版S、6ページ、下司佳代子・和気真也)

 日本のテレビ・コマーシャルを見ても、色白、美白、ホワイトなどという言葉が大手を振って宣伝用語に利用されているように思われます。

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2020年8月 4日 (火)

ことばと生活と新聞と(165)

コロナ禍と文字と短歌


 新型コロナウイルスの感染者数は、政府がGO TOトラベル事業を開始したのに合わせるように拡大しています。あんなにしばしば会見を開いていた首相が、今は知らんぷりをしています。経済活動にも力を注がなければならないことは理解できますが、国民の心から離れた施策では支持されないことになってしまいます。
 ひとりひとりは健気に生きています。コロナ禍に関連して、文字を分解して、それを歌に詠み込むという、楽しい記事を2つ見ました。

 「しばらくは 離れて暮らす 『コ』と『ロ』と『ナ』 つぎ逢ふ時は 『君』といふ字に」。新型コロナウイルスの影響で大切に人と会えないつらさや未来への希望をつづった「短歌」が先日、ネット上で話題になった。
 「コ」と「ロ」と「ナ」を足し合わせると「君」という文字になる--。そんな歌がフェイスブックに投稿されたのが4月1日。作者は、大阪府内の百貨店で宣伝や広報を担当しながら、似顔絵を中心としたイラストを描いているタナカサダユキさん(56)だ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年5月11日・夕刊、3版、7ページ、若松真平)

 選抜の中止が決まった後の読売歌壇に一首あった。〈「泣く」の字をごらんぼくらは泣いたあとしずく拭えば立ち上がれるさ〉〈関根裕治〉。選者である俵万智さんの選評を借りれば、「泣」の字にあるさんずいのしずくを取ると、残るのは「立」なのである。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年6月27日・夕刊、3版、2ページ、「とれんど」、犬伏一人)

 単に文字の成り立ちを説明しているだけでなく、コロナの社会を生きる人の励ましにもなっていることに感心します。言われてみるとその通りですが、それに気づかなかったことに、はっとさせられるのです。

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2020年8月 3日 (月)

ことばと生活と新聞と(164)

「火の手、水の手」を辞書に載せよう


 はじめて知った言葉であっても、それが強い印象を残す言葉があります。珍しい言葉ではありません。ごく当たり前の日常的な言葉遣いですが、そんな言い方があるのかと驚くことがあります。
 こんな文章の中に書かれていました。

 『みどりのゆび』というお話を子どものころ、読んだ。男の子が、町にも武器にも花を咲かせてしまうような話だったと記憶している。
 私はみどりの指を一本も持っていない。なんでも枯らす。驚くほど枯らす。サボテンだって枯らす。日本では、火の手水の手、というらしい。水の手は、さほど世話をしなくとも植物をうまく育てられる人のこと、火の手は逆に、どんなにがんばってもなんでも枯らしてしまう人のことらしい。
 火の手の私は、ひとり暮らしをはじめた二十年以上前から、「緑のある部屋」に憧れている。そりゃぁもう、よだれを垂らしそうなくらい、憧れている。
 (角田光代、『まひるの散歩』、オレンジページ、2012年6月8日発行、184ページ)

 植物をうまく育てられる人のことを「水の手」と言い、枯らしてしまう人のことを「火の手」と言うのは、わかりやすい日本語で、納得させられる表現です。すぐに外来語に飛びつかなくても、日常的な言葉遣いで、こんな含蓄のある表現ができるのです。
 ところが、手元の国語辞典を見ても、「火の手、水の手」という言葉は出ていません。インターネットにはありました。火の手、水の手、緑の手、緑の指、などの言い方をする人があるようです。緑の手、緑の指というのはやや直接的な言い方です。火と水を対応させて、火の手、水の手と言う方が望ましいと私は思います。
 火の手という言葉は、火災になったときに「火の手が上がる」という言い方をしますが、「火の手、水の手」と混同することはありません。「火の手、水の手」という言葉を日常的に使いたいと思います。
 何でも外来語で表現しようとするような動きを見つけたときには、「火の手」をあげて抗議し、穏やかな日本語を使おうとする「水の手」を推進したいと思います。
 国語辞典を編纂する人は、文字として書かれたもの(ビラなど)を写真に撮って、その1例だけを報告して自慢することがありますが、そんなことよりも、話し言葉の中にある気のきいた表現などにも注目してほしいと願っています。

