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2020年10月31日 (土)

ことばと生活と新聞と(253)

「マイクロ」「極小(きょくしょう)」「極小(ごくしょう)」


 新聞の見出しは、一貫した方針のもとで言葉を選んでいるのではありません。文字数によって言葉を選んでいるということが多いようです。
 「極小ドローン 大活躍」という見出しの記事は、写真中心の紙面構成になっていますが、本文は「マイクロドローン」という言葉が使われています。「極小ドローン」という言葉が広く使われているか否かというようなことは考えずに、文字数で決めているのです。
 本文は、こんな文章です。

 手のひらに載るほど小さなドローン、「マイクロドローン」。その小ささを生かし、様々な分野での活用が始まっている。
 大阪メトロ(大阪市西区)では2月から、41駅のホームで壁面などコンクリート構造物をマイクロドローンを使い点検している。 …(中略)…
 マイクロドローンの導入で、足場も不要になり作業日数やコストの削減も期待できるうえ、一度に点検できる範囲も広がった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月30日・夕刊、3版、2ページ、「SCENE」、白井伸洋)

 ところで、「極小」という言葉は、どう読むのでしょうか。国語辞典に「きょくしょう」と「ごくしょう」が載っている(〇印)か、載っていない(×印)かを調べたところ、次のような結果でした。

『三省堂国語辞典・第5版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう 〇
『現代国語例解辞典・第2版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『広辞苑・第4版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『岩波国語辞典・第3版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『明鏡国語辞典』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『新明解国語辞典・第4版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×
『旺文社国語辞典・改訂新版』
  きょくしょう 〇   ごくしょう ×

 このうち、『現代国語例解辞典・第2版』は、2項目のうちの前項を、次のように書いています。

 ①極めて小さいこと。ごくしょう。 ←→極大。

 「きょくしょう」「ごくしょう」の両方の読みを書いているのは『現代国語例解辞典・第2版』と『三省堂国語辞典・第5版』だけです。
 『三省堂国語辞典・第5版』から引用します。

 きょくしょう〔極小〕
  ①〔文〕きわめて小さいこと。
②〔数〕数量がだんだんへってきて、これからふえはじめる点。ミニマム。
 ごくしょう〔極小〕
  きわめて小さいこと。「 - 未熟児」

 「極小」の読みなどは、国語辞典で確かめずに適当に読む(黙読の場合は、読み方などに迷ったりしない)ことが多いと思います。
 対の語である「極大」も、「ごくだい」と読む人が増えていくのかもしれませんね。
 ところで、大阪メトロは大阪市内に路線網が広がっていますが、「大阪メトロ(大阪市西区)」という書き方は誤解を招くかも知れません。西区は本社所在地のことを言っているのでしょう。マイクロドローンで点検したのが西区内というわけではありません。

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2020年10月30日 (金)

ことばと生活と新聞と(252)

数字が枯渇するのか


 枯渇というのは、水が涸れるということや、物が尽きてなくなるということを表す言葉です。資源が枯渇する、というような使い方をします。数字や数値が枯渇する、とは言わないように思います。
 こんな文章がありました。

 先日、出勤中にアルファベットが交じったナンバーの車を見かけた。2年前から一般車にも使われるようになったことは知っていたが、見たのは初めてだ。
 導入理由は1998年に始まった希望ナンバー制度にある。一部のナンバーに人気が集中し、枯渇対策としてプレート右上の「分類番号」にアルファベットが導入された。 …(中略)…
 人気ナンバーは抽選対象で、「1」は数十倍の競争率になることも。「1122(いい夫婦)」などの語呂合わせも人気で、富士山周辺では標高と同じ「3776」への希望が多いなど地域性もあるという。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年10月20日・夕刊、4版、8ページ、「キーボード」、上田友也)

 車のナンバーは文字や数字を使って表しますが、主体になっているのは数字です。数字4桁と仮名文字との組み合わせでは限界があるのは当然ですが、その限界に達することを「枯渇」と言うでしょうか。何でも熟語で表したいという気持ちはわからないでもありませんが、本来の日本語を使って表してもよいでしょう。あてることのできるナンバーが「少なくなった」とか「なくなった」ということでしょう。「枯渇」という文字から受ける印象は、気持ちのよいものではありません。
 もう一つ、別の問題があります。「導入理由は1998年に始まった希望ナンバー制度にある」ということは、希望ナンバー制度を導入しなかったら、こんなことにならなかったということですね。ということは、希望の少ない(あるいは、嫌われる)ナンバーは使っていないということでしょうか。
 もしそうであったら、美味しくないものや新鮮でないものを食べないで捨てている、どこかの国の食料事情と同じように思われます。食品ロスと同じように、数字も使わないで捨てているのでしょうか。手前勝手な国民性がこのまま続いてよいとは思えません。

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2020年10月29日 (木)

ことばと生活と新聞と(251)

「個人の感想」なら、言いたい放題でよいのか


 広告といえども誇大であったり虚偽が含まれていてはいけません。それを追及されることを避ける意図からでしょうか、この頃の放送や新聞の広告には「個人の感想」という言葉が目につきます。
 例えば、こんな一例があります。

 感動体験
 お手軽なのに、角質ケアまで出来る!
 経済的な価格で、うるおいケアや、角質ケアまで出来て期待以上のオールインワン化粧品でした。使い続けたい商品だと確信しました。
     高田様(50代)
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月18日・朝刊、13版S、20ページ、アクアビューティーの広告)

 上記の言葉の下の方には、かなり小さな文字で、「個人の感想であり、感じ方には個人差があります。効果・効能を保証するものではありません。」と書かれています。効果・効能を保証しないものを広告に載せてよいのでしょうか。新聞社の姿勢が問われます。
 実はこのページは、記事の体裁を持った全面広告です。記事の体裁をとっている部分には、こんな見出しの文字が並んでいます。

 気になる肌の悩み / ツルンとなめらかに
 ハトムギと杏子でツルツルすべすべ
 「ありがとう」直筆の手紙に奮起
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月18日・朝刊、13版S、20ページ、アクアビューティーの広告)

 この会社の製品に問題があるとは聞いておりません。問題はないのでしょう。けれども、広告の言葉には疑問を持ちます。
 このページに書かれていることはすべて「個人の感想」なのでしょう。個人の感想ということであれば、何でも書けます。たった一人でもそのような感想を持てば、書けるのです。そして、「効果・効能を保証しない」ということを書いておけば、責任は問われないのでしょうか。それでは、誇大な言葉や虚偽の含まれた言葉を排除することはできません。倫理にもとるようなことも書くことができてしまいます。
 新聞社にとっては広告収入は大事でしょうが、広告内容(言葉)に責任は持たないということなのでしょうか。「個人の感想」という言葉が、大きな抜け道になっていることを重く認識してほしいと思います。

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2020年10月28日 (水)

ことばと生活と新聞と(250)

インド太平洋ってどこのこと?


 菅首相の外遊報道などで、「自由で開かれたインド太平洋」構想という言葉をよく聞きます。インド太平洋という地名のくくりかたがよくわかりません。インドという国と太平洋という海洋とがなぜ結びついているのでしょうか。
 それを説明する記事がありました。こんなことが書かれています。

 コブク郎  最近、ニュースで「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」という構想をよく聞くね。
A  日本が掲げる外交方針だよ。国際ルールを守ることや航行の自由といった価値観を共有する国々との連携を広げ、地域の繁栄と安定を進めるという考え方で、安倍晋三前首相が2016年に発表した。菅瀬政権も引き継いでいる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月20日・朝刊、13版S、2ページ、「いちからわかる!」、北見英城)

 外交方針の内容はわかります。けれども、この記事の中には、インドという地名、太平洋という地名は書かれていませんから、なぜ「インド太平洋」構想と言うのかはまったく理解できません。「いちからわかる!」という記事の見出しとは裏腹に、出発点が理解できないのです。中身がきちんとわからなくてもよいから、〈不特定多数の人がインターネット経由で財源などの提供をおこなうこと〉を「CR」と覚えておけ、というのと同じことです。
 なぜ「インド太平洋」構想という名前なのかということは、過去の新聞で説明されていたのかもしれませんが、今となっては説明を読みたくても、載っていないようです。
 やむを得ず、インターネットに頼ることになります。外務省のホームページに、「自由で開かれたインド太平洋」という見出しがあります。そこには、こんな言葉が見えます。

 アジア太平洋からインド洋を経て中東・アフリカに至るインド太平洋地域において、法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序を実現することの重要性が、国際社会で広く共有されてきています。

 これを読んでも、冒頭に書いた疑問は解消できません。「インド洋を経て中東・アフリカに至るインド太平洋地域」という言葉から判断すると、中東やアフリカまでの地域を「インド」と呼ぶということなのでしょうか。
 そもそも「インド太平洋」というのは、インド(国名)と太平洋(海洋名)とを合わせた言葉なのでしょうか。それともインド洋(海洋名)と太平洋(海洋名)とを合わせた言葉なのでしょうか。もし後者であるのなら「インド洋 太平洋」とすべきでしょう。「インド・太平洋」という書き方でも、誤解が生じ.かもしれません。インド洋と太平洋という2つの大きな海域をひとまとまりにできるのかという疑問もあります。
 「インド太平洋」というのは、中国の打ち出した「一帯一路」構想に対抗するもののようですから、政治戦略的な意味を持つ言葉なのでしょう。「GoToキャンペーン」というようなキャッチフレーズに過ぎなくて、「インド」がどこを指すのかというようなことは、どうでもよいことなのかもしれませんね。

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2020年10月27日 (火)

ことばと生活と新聞と(249)

新聞は、耳で伝わる文章を心がけてほしい


 新聞は文字言語を使い、ラジオは音声言語を使うということは当然です。けれども、例えばニュースなどの言葉を眺めると、同じ日本語でありながら、新聞の言葉は粗っぽいという印象はぬぐえません。
 ニュースで使われているラジオの言葉は、そのまま文字に直しても通用します。けれども、やたらに符号などを多用している新聞の言葉は、声に出して読むと奇妙なものが多いと思います。新聞の書き方は、一般の書き言葉とは違うと言ってもよいでしょう。
 例えば、ある日の新聞から引用しましょう。

