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2020年9月 1日 (火)

ことばと生活と新聞と(193)

中学生が国語の教科書で「ならった」名文


 文春文庫に、文藝春秋(編)『教科書でおぼえた名文』(2015年12月10日発行)という一冊があります。カバー裏面の言葉を引用しますと、「昭和二十年代から五十年代までに日本の学校で使われた小学高学年と中学の国語の教科書のなかから、もう一度読みたい三十二篇の古典、小説、随筆をよりすぐった名文集。」ということです。
 私は昭和40年から高等学校で国語を教えました。硬質の文章も多数が収録されている教科書でしたが、当時の中学校教科書のレベルも高かったということを再認識しました。
 例えば、和辻哲郎「偶像再興」、谷崎潤一郎「文章読本」、柳田国男「なぞとことわざ」、夏目漱石「硝子戸の中から」、国木田独歩「武蔵野」、岡倉覚三「茶の本」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、寺田寅彦「触媒」、森鴎外「山椒太夫」などが並んでいるのです。古典では「枕草子」「徒然草」「玉かつま」「論語」などが収められています。
 高等学校の学習指導要領の改訂が話題になっています。文学国語よりも論理国語を重点を置こうというものですが、昔日の感があります。『教科書でおぼえた名文』に収められているような文章を、当時の中学生がどこまで理解したのかはわかりませんが、レベルの高い文章に接していたことは事実でしょう。
 「その文章は、中学校のときにおぼえた」という経験は大切なことでしょう。ふとしたときに思い出して懐かしく感じることもあるでしょう。「中学校のときにおぼえた」ということは、細かなことまできちんと身についていなくても、人間を育てる役割を果たしていたのです。
 ところで、「おぼえる」という言葉は、どういう意味でしょうか。仮に『三省堂国語辞典・第5版』を見ると、このように説明されています。

 ①感じる。気がつく。「寒さを - 」
 ②経験したり習ったりして、頭に・入れる(残す)。( 忘れる)
 ③〔文〕思われる。「おことばとも覚えませぬ」

 残念なことですが、『教科書でおぼえた名文』とか、「中学校のときにおぼえた」とか言う場合の「おぼえる」の意味は、上記の①~③では説明されていません。①や③でないことは明確ですが、②のように「頭に・入れる(残す)」とまではいきません。もっと軽い意味なのです。
 『教科書でおぼえた名文』の本を見て、「そういえば、中学校のときにおぼえたなぁ」と思い出す程度のことです。それでも、中学校の時代に「おぼえた」のは紛れもない事実なのです。「おぼえる」という言葉を「ならう」という言葉に置き換えても差し支えないでしょう。『教科書でならった名文』と言ってもよく、「そういえば、中学校のときにならったなぁ」と言ってもよいのです。
 学習指導要領の言葉を使えば、「履修した」ということなのです。〈学習した〉〈勉強した〉〈ならった〉ということであって、「修得した」段階に達していなくてもよいのです。「ピアノをおぼえたけど、上手には弾けない」というようなこともあります。このような意味での「おぼえる」はしょっちゅう使っていますが、そういう意味が国語辞典に載っていないのは欠陥だと言わねばなりますまい。
 国語辞典の編纂者は、新語や流行語を載せることに一生懸命になる前に、ごくありふれた日本語の意味を漏れなく説明できているかということを確認すべきだと思います。

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