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2020年8月 2日 (日)

ことばと生活と新聞と(163)

新聞見出しが、無造作に略語を作り上げている


 こんな見出しの新聞記事がありました。

 高速道、ETC専用化検討 / 国交省、課題も / 新規に購入なら補助? / クレカ持たない人は? / 誤進入対策どうする?
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月4日・朝刊、14版、3ページ、見出し)

 「クレカ」とは何なのでしょう。ETCカードという言葉は知っていますが、「クレカ」は知りません。JR系の「スイカ」や「イコカ」という命名は知っていますから、「クレカ」という名のカードが新しく作られているのかと思いました。
 本文を読み進めていっても、「クレカ」という言葉はなかなか出てきません。結局、文章の最後まで読んでも「クレカ」は現れませんでした。
 文章の終わり近いところに、「車載器に入れるETCカードはクレジットカードに連動しているものが一般的だ。カードを持たない人には、保証金を預ける専用カードが必要で、サービスの拡充を検討する。」とありました。「クレカ」とは、クレジットカードを短く言ったものであることがわかりましたが、「クレカ」という言葉は一般化しているのでしょうか。
 取材記者はきちんと「クレジットカード」と書いているのに、整理部担当者が無造作に略語を作り上げているのです。その略語の作り方は、まったく恣意的だと思います。国語辞典が認めていなくても、一般の人々が使い方に慣れていなくても、そんなことはお構いなしです。たぶん新聞社にはルールなどは作っていなくて、担当者の判断にまかしているのでしょう。これまでも、新聞見出しの不都合な表現については、何度も指摘してきましたが、このことに関して新聞社の考え方を聞いたことは、まったくありませんでした。これからも整理部担当者任せの野放図が続くのでしょうか。取材記者はきちんとした言葉を使っているのに、整理部が日本語の正しい表現を打ち壊そうとしているように感じます。
 新聞も放送も日本語を正しく使ってほしいと思います。文字数を減らさなければ見出しは書けないというのは、勝手な逃げ口上です。美しい日本語を使うことこそ報道機関の使命であると認識しなければなりません。

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2020年8月 1日 (土)

ことばと生活と新聞と(162)

ドミノと将棋はどう違うのか


 ドミノという言葉の意味は、『三省堂国語辞典・第5版』によると、「西洋カルタの一種。表面にさいころの目のように、一から六までのしるしを二つつけた、長方形のふだ」とあります。同じ辞典に「ドミノ倒し」という見出しがあって、「ドミノに使うふだを、少しすきまをあけて数多く立てて並べ、はしの一個を倒すと将棋倒しのようにつぎつぎと倒れ続けていくもの」という説明があります。この辞典には「ドミノ現象」という見出しもあって、「〔ドミノ倒しのように〕同じことが次から次へ連続して起こること」と説明されています。
 河井克行、案里容疑者の逮捕に関して、次のような見出しの記事がありました。

 カネ受領 言い訳ドミノ / 丸刈り 安芸高田市長「反省」 河井夫婦事件 / 1日で9議員 / 案里議員秘書 控訴
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月27日・朝刊、14版、35ページ、見出し)

 社会面(35ページ)の半分のスペースを使った記事ですが、記事の中には「ドミノ」とか「ドミノ倒し」という言葉は一度も使われていません。取材記者はきちんと言葉を選んで記事を書いているのです。
 同じ日のコラムの文章を引用します。