 学校と保護者の連絡手段を「紙」から「デジタル」にし、ハンコは省略--。文部科学省は20日、全国の教育委員会や都道府県にそんな通知を出した。押印を省き、メールなどを使うことで保護者の負担を減らし、教員の業務効率化を図る。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月21日・朝刊、14版、1ページ、伊藤和行)

 子どもが自宅などに置き去りにされ、死亡する事件が相次いでいる。なぜ保護者は誰も頼らず、子どもを死なせてしまうのか。育児で孤立感を深める「弧育て」を防ぎ、子どもの命を守るために何ができるのか、模索する人々の取り組みから3回で考える。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月21日・朝刊、13版S、17ページ、中井なつみ)

 東京から地方に移り住んで拠点を構える落語家が相次ぐ。演芸は人口の多い首都圏や関西圏でしかできないと考えられてきた。政府機関の先を行く(?)移転に、どんなそろばんをはじくのか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月21日・朝刊、13版S、26ぺージ、井上秀樹)

 いずれも記事の冒頭の部分からの引用です。
 一つめの記事。「紙」、「デジタル」とカッコ書きになっていますが、朗読するとカッコの意味は消えてしまいます。カッコを付けることに特別な意味があるのなら、それを言葉で説明すべきでしょう。そして、文末を -- にすることも、朗読したら語感は消えてしまいます。しかも、ぞんざいな書き方という印象だけが残ります。
 二つ目の記事。「弧育て」という文字遣いは、朗読したら伝わりません。「子育て」と同音の言葉を使うことは望ましいことではありません。この記事は3回の連載になる予定ですが、「模索する人々の取り組みから3回で考える。」という文は、おかしな日本語になっています。
 三つ目の記事。朗読すると、(?)を付けた語感などはまったく伝わりません。
 ここで指摘したことは、新聞の文章は、言葉を練る努力をしないで、符号などを使うことによって逃げようとしているのです。言葉をうまく使おうとする努力を放棄していると言ってもよいでしょう。
 要するに、符号を多用し、略語や新語(勝手に作った言葉)を多用する言葉遣いは、目に訴える働きはあっても、日本語の本来の言葉遣いとは行き違ってしまっているのです。新聞はそのような言葉遣いに疑問を持たず、使い続けているのです。早く気付いて、改めてほしいと思います。
 新聞は、「視覚に障害のある人のことも考えて」などと殊勝なことを言っていますが、現実はそのようにはなっていません。耳だけで(朗読を聞くだけで)伝わる日本語を用いて表現すべきでしょう。

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2020年10月26日 (月)

ことばと生活と新聞と(248)

文字の使い方の乱暴さ


 同じ言葉であっても文字の選び方によって印象は異なります。ひらがな、カタカナ、漢字を使い分けることなどによっても効果は違ってきます。
 広告の文字などにはそのような効果を狙ったものがありますが、新聞は正統的な文字遣いをして、人々に示すべき務めがあると思います。
 そもそもニュース報道を放棄して、夕刊の報道姿勢を放棄してしまっている新聞の紙面づくりには愛想を尽かしていますが、セット販売とかで、夕刊の購読を辞退することができないのは残念なことです。
 夕刊の1面には、しばしば読み物が掲載されます。どうしてこんな読み物が選ばれるのだろうかと疑問になることは、日常の茶飯事のようになっています。
 ある日の夕刊1面記事の見出しは、次のようなものでした。

 みらくるな物々交換 / 大阪のNPO「コロナ禍で支援活動」 / まるで「わらしべ長者」換金し寄付計画
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月23日・夕刊、3版、1ページ、見出し)

 「ミラクル」という言葉は、普通はカタカナ書きをするでしょう。外来語をひらがな書きにすることは、商品名やキャッチコピーなどに広がっていますが、それに追随することは新聞の方向としては正しいことなのでしょうか。そもそも1面トップニュースの言葉として「ミラクル」は大げさです。よほどの大事件かと誤解しかねません。しかも「みらくる」というひらがなになっています。
 なぜ「みらくる」という書き方にしたのかは記事を読めばわかります。NPO法人の名前が「みらくる」であるのです。迎合するのも甚だしいと思います。その法人の宣伝に一役買っているという感じです。

 もう一つ、別の例を書きます。こんな見出しの記事がありました。

 菅政権発足 主権者には力がある、夜露死苦。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月30日・朝刊、13版S、11ページ、「多事奏論」、見出し)

 この文章は、文末に次のような表現があります。

 私たち、出がらし茶漬けになんでこんなに期待しちゃってるんだろ。世界には心躍る食べ物がたくさんある。メニューになければ自分で作ればいいのさ。私たち主権者にはそのちからがあるんだぜ。ね、そこんとこ夜露死苦。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月30日・朝刊、13版S、11ページ、「多事奏論」、高橋純子)

 筆者は編集委員だそうです。なんという言葉遣いでしょう。「夜露死苦」という言葉の他にも、人を食ったような言葉が山積しています。驚くしかありません。こういう文章を書く人が新聞社のリーダーであるのが不思議です。これでは、新聞の文章に気品を求める方が無理というものでしょう。「よろしく」を「夜露死苦」と書く文字遣いが、どこに出典があるのかは知りませんが、そういう文字を何の反省もなく使う筆者は、どういう心の持ち主なのでしょうか。しかも、その文字を見出しに使うように指示したのでしょう。主張されている内容に異論を申しているのではありません。言葉の感覚が喪失していることに対する批判です。
 以上の例から明らかでしょう。新聞社はNIE(教育に新聞を)などということを、学校に向かって推進しようという資格があるのでしょうか。私も新聞を使って生徒を指導してきました。かつては気品のある新聞が作られていたからです。もはや、大新聞といえどもそんな姿勢をかなぐり捨ててしまったようです。残念でなりません。

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2020年10月25日 (日)

ことばと生活と新聞と(247)

「就職」と「入職」はどう違うのか


 保育園や幼稚園に入ることは「入園」、小学校から大学までの学校に入ることは「入学」と言います。入園式や入学式があります。〇〇スクールなどという名の専門学校があるとしても「入学」と言ってよいでしょう。
 就職して会社に入ることは「入社」ですが、官庁などに入ることは何と言うでしょうか。「入庁」とか「入省」という言葉を見かけることがありますが、広く使われているのでもないでしょう。では、社会福祉協議会に就職するのはどう言うのでしょうか。「入会」という言葉は別の意味で使われることが多いのですから、使うことは避けているでしょう。
 そのような立場の人を紹介する記事がありました。

 大阪府豊中市生まれ。1987年、豊中市社協に入職。全国初のコミュニティソーシャルワーカーに。NHKドラマ「サイレント・プア」のモデルになり、監修を務めた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月17日・夕刊、3版、3ページ、「いま聞くinterview」)

 「にゅうしょく」という発音を聞いて思い浮かべる文字は「入植」です。朗読したら(あるいは、放送の原稿であるのなら)、「入職」という言葉はふさわしくありません。
 国語辞典で「入職」を見出しにしているのは少ないのですが、『三省堂国語辞典・第5版』は「入職」を次のように説明しています。

 その職業について、職場ではたらくこと。( ←→離職)

 この説明に従えば、どんなところへ就職しても、それは「入職」と言えそうですが、会社に入ることを「就職」とは言っても「入職」と言うことは見かけません。「入社」などという言葉を使いにくい団体などの場合に限って「入職」と言うのでしょうか。
 「入職」の対になる言葉は「離職」でしょうか。対を考えるならば、入園⇔卒園、入学⇔卒業、入社⇔退社(または退職)、就職⇔退職、でしょう。入職⇔退職、という対になるのではないでしょうか。
 『三省堂国語辞典・第5版』が、入職⇔離職という対を設けていることから判断すると、「入職」とは、短期間の、仮の職業であって、離職の可能性もあるような危うさを感じてしまいます。
 現実の「入職」が、この新聞記事以外で、どのような場合に使われているのかは知りません。けれども、こういう場合に、何が何でも漢字2字の言葉を使わなければならないわけはないでしょう。「1987年、豊中市社協にはいる。」でよいでしょう。その団体が、新たに就職した人を集めて行う式が、入社式であっても入会式であっても辞令交付式であってもかまわないと思います。
 同じ日本語であっても、新聞は漢語(熟語)を使って表現する傾向が強いと思いますが、和語もどんどん使えばよいのです。おかしな言葉を作り出すよりも、和語を駆使して表現すればよいのです。

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2020年10月24日 (土)

ことばと生活と新聞と(246)

「カネを積まれても使いたくない日本語」?


