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2020年8月 6日 (木)

ことばと生活と新聞と(167)

一例を全体の論理の骨組みにしてはいけない


 幼い子どもが「みんな、ゲーム機を買ってもらっている」と言って、親にねだることがあります。「みんな」と言ったけれども、実は仲のよい友達のひとり(あるいは、ふたり)だけのことであった、ということがあります。子どもの世界ではそういうことがよくあります。
 新聞の社説でそのような書き方をすれば、どうでしょうか。
 高等学校の学習指導要領の改訂に伴って、国語科の科目が再編されて「論理国語」と「文学国語」という科目が登場します。そのことを論じた社説の一部(ひとつの段落)に、こんな表現がありました。

 実際に学校現場はこれまで、物語の構造を分析し論理的な思考力を養う授業を重ねてきた。教員経験のある研究者は、物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいると話す。取りあげる文章の種類に最初からたがをはめてしまうと、教材の多様さが失われ、そうした相互作用は働きにくくなるだろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月31日・朝刊、13版S、8ページ、「社説」)

 このような社説はどんな人が書いているのだろうという疑問が、頭をかすめます。高校教育において、論理的な思考力は、さまざまな分野の文章などで養ってきました。国語科では主として文章によるのですが、それは書かれた文章だけではありません。聞くことや話すことにおいても培ってきました。
 〈教員経験のある研究者は、物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいると話す。〉という表現は、まるで子供だましのような例示です。〈教員経験のある研究者〉というのはどんな人なのでしょう。実在する人でしょうか。高等学校で教員を経験し、今は研究者(大学教員)である人なのでしょうか。そんな人が〈物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいる〉と話したりするのでしょうか。ばかばかしい談話です。物語を読んでいるうちに、苦手だった説明文が読めるようになった生徒などは、いくらでもいます。そうでない生徒もいます。生徒の成長は様々の形で現れます。一例をもとに全体の説明をすることなどは成り立たない論理です。まったく論理性のないことを述べているのです。本当に、〈教員経験のある研究者〉に取材して、こんな馬鹿げた談話を聞いて、社説に書いたのでしょうか。
この社説の末尾は、次のように締めくくられています。

 そもそも論理国語がめざすような思考力や表現力は、国語だけで養われるものではない。理科や地理歴史・公民などとの関わりも深い。高校教育全体の中でそうした力を養う方策について、議論を深めてはどうか。

 思考力や表現力は、理科、地理歴史、公民だけで養われるものではありません。数学も英語もその他の教科でも(高校の全教科で)養っているのです。〈高校教育全体の中でそうした力を養う方策について、議論を深めてはどうか〉という発言は、高校での指導の実際の姿を知らない者の言葉です。思考力や表現力の養成について高校教育が機能していないというような批判に聞こえます。こんな言い方に、腹を立てない教員はいないだろうと思います。
 この文章は、新聞社という机上の空間から、高校教育を眺めているような表現です。「教員現場」などという見下したような言葉を使ったり、生徒のことを「子」と言ったりして、言葉も稚拙です。
 引用した個所でないところで書かれていることですが、大岡昇平の「レイテ戦記」が全集で「小説」に分類されていたら、高校教員はみんな小説だと認識するのでしょうか。「目的にかなう教材だと思えば、ジャンルにこだわらずに、どんどん活用すれば良い」などということは、心ある教員は実践していることです。この社説は、文科省への鋭い提言などはなくて、高校教員に教示を垂れるような姿勢で書かれているのです。

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