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2020年9月15日 (火)

ことばと生活と新聞と(207)

ほんとうの言文一致体


 文章の言葉遣いを話す言葉に一致させることが「言文一致」ですが、明治時代初期に二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉らが試みて次第に普及してきました。現代の口語文は、言文一致の営みの成果だと言われていますが、書き言葉を話し言葉に近づけることは、どこまで可能なのでしょうか。
 昔に比べると、書き言葉と話し言葉の差が小さくなっていると思いますが、それをまったくなくすことは無理かもしれません。あるいは、話し言葉をそのまま文字にすると、おかしな日本語になってしまうかもしれません。
 そんなことをいろいろ考えさせるような文章があります。

 ご近所の幼稚園の話らしい。ちょっと感動した~、と言うのだ。ママさんが。小学校のPTA室で。お便りのホチキスどめをしながら、マスクをしたお母さん、3人だ。(わたしも含む。わたしお母さんだった。時々忘れる……)
 「下の子の幼稚園で、年少さん、年中さん、年長さんのチョーを決めたんだけど」
 「チョー?」
 「長。まとめ役というか」
 ほう、ほう。あったね、そういうの。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月4日・朝刊、13版S、21ページ、「オトナになった女子たちへ」、伊藤理佐)

 この連載は毎回、このような言葉遣いで綴られています。この日の文章の冒頭部分を引用しました。会話文が話し言葉そのままで書かれることはごく普通のことですが、この文章は、地の文も会話文も同じような書き方です。頭に浮かんだままを文字にしているのです。究極の言文一致かもしれませんが、非常に珍しい書き方です。
 書き言葉の文章と異なるところは、頭の中に思いつく順序のままで書き並べたという体裁です。長い文もありますが、極端に短い文もあります。これを書き言葉にする場合は、どういう順番で書いていこうかということを考えて整理するはずですが、それが行われていません。この程度の長さの文章であると、読み誤る(意味を誤解する)ことはないと思いますが、内容が複雑なものになったら、支離滅裂という印象になるかもしれません。言文一致とは言え、書き言葉として表現するときには、それなりの作法(方法)があるということを、改めて感じさせられました。

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