 連載を続けている、「ことばと生活と新聞と」のコラムは、日本語としておかしいのではないか、できればやめてほしいというような例を取り出して紹介し、私の意見を添えています。
 そのようなことを集めた本は何冊も出ています。内舘牧子さんの『カネを積まれても使いたくない日本語』もそのような本です。賛同する内容がとても多いのですが、書名だけは感心しません。「前書き」の中から引用します。

私は『週刊朝日』に連載エッセーのページを持っているのだが、時々、言葉の乱れについて個人的な所感を書くことがある。すると、毎回毎回、たいへんな反響で、メールや手紙がドカッと届く。 …(中略)…
 多くの人々が、こんなにも言葉の乱れを憂えているのか。そこで、私は同誌の連載で読者に、
 「カネを積まれても使いたくない言葉」
を知らせてほしいと書いた。
 もう、編集部が驚くほどの手紙、メールが全国から届いた。中には、
 「カネを積まれても……なんていう言葉こそ下品だ。使いたくない」というものや、「カネを積まれてたら、どんな言葉でも使う」というものもあり、これには笑った。
 (内舘牧子、『カネを積まれても使いたくない日本語』、朝日新聞出版(朝日新書)、2013年7月30日発行、3ページ~4ページ)

私の思いは、「カネを積まれても……なんていう言葉こそ下品だ。使いたくない」という反応にぴったり一致します。「カネを積まれても使いたくない」は、著述家や出版社が使うのには適しているのかもしれませんが、一般の人が使う言葉ではありません。下品であり、不快感を持ちます。
 それだけではありません。「カネを積まれて」何かの言葉を使わなければならなくなるような状況が、論理的に成り立つのかという疑問があります。言葉はひとりひとりが選んで使うものです。人の真似をして使うこともあります。けれども、使うように仕向けられることは、ほとんどないと思います。カネとは無関係です。
 強いて言えば、オレオレ詐欺の犯人グループの首領が、手下に向かって言葉遣いを指南することぐらいしか思い浮かびません。この場合は、その言葉を使った成果としてカネが与えられることになるのでしょう。
 普通の生活では、言葉に関して、「カネを積まれても使いたくない」というような事態は起こり得ません。この表現が、一種の強調表現、象徴表現であることは理解しますが、あり得ないことを表現しているに過ぎないのです。
 政治家には「カネを積まれても使いたくない言葉」というような葛藤があるのかもしれません。他には、犯罪に関することぐらいでしょう。私たちひとりひとりには、そのようなことはあり得ないのです。

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2020年10月23日 (金)

ことばと生活と新聞と(245)

「CF」、恐る恐るから、堂々とへ


 前回に書いたことの具体的な例は、日常的に紙面に現れています。これもその一例です。
 〈「自分事」広がるCF支援 / コロナ禍 住まい提供へ1.1億円〉という見出しの記事があります。「CF」には大きな文字で「クラウドファンディング」という振り仮名が付けられています。もちろん「CF」の文字数よりもカタカナの方が長いのです。そんなにまでしても「CF」という文字を読者の頭に印象づけようとしています。
 この記事の冒頭を引用します。

 インターネット上で資金を集める「クラウドファンディング」(CF)が、新型コロナウイルスの感染拡大で苦境にある人たちの大きな支えになっている。1億円超の資金を集めるプロジェクトも相次ぐ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月1日・夕刊、3版、7ページ、神田誠司)

 この言葉が耳慣れないということからでしょうか、この記事には「クラウドファンディング」の説明が載っています。

 英語で群衆を意味するクラウド(crowd)と資金調達を意味するファンディング(funding)を組み合わせた造語。インターネットのサイトを経由して多くの人から少額の資金を集める仕組みやサービスを表す。出資に対する見返りの有無などで「寄付型」「購入型」「投資型」などに分類される。コロナ禍では客の減った商店や映画館を支援したり、医療機関にマスクを贈ったりと様々な目的で活用されている。日本には「レディーフォー」のほかにも「キャンプファイヤー」「マクアケ」など多くのサイトが存在する。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月1日・夕刊、3版、7ページ)

 新聞は、言葉の説明が必要なものであっても、略語を使うのです。
 続く記事も、「CF」に「クラウドファンディング」という振り仮名を付けた見出しです。〈CFの利用急増 / コロナ禍の支え / 手数料ゼロ 8割が「初心者」〉という見出しです。
 この記事の冒頭を引用します。

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、インターネットで不特定多数から資金を集めるクラウドファンディング(CF)の利用が急増している。資金を迅速に調達したい事業者と、資金の出し手がともに増え、すそ野を広げる取り組みも普及を後押ししている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月11日・朝刊、14版、3ページ、木村裕明)

 この記事にも「クラウドファンディング(CF)」についての言葉説明が付いています。まだ耳慣れない言葉であるという配慮からでしょう。
 そういう状況が続いた1か月後、今度は堂々と「CF」だけで見出し語として独立しています。〈ビニール傘発明会社CFで再起へ / 災害にもコロナ禍にもマケズ〉という見出しです。東京都台東区の「ホワイトローズ」という会社を紹介した記事ですが、見出しは「CF」で、本文は「クラウドファンディング」という言葉です。2つの言葉の結びつきは書かれていません。

 千葉県の同社工場が東日本大震災、昨年の台風と相次ぐ自然災害で再建不能に。「国産ビニール傘の火を消したくない」と、クラウドファンディングで集めた資金で新工場に移り、再起を図っている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月15日・夕刊、3版、6ページ、杉浦達朗)

 これまでに何度も書いていますが、見出しは記事を整理する人が付けたのです。本文は「クラウドファンディング」を使っていますが、それを「CF」と書いたのは整理部の担当者です。遠慮がちに使っていても、一挙に、堂々とした使い方に変化するのですね。
 それにしても、記事で使われている「クラウドファンディング」というカタカナ外来語は、日本語で表現できないのでしょうか。言葉の説明で使われている語を使えば「群衆資金調達」と言えます。「群衆」という言葉は「多数者」「大衆」「不特定者」などに置き換えてもよいでしょう。新聞記者には、日本語〈漢字〉は野暮ったい、外来語(カタカナ)は洗練されているというような先入観があるのでしょうか。こんなやり方をしていると、カタカナ外来語の数は、無限に増えていきます。
 ところでその後、CFでない見出し語が現れました。こんな見出しです。

 自主映画で スタッフと劇場を支えたい / コロナ苦境 クラウドファンディング実施中
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月18日・朝刊、13版、23ページ、見出し)

 この記事では建った一カ所だけ、「製作費は自己資金とクラウドファンディング(CF)で調達し、」という表現があるだけです。それでも「CF」という略語は提示しておこうという意図が見られます。見出しの書き方については、許容される文字数の範囲で臨機応変にという姿勢、別の言い方をすれば、その場その場に応じて適当に書いている感じです。一貫性がありません。
 政治家たちが目の前のことだけに夢中になって遠くまでの視野を持っていないのと同様に、新聞社も日本語の将来を見通す力に欠けているのかもしれません。目の前の小さな事から努力をしていくという姿勢が抜けてしまっているように思われます。
 ついでながら、「CF」という略語は、広告宣伝用のテレビ・映画(commercial film)という意味でも使われますし、サッカーやアイスホッケーなどの中央の前衛(center forward)という意味で使われます。別々の意味を表す言葉が増えるのは、望ましいことではありません。

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2020年10月22日 (木)

ことばと生活と新聞と(244)

誤用を誤用としない強引さ


 次のような文章を読みました。私はそこに書かれていることに賛成です。

 娘が四歳になってしばらくした頃、あるおもちゃを指し、「これ、さんかくいね」と言ってきた。
 一瞬戸惑ったが、すぐに意味がわかった。彼女は、「三角いね」と言ったのだ。これは三角っぽいと。
 彼女はすでに「四角い」という言葉を使うことができていたから、この言葉の規則的な応用を自力で生み出したわけだ。実に理に適っている。しかし、間違っている。
 間違いの理由を説明できるわけではない。実際、なぜ「四角い」はよくて、「三角い」は駄目なのだろう。
 自然言語には、規則的でない習慣的なものがあふれている。それは歴史や音韻やリズムなど、実に複雑な要素の賜物だ。子どもはその理不尽を呑み込んでいかなければ、言葉とともにある私たちの生活に入ってこられない。「四角い」から「三角い」を導くたぐいの高度な能力がなければ、言語習得はそもそも困難だが、その能力を野放図に発揮することも許されないのだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月3日・朝刊、13版S、24ページ、「古田徹也の言葉と生きる」)

 引用した文章には異論はありませんが、現在の新聞の言葉の使い方を見たとき、四歳の子どもと同じことをしているように思われてなりません。
 「自然言語には、規則的でない習慣的なものがあふれている」と筆者は言っています。「子どもはその理不尽を呑み込んでいかなければ、言葉とともにある私たちの生活に入ってこられない」のです。けれども、それはごく普通の生活をしている、大多数の人々の立場です。
 新聞は、自分たちが社会を動かすリーダーであると心得ているようです。自然言語の習慣を破ることもリーダーの務めであると誤解をしているようです。その例を、私はこの連載でいくつも書き連ねてきました。「理不尽」な日本語の表現方法を書き示して、それがこれからの日本語のたどるべき姿であるかのように主張しているのが、新聞の言葉遣いです。
 むやみやたらにカタカナ外来語を使い、その略語を作り出し、日本語本来の表現力の豊かさ潰そうとしています。文章は、目で追って理解するものであると考えて、朗読に耐えられないような文章を書き連ねています。外国語の真似をすることに注力して、日本語への温かい目が失われてしまっています。
 四歳の子どもには、そんな言葉はよくないと指摘できても、新聞が堂々と使うおかしな日本語には目をつぶらざるを得ないようになっているのです。新聞記者は言葉を自由に操ることができます。けれどもそれを「野放図に発揮」しているのが、現在の新聞の言葉だと思います。放送の言葉も同様です。
 新聞社には校閲の部署がありますが、その力を発揮していないのが、現実のありのままの姿であるのでしょう。

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2020年10月21日 (水)

ことばと生活と新聞と(243)

国語辞典では説明できていない「幻」


 「幻の名酒」「幻のラーメン」「幻の宝石」などという言葉があります。それは厳然と存在するのですが、なかなか手に入れることが難しいものです。すぐさま消えてしまうのではありませんが、なかなか手近に存在するものではないのです。広告などで使われる「幻の…」という言葉は、すべて現実に存在するもののはずです。そうでなければ、それを商品にできるはずがありません。
 こんな新聞記事もありました。

 ダム湖の水位変化で見え隠れするため「幻の橋」と呼ばれる北海道上士幌町の旧国鉄士幌線「タウシュベツ川橋梁」で、今年に入って新たに2カ所で大きな崩落が確認された。「11連のアーチが見られる姿も今年が最後」とささやかれて久しいが、関係者たちは「崩落を止めることはできない」と静かに見守っている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月23日・夕刊、3版、6ページ、「朝デジから」、中沢滋人)

 この橋梁は、間違いなく存在しているのですが、ダム湖の水位の変化で見えなくなる時期があるようです。消えてしまって再び見ることができない、というわけではありません。記事には書かれていませんが、この橋は、交通の便のよくない場所にあるので、見に行くのもたいへんなようです。それが「幻の…」と言われる理由でしょう。
 さて、国語辞典で「まぼろし(幻)」を引くと、次のような説明が書かれています。