 広島の政界では今、ドミノ倒しのように「実はもらってました」という告白が続いている。衆院議員、河井克行容疑者による現金配布先とされていた地方政治家たちである。謝罪の記者会見で涙を見せる市議もいて、さながら懺悔ドミノだ
 ある市長は反省の印に丸刈りになっており、浪花節的でもある。昔の歌謡曲のような台詞も飛び出した。今まで黙っていた理由は、「2人だけの秘密」だと河井議員から念を押されたため。秘密を守るのは「2人の約束」だったらしい
 約束は少し前まで律儀に守られていた。社会学者ジンメルによる指摘が当てはまるか。2人あるいは二つの集団の一切の関係は「そこに秘密が存在するか否か、さらに秘密がどれほど存在するかの問題によって性格づけられる」と『社会学』で述べている
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月27日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 新聞に見出しを付ける整理部記者は「ドミノ」という言葉が好きなようです。さらに輪をかけたように「天声人語」の筆者は、「ドミノ倒し」「懺悔ドミノ」という言葉を使っています。取材記者が使わない言葉を、彼らより上の位置にある人が使っているのです。なるべく衝撃的な言葉を使おうとする意図が働いているのでしょう。
 そして、4日後に、次のような見出しの記事がありました。

 わびる首長 辞職ドミノ / 安芸高田市長が表明 3人目 河井夫妻事件 / 「被買収」返金しても罪の可能性
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月1日・朝刊、14版、27ページ、見出し)

 6月27日と同様に、社会面(27ページ)の半分のスペースを使った記事ですが、この日の記事には、段落の冒頭に「ドミノ」という言葉が使われています。

 「告白ドミノ」から「辞職ドミノ」へ--。広島県内の首長2人の辞職と辞職表明が30日、相次いだ。「明日はわが身かも」。現金を受領した議員からは、進退を思い悩む声も漏れる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月1日・朝刊、14版、27ページ、東谷晃平)

 7月1日の記事についての推測ですが、〈「告白ドミノ」から「辞職ドミノ」へ--。〉という言葉は、取材記者が唐突にこんな言葉を使うようには思えません。整理部記者が「ドミノ」という言葉を使いたくて、「告白ドミノ」「辞職ドミノ」という言葉を作って記事に割り込んだ表現を加えて、それを見出しにも使おうとしたのではないでしょうか。

 それにしても、不思議に思うことがあります。「将棋倒し」と「ドミノ倒し」とは、意味が似通っているのに、「カネ受領 言い訳ドミノ」「辞職ドミノ」とは言えても「カネ受領 言い訳将棋」「辞職将棋」とは言えません。なぜなのでしょうか。「ドミノ」という言葉には「ドミノ倒し」という意味を込めてしまっているのです。あるいは、字数の関係から「倒し」という言葉を切り捨ててしまっているのです。
 群衆の事故などで「将棋倒し」という言葉を使うときには、わずか10人程度による事故には使わず、何十人、何百人のときに使うでしょう。それに対して「ドミノ倒し」は3人であっても使いますし、10人程度でも使います。数字が異なるのです。「将棋倒し」のような数字でなくとも、僅か数人でも「ドミノ倒し」と言い始めたのは、整理部記者やコラム執筆者であるのかもしれません。いかにも粗雑な言葉遣いです。
 別の話題になりますが、「天声人語」の用字について、おかしいと思うことがあります。「2人あるいは二つの集団」という表記です。「2人」と「二つ」の用字の違いは理解できません。「天声人語」を書き写すことを生徒・学生に推奨するのなら、用語・用字の基本的な考え方を示す必要があります。学校教育に介入しようとするのなら、責任がついてまわることを自覚しておく必要があります。
 文字数の関係で漢字と仮名とをいじることもやめてください。「今」と書いたり「いま」と書いたりすることをはじめとして、毎朝見るコラムは用字が混乱しています。学校教育にとっては実に迷惑なことです。
 用語にも気をつけてください。「ドミノ」などという言葉を使うよりも、もっと適切な言葉を選ぶというのはもちろんのことです。

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