『新明解国語辞典・第4版』
 それを見たり聞いたりした人があったと言われているのに、現実には存在が確認されていないもの。
『岩波国語辞典・第3版』
 ①実際にはないものが、あるように見えること。そういうもの。
 ②たちまちのうちに、はかなく消えてしまうもの。
『明鏡国語辞典』
 ①現実には存在しないのに、あるように見えるもの。幻影。
 ②存在が確認されていないもの。
『三省堂国語辞典・第5版』
 ①そこにはないのに、あるように見えるもの。
 ②あると言われているのに、見つからないもの。
『旺文社国語辞典・改訂新版』
 ①実際にはないものがあるように見えること。また、その見えたもの。幻影。
 ②たちまち消えるもの。はかないもの。
『現代国語例解辞典・第2版』
 ①実在しないものの姿が実在するように見えるもの。
 ②たちまち消えるはかないもの。
 ③存在が確かめられないもの。
『広辞苑・第4版』
①実在しないのにその姿が実在するように見えるもの。幻影。はかないもの、きわめて手に入れにくいもののたとえ。
 ②幻術を行う人。魔法使い。
『チャレンジ小学国語辞典・第4版』
 ①ほんとうはないのに、あるように見えるもの。
 ②話には聞くが、実際にはなかなか見られないもの。
 ③すぐに消えてしまうもの。はかないもの。

 実際にはないのにあるように見えるものとか、存在が確認されていないものとか、あるいは、存在してもたちまち消えてしまうものという説明になっています。「幻の酒」や「幻の橋」がたとえ比喩の要素を含んだ表現であるにしても、辞典のこのような説明では堪えられません。
 なんとか持ちこたえられるのは、一般の国語辞典の中では、中型辞典の『広辞苑・第4版』の①のうち、「きわめて手に入れにくいもののたとえ。」という説明しか見当たりません。
 子ども用の『チャレンジ小学国語辞典・第4版』の②「話には聞くが、実際にはなかなか見られないもの。」という説明が、最も適合するものだと言えます。子ども用の国語辞典にしか適切な説明が見出せないというのは、驚くことではありませんか。
 国語辞典編纂者である人が筆者になっている「街のB級言葉図鑑」が、毎週、新聞に連載されていますが、実におかしな言葉ばかりほじくり出している感じです。日本語のありのままの言葉をきちんと正確に説明する努力をされる方が、読者に対しては親切であると思います。

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2020年10月20日 (火)

ことばと生活と新聞と(242)

「高札」「はんなり」「オーバーツーリズム」


 「祇園の高札 はんなり変化」という見出しの記事がありました。さすがに京都を話題にした記事は見出しからゆったりとした趣です。記事にはこんなことが書いてありました。

 京都市東山区の花街・祇園で、観光客にマナー向上を求める高札の一部が改められた。 …(中略)… 新型コロナウイルスの影響で観光客が減るのに伴って迷惑行為も減ったため、「はんなり」路線に変わった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月16日・夕刊、3版、6ページ、佐藤秀男)

 高札というのは、昔、禁止事項や罪人の罪状などを書いて、人目のつくところに掲げた板のことです。京都では現代語の中にも高札という言葉が生きているのかと驚きました。カッコ付きで書かれていないから現代用語として使われているのではないかと思ったのです。
 「はんなり」は京都の言葉です。中井幸比古さんの『京都府方言辞典』には、「陽気で、明るく、ものやわらかな様。主に色彩に言う。」とあります。記事の場合は、言葉遣いがはんなりしていると言うのでしょう。
ゆったりとしたニュース記事ですが、同じ記事の中で、半年ほど前まではこんな様子であったと書いてある部分は、こんな言葉遣いです。

 観光客急増でオーバーツーリズム(観光公害)が問題化する中、お茶屋や飲食店の経営者らでつくるまちづくり協議会が、マナー違反者には「罰金」を科すと強気の文言を記して設置。 …(中略)… インバウンド(訪日外国人客)らが押し寄せ、道幅いっぱいに歩いたり、芸舞妓を追いかけ回して勝手に撮影したり。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月16日・夕刊、3版、6ページ、佐藤秀男)

「オーバーツーリズム(観光公害)」「インバウンド(訪日外国人客)」という書き方が気になります。「観光公害」「訪日外国人客」と書いても意味はじゅうぶん通じます。それを、わざわざカタカナ外来語を主にして、日本語の意味を従として、書き添えています。本末転倒です。
 この記事を書いた記者を責めるのではありません。新聞社の方針として、カタカナ外来語を主体にした文章を書いて、申し訳のように日本語を添えるというやり方を選んでいるように感じられるのです。
 そんなやり方はグローバルでも何でもありません。日本語で表現する工夫を放棄して、外来語に置き換えようとするような姿勢はやめてほしいと思います。人々にとって大切なことは、外国語の表現を覚える前に、しっかりした日本語を使えるようになることなのです。
 いくら英語の力が身についたとしても、日本語の力を超えた英語力を身に付けることはできないのです。新聞は率先して、人々を、日本語の力をそなえるように導くようにしてほしいと思います。

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2020年10月19日 (月)

ことばと生活と新聞と(241)

「課金」という言葉


 ときどき「課金」という言葉を見ることがあります。「課金」とは、料金を課すことだと思っていました。例えば駐車場には有料のところと無料のところとがありますが、有料のところは時間に応じて、駐車料を払う必要があります。このような〈料金を払うよう求められる〉場合に「課金」という言葉が使われると思っていました。
 ところで、この「課金」という言葉遣いは、2000年前後に作られた国語辞典には載っていないようですから、比較的新しい言葉であると言ってもよいのでしょうか。
 この「課金」が話題となっている記事がありました。

 小学1年の長男と遊んでいた同級生の男の子が、「スマホゲームを始めたんだ」と言った。社会問題となっている高額な課金が頭にあり、「それ、課金?」と聞くと、「違うよ、ひかきんだよ」という答えが返ってきた。
 私が「非課金なら大丈夫だね」と安心したのだが、横で話を聞いていたママ友たちから一斉に突っ込みを受けた。「『非課金』じゃなくて、『ヒカキン』よ」
 彼は、ゲームを実況しながらプレーする人気ユーチューバーのヒカキンさんに憧れ、同じゲームを始めたのだ。将来の夢も「ユーチューバー」だった。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年9月15日・夕刊、3版、8ページ、「キーボード」、喜多俊介)

 記者は「非課金なら大丈夫だね」と安心したと書いていますが、これはどういう意味なのでしょうか。スマホゲームの使用料という意味であれば、ゲームを楽しむための〈料金を払うよう求められる〉という意味です。無料だから安心というのです。
 もうひとつ考えられることは、そのゲームを友だち同士で〈お金を賭けてやっている〉という意味のようにも受け取れないことはありません。お金を賭けているのではないから安心というわけです。
 「課金」という言葉を、例えば大人が麻雀などでお金を賭けて行うことに使っても、(言葉遣いとしては)おかしくないし、現にそのような使い方が行われているのではないかと推測するのです。
 それにしても、「課金」という言葉が日常語として使われるようになった歴史は浅いのですが、もし、拡大した意味(金を賭けるということ)でも使われるとすれば、便利な言葉ゆえに、使用が拡大することになるように思われます。

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2020年10月18日 (日)

ことばと生活と新聞と(240)

新聞の見出しの働き


 一部のコラムを除いて、たいていの新聞記事には見出しが付きます。なぜ見出しが付けられるのかと言えば、記事内容を手短く示して、読者が記事を読むように誘い込むことです。わかりやすい表現が求められます。
 見出しは文字数に制約があります。けれども、いい加減な略し方をしたり、読者を迷わせる表現をしてはいけません。
 意外に文字数をたくさん使っている見出しに、こんな表現がありました。

 マイクロプラ 家事でも出ます
 洗濯で合成繊維くず・食器洗いでスポンジのカス…
 天然素材を選ぶなど 見直しや工夫を
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月3日・夕刊、3版、5ページ、見出し)

 こんなに多くの文字数を使えるのに、どうして「マイクロプラ」などという言葉を使わなければならないのでしょうか。
 本文には「マイクロプラスチック」という言葉が12回も使われています。それを略称で呼ぶという書き方はされていません。3枚の写真があって、そのうち2枚の説明文にも「マイクロプラスチック」という表記がされています。記者が丁寧な(あたりまえの)言葉を使っているのに、見出しがぶち壊しの言葉を使っているのです。
 新聞は、文字数が制約されているから略語を使うという大義名分を振りかざしていますが、それは言い訳に過ぎません。記事がきちんと書かれていても、見出しがおかしな表現になっていると、記事の質も低下したような印象を受けることがあります。
 たぶん記者に向かっては、正しい日本語を使うように指導をしているのでしょうが、その上に立って記事を整理する立場の人がいい加減な姿勢であるのかもしれません。
 この記事の文章はきちんと書かれています。
 例えば、こんな書き方です。

 高田教授は「気づかないうちにマイクロプラスチックを出しているかもしれない。洗濯ネットの使用や天然素材を選ぶなど意識を変えれば減らせる」と話す。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月3日・夕刊、3版、5ページ、藤波優)

 ところがこのような表現を、荒っぽく、文末の「と話す。」の部分を切り捨てて、おかしな日本語にしてしまったり、「マイクロプラスチック」を略語に変えたりするのは、整理部記者なのです。そのうち「マイプラ」などというわけのわからない言葉が使われるようになるかもしれません。

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2020年10月17日 (土)

ことばと生活と新聞と(239)

「気持ちを切り替える」を、短く切り捨てた表現


 このブログ(223)回で「気持ちを切り替える」という言葉について書きましたが、その続きです。
 こんな表現が、同じ日に2つありました。

 前日は新人の森下(明大)が5失点。この日は大瀬良が8失点。先発の柱まで立て続けに崩れては、打線の援護にも限界はある。
 「切り替えてやる。それしかない」。試合後、佐々岡監督は言った。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月6日・朝刊、14版、11ページ、藤田絢子)

 次第にミスが増えた22歳は第2セットを奪われると、ラケットをコートに投げつけて大声を上げた。
 第3セット前、ベンチで頭からタオルをかぶった大坂。「できる限りの力を出して戦おう」と切り替えた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月6日・朝刊、13版、15ページ、堤之剛)

 前の記事はプロ野球DeNA-広島戦のもの、後ろの記事はテニスの全米オープンのものです。短く「切り替える」と言っていますが、たぶん「気持ちを切り替える」ということでしょう。
 「切り替える」という言葉は、それまでの方法や制度などをやめて別のものにする、という意味です。
 前の記事では、これまでの戦い方(方法)をやめて新しいものにするという意味でしょうか。そんなことは簡単に行えるはずがありません。たぶん「気持ちを切り替える」という意味でしょう。
 後ろの記事では、「できる限りの力を出して戦おう」という表現を「切り替えた」と言い換えていますが、「切り替える」というのは、意志や意欲を述べるという意味と同じなのでしょうか。乱暴な表現です。
 それにしても、「気持ちを切り替える」という表現の「気持ちを」の部分を切り捨てて、単に「切り替える」という言葉だけで表現しようとするのはあまりにも乱暴です。新聞・放送などが乱暴に言葉を扱う状況がますます進んでいるように感じます。言葉の専門家であるべき新聞記者は、もっと言葉遣いに繊細であるべきでしょう。
 学校教育で新聞を取り上げてほしいと宣伝するのならば、新聞記事はもっとしっかりした言葉遣いをしなければなりません。NIEを話題にするときも、新聞社は記事内容のことばかり取りあげて、言葉遣いのことには逃げ腰であるように感じています。要するに言葉に対する自信がないのです。

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2020年10月16日 (金)

ことばと生活と新聞と(238)

「コミュ力」とは、言葉の表面的な力のことか


 コミュニケーションとは、言葉などによって思考・意思・感情・情報などを交換したり伝達したりすることだと思っています。したがってコミュニケーション能力とは、そのような交換・伝達をする力のことだと理解していました。私は、何でもつづめて言ってしまうことには良い感情を持っていませんが、コミュニケーション能力を短く言うと「コミュ力」という言葉になるのだろうと思っていました。
 ところが、そのような考えはどうも間違っているような気がしてきました。それは、次のような文章を読んだからです。

 コミュニケーション能力は、現代社会で重要視されている能力のひとつだ。いわゆる「コミュ力」は、一般に、研究者や学者には欠けていると評されることが多い。 …(中略)…
 相手との共通点を素早く見いだし、会話を繰り広げる様子を見て、「真のコミュ力とはこういうことか」と思ったのをよく覚えている。 …(中略)…
 職種や経歴、年齢層が異なる相手でも、お互いに楽しめる会話をする。それには幅広く豊かな知識が必要だ。かつては教養と呼ばれていたものこそが、この能力の本質かもしれない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月2日・朝刊、13版S、24ページ、「郡司芽久のキリン解体新書」)

 要するに、クイズは演者と視聴者のあいだの一種のコミュニケーションツールになっている。そのなかで「東大生タレント」は、「勉強ができる」という従来の東大生のイメージを崩すことなく、同時に親しみやすさを感じさせることに成功している。そのあたり、彼らもまた〝コミュ力の時代〟を象徴する存在と言えるだろう。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月12日・朝刊、14版、21ページ、「令和テレビ時評」、太田省一)

 上の2つの文章から、現代社会で求められている「コミュ力」のことを述べている部分を抜き出すと、「相手との共通点を素早く見いだし、会話を繰り広げる」、「職種や経歴、年齢層が異なる相手でも、お互いに楽しめる会話をする」、「演者と視聴者のあいだの…ツールになっている」、「親しみやすさを感じさせる」ということになるでしょう。
 「コミュ力」とは、「言葉の力」や「伝達能力」とは異なった意味で使われているように感じるのです。「言葉の力」や「伝達能力」は言葉を用いて行う根元的な力であるのに対して、「コミュ力」は表面的な、他人との付き合い方のような意味が強いように思います。「相手」や「視聴者」に好印象を与える力のようです。
 話は異なりますが、「グローバル教育」ということが叫ばれています。英語が話せるようになったり、パソコンが自由に使えるようになったり、討論能力や説明能力が高まったりすることのようです。グローバル化している企業戦士を育てる力にはなっているかもしれませんが、すべての国民にとって必須不可欠な能力ではありません。
 「コミュ力」も同じように、企業戦士を育てることには役立つかもしれませんが、国民必須の能力ではないでしょう。国語能力とか言語能力の基本を考えないで、上に述べたような「コミュ力」を高めてもしかたがありません。「グローバル教育」とか「コミュ力」というカタカナ語を使って、価値あるもののように装うことはやめてほしいと思います。

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2020年10月15日 (木)

ことばと生活と新聞と(237)

「アメ村」よりも「ア村」の方がよい


 固有名詞の書き方などで、昔の新聞にあったけれども、今は消えてしまっていることがあります。例えば、ニュージーランドを「ニ国」と書いたり、トランプ氏を「ト氏」と書いたりすることです。見出しなどで見かけることが多かったように思います。この書き方を見ると、本当は長いカタカナを書きたいのだけれども、スペースの都合で申し訳なく短く書くというような気持ちが現れていたように思います。敬意がある書き方のように感じておりました。
 今はどうなっているでしょうか。遠慮会釈なく、勝手に短く切り貼りした言葉を作り出すのが新聞の流儀のようになっています。
 例えば「アメ村」というような表記です。大阪のことに詳しい人ならば「アメ村」がアメリカ村のことを指していることはわかるかもしれませんが、飴村とか雨村とかを思い浮かべることもあるかもしれません。
 冒頭の一文字を使って表すということと、いくつかの文字を切り刻んで表記するということとは、考え方が異なっているように感じています。
 「アメ村」を使った見出しは、〈都構想PR旗、市が撤去指導 / アメ村の商店会に〉であり、記事には略称は書かれていません。

 大阪維新の会がつくった都構想推進を呼びかける旗を、大阪・ミナミの商店会組織「アメリカ村の会」が街路灯に設置し、大阪市が撤去するよう指導したことがわかった。 …(中略)…
 旗には「都構想にYESを。変えるぜ、大阪。」などと書かれており、市によると、今月1日からアメリカ村の街路灯に設置されている。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月7日・朝刊、14版、27ページ)

 「ア村」と書いたら、アメリカ村、アルゼンチン村、アフガニスタン村などと想像される範囲が広がるという懸念があるかもしれませんが、それなら略称など使うことはやめるべきでしょう。前述の通り「ア村」には敬意を感じても、「アメ村」のぞんざいさには敬意は感じられません。
 ソビエト連邦をソ連と言うのは、「ア村」と言うのと同じような理屈で、通称が定着したものでしょう。
 固有名詞などの言葉に対する敬意が喪失したら、言葉を扱う人としての資格はないように思います。

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2020年10月14日 (水)

ことばと生活と新聞と(236)

略称とは何か


 印刷物に誤りがあって、訂正が起こるのは当然のことと言ってよいでしょう。誤りをゼロにすることは無理でしょう。しかし、新聞に大企業や有名人に関わる訂正記事が出ることがよくありますが、小企業や無名の人の場合は訂正は無視されています。小さなもの、弱いものを軽んじるのは、政府と同じような姿勢であると思います。
 さて、訂正記事のひとつに、こんなのがありました。

 3日付金融情報面「経済気象台 信託銀行の大罪」の記事で、「三井信託」とあるのは「三井住友信託」の誤りでした。略称を誤って入力しました。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月6日・朝刊、14版、24ページ、「訂正して、おわびします」)

 2つの文で書かれているのですが、前の文に問題はありません。後ろの文は新聞社の独断のように思えます。
 昔、中央信託銀行と三井信託銀行が合併して中央三井信託銀行となりました。その中央三井信託銀行と住友信託銀行とが合併して三井住友信託銀行となりました。三井信託銀行はかなり以前に消滅した社名です。
 訂正記事の2文目は、「略称を誤って入力しました。」と書かれていますが、「三井住友信託」の略称が「三井信託」であるというのは、社会で広く認められていることなのでしょうか。あるいは金融業界での略称なのでしょうか。
 もしかして、「三井信託」が「三井住友信託」の略称であるというのは新聞社の内部だけでの扱いであるかもしれないように思います。
 新聞の紙面は略称だらけです。平気な顔をして「三住信」などという文字を使いかねないのが新聞です。三井も住友も同等に扱うはずの新聞が、三井住友信託の略称を三井信託とすることなどはありえないと思います。
 上の訂正記事は、「略称」の問題ではなく、「昔の社名」を誤って入力したと書くのが正しいのでしょう。「三井信託」銀行は厳然と存在した社名であって、略称ではありません。
 略称は、社内の便宜のために使うものではなく、社会で広く認められているものであるはずです。

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2020年10月13日 (火)

ことばと生活と新聞と(235)

下品な感じの記事


 夏目漱石の「吾輩は猫である」をはじめとして、言葉を操れない動物を擬人的に登場させる文章があります。そのことには何の違和感も持ちません。面白く感じる場合もあります。
 けれども、語る言葉には節度が必要でしょう。ニュース解説の問答に動物を登場させる記事がありますが、いかにも下品な感じは否めません。こんな書き方を決めたのは誰であるのか知りませんが、長い間にわたって連載が続いています。
 そのひとつに、「新しい最低賃金が決まったんじゃな」という見出しの記事がありました。ホー先生というのが登場するのですが、そのホー先生の語り口は次のようになっています。(発言部分のみ引用)

 ホー先生  新しい「最低賃金」が決まったのか?
 ホ  今年はいくらかな?
 ホ  引き上げ額の目安はどう決めているんじゃ?
 ホ  ホホウ!
 ホ  なぜ引き上げた地域が多かったんじゃ?
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月30日・朝刊、14版、2ページ、「いちからわかる!」、岡林佐和)

 どうして質問する側が「先生」なのか。その先生を擬人化する必要がどこにあるのか。そういうことはわかりませんが、この体裁での連載(何日かに1度ずつ)が続いています。
 断定の助動詞には「だ」の他に、関西方言的な「や」があり、やや古風な「じゃ」があります。「じゃ」は現在では方言的な色合いがあると言ってもよかろうと思います。しかも、使い方によっては、「じゃ」は偉そうに聞こえたり、ぞんざいな感じが伴うことがあります。この連載記事がどうして「じゃ」という言葉をホー先生の口癖にしたのか、理解できません。印象が悪いのです。
 このような書き方をする利点がどこにあるのかわからず、むしろマイナス面のみが気になってしまう記事であるのです。
 1カ月の新聞すべてを調べても、「じゃ」という助動詞はこの記事だけで使われているということになるのではないでしょうか。こんな下品な書き方の記事は教育的ではなく、NIEで取りあげる気にはならないでしょう。

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2020年10月12日 (月)

ことばと生活と新聞と(234)

「セット」と「キット」は同じか


 新型コロナウイルスの感染防止のために自宅で過ごす時間が多いことを「巣ごもり」と言うそうです。この言葉はマスコミの口の悪さを象徴するような表現のように感じています。「家飲み」などという品の良くない言葉もあります。わざわざこんな言葉を使わなくても、ゆるやかな表現はできるはずです。わざとらしい言い方をするのが新聞記事だといわんばかりです。
 こんな記事がありました。

 食品メーカーが「巣ごもり消費」をねらった新商品を相次いで発売している。コロナ禍で自宅で過ごす時間が増えたことを受け、調理の楽しみを売りにしたり、定番商品の量を増やしたり。おなじみの菓子をひと工夫した「家飲み」向けのおつまみも登場した。
 わずか10分で、プロの味の料理がつくれる--。総菜店「RF1」を運営するロック・フィールドは8月、そんなうたい文句の調理キットを発売した。「豚肩ロースのグリエ」など4種類。下ごしらえした肉や野菜、ソースといったセットで、フライパンで炒めるなどして仕上げる。買ってきてそのまま食べるのではなく、最後にひと手間加えることで、つくる楽しみを感じられるようにした。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月11日・朝刊、13版S◎、6ページ、加茂謙吾)

 同じ商品についての説明で、「キット」と「セット」という2つの言葉が使われています。単なるミスプリントではないようです。
 「キット」は、模型や機械などで、部品がひと揃いになっていて、組み立てられるようになっているもののことです。道具一式のことも表します。キットのことを「セット」と表現することは可能でしょう。
 けれども「セット」という言葉がふさわしいものを、「キット」に置き換えることはよくないでしょう。
 この商品の写真説明にも「ロック・フィールドが発売した調理キット」という言葉が使われています。写真を見ても、この商品は食材を組み合わせたものであっても道具などは含まれていません。「キット」という表現は、明らかにおかしいでしょう。
 若い現代人には、食べ物は買ってきて組み立てて食卓に出すというような意識の人が現れ始めているのでしょうか。このような細切れの食材では、自然の動植物の命をいただいているのだという感覚は失せてしまっているのでしょうか。たった一言の言葉の誤用が、人間の感覚の大変化を表しているように感じました。

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2020年10月11日 (日)

ことばと生活と新聞と(233)

高層ビル群の谷間の「いっけんや」


 過疎地の人口が減って廃屋が増えています。首都圏の人口だけが増えて、日本の人々の住まいが変化しています。それに伴ってと言うべきでしょうか、「一軒家(いっけんや)」という言葉の意味も変化しているようです。もともとは、こんな使い方をしていました。故・市原悦子さんの言葉をもとに書かれている本に、こんな表現がありました。

 「疎開していった畑の中の一軒家には、以前住んでいらした方のお人柄がしのばれるように、とってもきれいにお花が植えてあったんです。青々とした生け垣にぐるりと囲まれて、藤の花、木犀の花、もちろんバラ、百日草、ボケの花、桜草、ツツジもありました。」
 (沢部ひとみ、『いいことだけ考える 市原悦子のことば』、文藝春秋、2019年12月5日発行、85ページ)

 近くに家が無く、一軒だけポツンと建っている家が「一軒家」です。ところが、現在の新聞記事では、こんな使い方になっています。

 住宅に使われる照明のスイッチが大きく変わる。国内シェア首位のパナソニックは、触れるだけでつけたり消したりでき、スマートフォンなどで遠隔でも操作可能な「次世代」のスイッチの導入を進める。 …(中略)…
 このスイッチを取りつける際、新たな電線工事は不要。一軒家で20カ所の照明を交換する場合、20万円前後の費用がかかるという。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月15日・朝刊、14版、9ページ、西尾邦明)

 つまり、一戸建て住宅のことを「一軒家」という言葉遣いです。この言葉遣いが成り立つならば、広い住宅団地に一戸建て住宅が何百戸も並んでいるような風景があるとすれば、「一軒家がびっしりと建ち並んでいる」という表現が成り立つのでしょうか。なんだか奇妙な表現のように思えます。
 もっとも、「一軒家」という言葉が、都会では使えないというわけではありますまい。例えば大都会に高層ビル群が建ち並び、その谷間に昔からの民家がひとつ残っているのならば「一軒家」と言っていいのかもしれません。山の中の一軒家や、野原の一軒家と変わらない様子になっているからです。
 一戸建て住宅という言葉があるのですから、別の意味を持つ「一軒家」という言葉をわざわざ使う必要は感じないのですが…。

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2020年10月10日 (土)

ことばと生活と新聞と(232)

「なんぼ」「いくら」の意味


 淡路島でシラスの天日干し作業が最盛期を迎えているというニュースが、写真とともに紹介されていました。こんな記事です。

 兵庫県淡路市で、特産のシラスの天日干し作業が最盛期を迎えている。同市の神戸水産では、近海でとれたシラスを、多い日には3トンほど出荷している。
 水揚げされたシラスを釜でゆで、乾燥機にかけた後、網にのせて干す。晴れた日だと2時間ほどで乾き、天日で干すことで色がより白くなるという。作業は12月まで続く。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月8日・夕刊、3版、7ページ、西岡臣)

 記事は全文を引用しましたが、大きな写真に添えられた見出しは「干されてナンボ」となっています。
 「なんぼ」は関西方言から広がった言葉でしょうが、今では全国で通用します。その「なんぼ」を『三省堂国語辞典・第5版』では、次のように説明しています。

 ①どれほど。いくら。「- でもやったるで・〔代金が〕これ - ?」
 ②どんなに。「- しんどくても」

 他の国語辞典の説明も同じような様子であると思います。
 見出しに使われている「干されてナンボ」は、疑問を表す言葉ではありません。「天日で干すことで色がより白くなる」ので、値打ちがあがった品物になるということです。「ナンボ(のもの)」ということで、価値が高まったもののことを表しています。これは、「いくら」という言葉でも同じです。品詞は副詞のままかもしれませんが、名詞に近い働きをしているのです。
 国語辞典は、カタカナ外来語を載せることも必要でしょうが、本来の日本語(和語・漢語)の意味の変化(広がり)に注意を向けることこそ、もっと大切であると思います。

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2020年10月 9日 (金)

ことばと生活と新聞と(231)

「鉄板ネタ」とは何か


 新聞には新しい言葉が次々に登場します。それは仕方のないことですが、どのような時期に、どのような使い方をするか、ということにはしっかりとした見識が求められます。
 こんな記事を読みました。

 ぶぶ漬けを待たずに帰る京の人--。京都の鉄板ネタを交えて新型コロナウイルス対策を訴える絵入りの大きな標語広告が京都市内に登場した。
 「ぶぶ漬け(茶漬け)」は長居客を退散させる定番表現。標語は、用が済んだら帰宅をと促すのが狙いだ。観光客に人気の新京極商店街が掲示している。
 等間隔に座る鴨川のカップルを例に「距離あける京の人ならお手のもの」なども。同商店街振興組合の担当者は「楽しめる感染対策でおもてなししたい」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年10月1日・朝刊、14版、28ページ、「青鉛筆」)

 「ぶぶ漬けを待たずに帰る京の人」も「距離あける京の人ならお手のもの」もよくわかる表現です。京都の人の習慣などがよく現れています。
 ぶぶ漬けをすすめるのは、早く帰ってほしいという意味が込められているというのは、他の地域の人には通用しない表現でしょう。けれども、この言葉がいろいろなところに取り上げられて、今では知っている人も多くなっていることでしょう。ちょっと意地悪な言葉遣いであるという印象は棄て切れません。
 ところで、この記事は年若い記者が書いたのでしょうか。「鉄板ネタ」という言葉がわかりません。「定番表現」というのと同じ意味であるのかと思いましたが、そうでもないように感じます。
 国語辞典はいつも机上にありますから、引くことは簡単ですが、こんな言葉が国語辞典に載っているはずがありません。国語辞典で確かめられない言葉を、新聞紙面で安易に使ってほしくないと思います。
 ホームページで調べてみると、「絶対笑える、滑らない面白い話」、「相手から良いリアクションを受けることが確実視される、絶対に受けるネタ」、「とっておきの話・秘話・すべらない話」、「必ず受ける(笑ってもらえる)話題」、「盤石で必ず成功するネタ」などの説明がありますが、これらは、その説明を書いた人の主観が強く出ています。客観的にどのような要素が含まれているものを「鉄板ネタ」と言うのか、まだ定まっていないのかもしれません。「笑える」という要素が欠けていてはいけないのか、「相手からの良いリアクション」が欠けていては「鉄板ネタ」と言えないのか、そのあたりがまだ定まっていないように思います。「とっておきの話・秘話」ということであれば、笑いも良いリアクションも必要でないでしょう。
 言葉は揺籃の時期を経て、意味・用法がしっかりとしたものになっていきます。若者が揺れた使い方をしている時期に、新聞のニュース面などに使うのは考えものでしょう。

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2020年10月 8日 (木)

ことばと生活と新聞と(230)

「~すぎる」はマイナスイメージのはずだが…


 「オシャレすぎるパイプ椅子」という見出しの記事がありました。元気すぎて手を焼く、美しすぎて表現できない、走りすぎて疲れた、など、「~すぎる」という言葉は、仮に良い評価を与える言葉に付いても、いくらかのマイナスイメージを伴う言葉です。
 こんな文章がありました。

 愛知県安城市にあるデザイン会社とパイプ加工会社がコラボして「オシャレなパイプ椅子」を開発した。町工場の技術力を見せつけるためのデザインだ。
 パイプ椅子と聞いてイメージする「安っぽさ」を感じさせないデザインについて、ディーウェーバーの水野健一社長(49)はこう説明する。「便利さや汎用性を追求せず、万人受けする必要がない。見せたかったのはパイプ加工技術とデザインです」 …(中略)…
 きれいなS字形のデザインを具現化するには、曲げるための機械を操作するスピードが速すぎても遅すぎてもダメ。最後にものを言ったのは手作業による経験と勘だった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月2日・夕刊、3版、5ページ、「朝デジから」、若松真平)

 本文で使われている「速すぎても遅すぎてもダメ」という言い方こそが「~すぎる」の本来の言葉遣いです。「オシャレすぎるパイプ椅子」というのは「オシャレ」を磨き上げたという最上級の褒め言葉として使いたかったようです。「美味しすぎる」などという言葉がテレビなどで使われていることは知っています。けれども、その真似をしてよいとは思いません。
 本文の「オシャレなパイプ椅子」が、見出しでは「オシャレすぎるパイプ椅子」に変わっています。記事を整理する記者が、原稿を書いた記者の表現を誇張して使っているのです。
 例によって例のごとし。本文に使われていない言葉で、勝手に見出しを作っているのです。本文中にその表現がないのに、見出しに勝手な言葉を使うのは、記事内容を飾ろうとする「誇大宣伝」にあたるということを気づかないといけません。

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2020年10月 7日 (水)

ことばと生活と新聞と(229)

仮名書きの固有名詞


 不思議な名称についての記事がありました。

 「府立」なのに「いちりつ」。そんな名称の高校が登場することになった。大阪府教育庁は31日、同府枚方市にある「大阪市立高校」の校名を、「府立いちりつ高校」に変更することに決めた。2022年度、同校を含めて21ある大阪市立の高校の運営が、府に移管されるのに合わせて変更する。 …(中略)…
 同校は1941年、大阪市立初の旧制中学校として同市内に開校した。43年に現在地へ移転。48年の学制改革の際は、「枚方高校」「第一高校」などの案も出たが、大阪市が現在の校名に決めた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月1日・朝刊、14版、28ページ、山田健悟)

 大阪市立の高校が隣接する市にあるというのも珍しいことですが、21もある大阪市立の高校の中で、この学校が正式名称として「大阪市立高校」と名乗っているのも珍しいことです。けれども70年を超える歴史があり、市立高校の略称で親しまれてきているのでしょう。略称が残ることは喜ばしいことでしょうが、「府立いちりつ高校」の名称に違和感を持つ人も多いことでしょう。「いちりつ」という用字によって「市立」という意味が消えるわけではありません。
 固有名詞を仮名書きにすることが広く行われています。よほど読みにくい場合は別ですが、赤とんぼの歌で知られた兵庫県龍野市が「たつの市」に改称されて、何年かたちました。いまだに改称の理由が理解できません。
 兵庫県内には「南あわじ市」があります。この市は、南淡町、三原町などの合併によって誕生しましたが、南淡路市とすれば、南淡町を継承した名前のように見えるかもしれません。「南あわじ市」とした理由の一端が、そんなところにあるのかもしれません。けれども「たつの市」とした理由は思い当たりません。龍野(竜野)という文字がかもし出す雰囲気は、仮名書きには現れていません。元の漢字に戻すという運動などは生まれ出ないのでしょうか。
 「府立いちりつ高校」は苦肉の策のようですが、仮名書きに逃げ込んだという印象はぬぐい去れません。略称の「市立高校」はいつまでも続いてよいのでしょうが、言葉の意味を壊すような使い方(正式名称)はやめるべきだと思うのです。
 大阪都構想の賛否を問う住民投票が近づいていますが、高校名は早々と決めてしまったようです。

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2020年10月 6日 (火)

ことばと生活と新聞と(228)

長々としたカタカナ語も短歌には詠める


 俳句と短歌とで異なることはいろいろありますが、外来カタカナ語の扱いもそのひとつであるのかもしれません。新聞の俳壇・歌壇のページを見ていると、そのことを強く感じます。
 歌壇で選ばれた歌に次のような歌がありました。

 また今日もソーシャルディスタンスと言うの? 感染予防距離と言わずに (神戸市)康 哲虎
 「宿題はまだステイホームしています」言い切る生徒の意外な機転 (ふじみ野市)片野里名子
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月27日・朝刊、13版、11ページ、「朝日俳壇・歌壇」)

 前者の歌は高野公彦、馬場あき子の両歌人の選、後者の歌は高野公彦さんの選です。俳句にはこんなカタカナ語を使う余裕(音数の余裕)はないでしょう。何でもかでもカタカナ外来語で表現することを苦々しく思っている人は多いと思いますが、歌人も同じ思いなのでしょう。日本語で表現しようと思えばできるのに、簡単にそういう営みを放棄してしまうのは、医療関係者の一部であり、報道関係者の大部分であるのでしょう。
 「ソーシャルディスタンス」などという言葉に出くわすたびに苦々しく思っている人がいるのです。この歌を2人の歌人が選んでおられることに同感します。
 宿題が「ステイホーム」しているから提出できないという機転(屁理屈?)は、カタカナ外来語ゆえのものでしょう。これもカタカナ外来語への批判の気持ちが入っているのかもしれません。
 このような使い方はあっても、カタカナ外来語を歓迎して歌に詠み込むということはなかなかできないだろうと思うのです。

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2020年10月 5日 (月)

ことばと生活と新聞と(227)

複合動詞の表記の仕方


 2つの動詞がつながってできている複合動詞は、もし漢字を使って表記するならば、前の動詞は漢字にするのが普通だろうと思います。
 次の記事の表記の仕方は異例のように感じられるのですが、いかがでしょうか。

千葉県佐倉市の京成本線の線路沿いの急斜面にすみ着き、話題となった子ヤギ「ポニョ」が、市の農業体験施設「佐倉草ぶえの丘」(同市飯野)に引き取られ、29日から一般公開が始まった。 …(中略)…
 5月21日に脱走し、8月11日に捕獲されるまでの約2カ月半、高さ約20メートルのコンクリートの斜面にすみ着いていた。捕獲後、男性から市へ無償で譲りたいとの申し入れがあり、市が受け入れた。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月29日・夕刊、3版、6ページ)

 この記事では、「引き取る」「受け入れる」の2つは、どちらの動詞も漢字で書かれています。このような場合、後ろの動詞を仮名書きにして「引きとる」「受けいれる」としても違和感はないでしょう。
 ところが2回使われている「すみ着く」の表記には、違和感を持ちます。「すみ着く」の「すむ」という動詞は、「住む」と書いて問題はないと思います。うがったことを考えれば、「すむ」は「棲む」という文字を使いたいけれども常用漢字に入っていないから「すむ」としたのかもしれません。
 人が家を建てて住むのは「住み着く」であり、動物の場合は「棲み着く」なのでしょうか。そのような区別は必要でないように思うのですが、新聞社には特別な考えがあるのでしょうか。教えてほしいと思います。
 最近の新聞記事は、平仮名が多くなっています。小学生でも知っているような漢字を仮名書きにすることも行われています。「天声人語」には文字数を合わせるために、しばしば行われているように思いますが、その他の記事にも仮名書きが多いように思います。

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2020年10月 4日 (日)

ことばと生活と新聞と(226)

言葉に対する教育的配慮


 日本語の使い方について 子どもたち向けに書く文章は、正しい言葉遣いを伝えることを主眼に置くべきでしょう。人々が使う言葉遣いの中には、新しい言い方や、言葉の決まりに外れた言い方も混じっていますが、そんなことを子どもたちに教える必要性は小さいと思います。
 大人でさえ気づいていない、あるいは使ったこともない規格外の言い方を、子どもたちに向かって説明する文章を読んで驚きました。

 「分かりみが深い」という言い方を、最近、使う人が多くなりました。たとえば、友だちの話に共感したときに使います。「分かりみがすごい」「分かりみ~」とも言います。意味は「本当にそのとおりだと思う」ということです。
 もともと「み」は「感じ・度合い」という意味で使うことばです。「この写真は赤みが強い」と言えば「赤い感じが強い」ということ。その用法が広がり、「つらみ」(つらい気持ちだ)とか、「うれしみ」(うれしい気持ちだ)とか言うようになりました。今では、「つらさを感じる」「うれしさを感じる」のように「さ」だけを使っていました。
 「み」はさらに用法が広がり「カラオケ行きたみ!」などと言う人も現れました。昔なら、やはり「さ」を使って、「カラオケに行きたさが強まった」と言うところです。
 そして、さらに発展した「分かりみ」ということばまで出てきました。これは「さ」を使って「分かりさ」と言うことはできないので、まったく新しい言い方です。
 (飯間浩明、『日本語をつかまえろ!』、毎日新聞出版、2019年11月30日発行、176ページ)

 子ども向けの文章としては、実に乱暴な書き方です。筆者の言うことは正しいのだから、それを信じなさいと言わんばかりの表現です。
 〈「分かりみが深い」という言い方を、最近、使う人が多くなりました。〉と書いていますが、使う人が多くなったというのは事実なのでしょうか。子どもたちの使い方でしょうか、青年たちの使い方でしょうか。大の大人が多く使っているようには思いません。
 たとえ「分かりみがすごい」「分かりみ~」という言い方が行われているにしても、子どもたちには、「本当にそのとおりだと思う」という言い方を教える方が正統だと思うのです。
 接尾語の「み」は、形容詞の語幹に付いて、高み、深み、重み、弱み、苦み、暖かみ、などという言葉になることが多いのです。形容動詞の語幹に付いて、真剣み、新鮮み、などという言葉になることもあります。一見、動詞に付いているようにみえる、茂み、という言葉もありますが、動詞に付くことは特例です。
 筆者は、接尾語「み」と接尾語「さ」を同じ意味・用法のように説明していますが、同じではありません。「つらみ」と「つらさ」には意味の違いがありますが、それを無視して子どもたちに説明したのでは、言葉の感覚が伝わりません。
「カラオケ行きたみ!」の「た」は願望を表す助動詞です。助動詞に「み」が付くことはどう説明するつもりなのでしょう。
 要するに「分かりみ~」などという使い方は、従来から存在している接尾語の「み」や「さ」とは無関係に、願望を表す接尾語(?)「み」が突然のように現れてきたのかも知れません。接尾語とまでは言えないかもしれません。書き言葉には現れない、話し言葉だけの発音現象に過ぎないのですから。
 これまで日本語の中にあった接尾語「み」と無理やりに結びつけようとすると、無理が生まれてくるでしょう。子どもたちには、そんなことは理解できないでしょう。
 筆者はこの項目の最後で、「愛用者は増えるのではないでしょうか。」と書いています。国語辞典編纂者が、「分かりみが深い」などという言い方を(子どもたち巻き込んで) 増大させようという意図が働いているようにも感じます。子どもたちには、このような言葉遣いを排除するように指導することこそが、教育的な配慮であると思うのです。自重を求めたいと思います。

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2020年10月 3日 (土)

ことばと生活と新聞と(225)

女性なら誰でも使う「え、うそー」


 私たちが子どもの頃は、警報が出ているという理由で学校が休校になることはなかったように思います。そもそも警報などという言葉は耳に残っていませんし、荒れていた日にも登校したように思います。
 ところが時には、「明日、台風が来るさかい、学校は休みやぞー。」などと言いふらす悪童がいたりします。そうすると、周りの者が「そのうそ ほんまかー? そのうそ ほんまかー?」などと言い立てます。嘘のように聞こえるが、それは本当か、という意味です。「うそと ちゃう(違う)か。」とも言います。よほど確信がなければ「うそや。」と決めつけることはできません。
 現在の言葉として、「え、うそー。」というのを耳にすることがありますが、一気に嘘と決めつけることを、かつてはしていなかったように思います。子どもたちの場合であっても、昔の方が、言葉を慎重に使っていたように思います。
 「うそ」という言葉を、例えば『三省堂国語辞典・第5版』では3項目に分けて説明していますが、その③は次のような説明になっています。

 ③意外なことを見聞きしたときに、思わず言うことば。〔おもに女性が使う〕「う(っ)そう!」

 品詞は名詞として扱われていますが、③の「う(っ)そう!」は名詞でなく、感動詞と考えるべきではないでしょうか。
 「おもに女性が使う」という説明には納得しますが、この言葉は年齢に関係なく使われているのでしょうか。若い人たちに限られるということはないのでしょうか。
 さて、安倍晋三首相が辞任する意向を表明した8月28日を、時刻の流れとともに記録した記事に、次のようなことが書かれていました。

 14:15 橋本聖子・五輪相が秘書官から差し出されたスマートフォンで、首相が辞任の意向を固めたとのニュースを確認。「え、うそー。辞任の意向?」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年8月29日・朝刊、14版、4ページ)

 この記事の見出しにも大きく、〈橋本五輪相、スマホ見て「え、うそー」■小泉環境相「全党員投票が一番」〉と書かれていました。
 五輪相は女性ですから国語辞典の説明と合致しています。「え、うそー」は小さな子どもから、政治家に至るまで使うから、国語辞典に使用年齢層の記述がなかったのかもしれませんね。

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2020年10月 2日 (金)

ことばと生活と新聞と(224)

「全然+肯定」の語感


 語感というものには個人差があるのは当然ですが、あまりにも個人的な考えを強く出されると困るように思います。
 こんな文章がありました。

 「全然大丈夫」という言葉を初めて耳にしたのは20年ほど前だったか。その衝撃を今も覚えている。え、全然は「全然知らない」など否定形につく言葉じゃないの。日本語の乱れここに極まれり。でも肯定で使ってみると面白みも感じた。
 すっかり定着した全然大丈夫だが、必ずしも誤用とは言えないらしい。言語学者加藤重広さんの『日本人も悩む日本語』によると「全然+肯定」の用法は江戸時代から見られ、明治になっても珍しくなかった。 …(中略)…
 「全然+肯定」に戻ると、今の使い方は配慮の意味もあるらしい。「私の料理、おいしくないでしょ」に対して「全然おいしい」と言えば、優しさがにじむ。言葉は、人と人とのつながりも映し出す。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月29日・朝刊、14版、1ページ、「天声人語」)

 引用した文章のうち、前半の2つの段落については異論はありません。よく知られていることが述べられているのです。
 後半の1つの段落は、コラムの最後の段落からの引用ですが、「言葉は、人と人とのつながりも映し出す」という、まとめの言葉にも異論はありません。
 疑問に思うのは、「全然+肯定」という表現のことを「今の使い方は配慮の意味もあるらしい。」と述べているところです。言語学者の名前などを出していないところから判断すると、筆者独自の考えを述べているのでしょうか。
 「全然+肯定」の使い方に配慮の意味があると、本当にそんなことが言えるのだろうかという疑問が残ります。
 「私の料理、おいしくないでしょ」に対して、「全然おいしい」と言ったとしても、単語と単語の関係として優しさがにじむということではないでしょう。発言者の優しさは「おいしい」という言葉に込められているのであって、「全然」という言葉によるのではないと思います。「いえいえ、本当にうまいですよ」と言っても、配慮は表現できます。配慮は、その表現全体に込められているのであって、「全然+肯定」であれば、いろいろな場面で、配慮の気持ちが表現できるなどということはあり得ないと思います。
 こんなことを考えてはどうでしょうか。「私の料理、おいしくないでしょ」に対する言葉として「全然おいしい」と答える、「全然」と答える、「おいしい」と答える、の3つを比べてみましょう。
 「おいしい」という言葉だけでも、言い方しだいで配慮の気持ちは表現できます。「全然」だけではぶっきらぼうです。「全然」のどこに配慮の気持ちがこもっているのでしょうか。
 コラムの筆者は、「とてもおいしい」という言い方に比べて、「全然おいしい」は心からおいしいとは思っていなくても、口をついて出る配慮の言葉だと言いたいのでしょうか。そんな中途半端な言葉遣いであるのなら、かえって気まずい雰囲気を作り出してしまうかもしれませんね。

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2020年10月 1日 (木)

ことばと生活と新聞と(223)

「前を向く」と「気持ちを切り替える」


 「前を向く」という言葉はスポーツ記事で多く見かけましたが、それ以外の記事でも目につくようになりました。けれども、あまり多用されると、軽い意味のように受け取られて、ほとんど意味を持たないような表現になってしまうかもしれません。
 こんな文章を読みました。

 新型コロナウイルスの流行が収まらないまま迎えた秋。紙面では「前を向く」フレーズが、以前にも増して目につきます。
 スポーツでは夏の甲子園大会が中止になった時は「つらいけど前を向くしかない」(高校球児)、「悔しくてもどこかで必ず前を向くんだ」(野球部監督)と、各地から「前を向く」様子が伝えられました。 …(中略)…
 テニスの全米オープン決勝で、大坂なおみ選手に敗れたアザレンカ選手は「ここに座ったまま落ち込んでなんかいられない」と気持ちを切り替えていました。前を向こうという本能でしょうか。新たな一歩を踏み出すために、まず前を向く。慎重な気構えと言葉が求められている時代なのでは、と感じます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月26日・朝刊、13版S、13ページ、「ことばサプリ」、丹羽のり子)

 「前を向く」フレーズについて、上の記事で述べられていることに異論はありません。私は、文章の末尾の部分に使われている「気持ちを切り替える」フレーズのことについて書きたいと思います。このフレーズは、私にとっては、気になってしかたがない表現なのです。
 「前を向く」というのは、ごく普通の表現だと思います。顔や体の正面を前方に位置するようにするという意味です。それを、気持ちを表す言葉として使うことは自然なことであると思います。
 私にとって、「前を向く」ことは割と容易にできるのです。うまくいかないかもしれないと悩み続けるよりも、思い切って取り組めばよいのですから。
 それに対して、「気持ちを切り替える」ことは、私にはなかなかできません。ほとんどできないと言う方が当たっているかもしれません。簡単に、瞬時に、気持ちを切り替えることなどできそうにありません。
 「気持ちを切り替える」は、スポーツ記事で見かけますし、相撲の実況放送などで聞くことが多いように思います。個人競技の場合によく使われています。野球などの団体競技では、チーム全体が「気持ちを切り替える」ことは難しいでしょう。ピッチャーとか、バッターとかの個人に関して、この言葉が使われることがあります。
 これまでよく見かけた言葉は、「気持ちを引き締める」というのであったように思いますが、それがいつから「気持ちを切り替える」に変わったのでしょうか。
 「気持ちを切り替える」という言葉は、本人が口に出すことは稀だと思います。上に引用した記事もまさにそうであって、発言した言葉は「ここに座ったまま落ち込んでなんかいられない」ですが、それを記者が「気持ちを切り替えていました」と表現しているのです。負けた力士などがすぐに「明日から気持ちを切り替えて、頑張ります」などという気持ちになれるでしょうか。ちょっとした言葉の端々をとらえて、「〇〇関は、気持ちを切り替えていました」と、記者が表現しているのです。ほんとうに気持ちが切り替えられているとは思えないような場合にも、この言葉が使われていると思います。この表現は、本人にとっては、大きなお世話であり、ありがた迷惑な表現であるのかもしれないのです。

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