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2020年10月22日 (木)

ことばと生活と新聞と(244)

誤用を誤用としない強引さ


 次のような文章を読みました。私はそこに書かれていることに賛成です。

 娘が四歳になってしばらくした頃、あるおもちゃを指し、「これ、さんかくいね」と言ってきた。
 一瞬戸惑ったが、すぐに意味がわかった。彼女は、「三角いね」と言ったのだ。これは三角っぽいと。
 彼女はすでに「四角い」という言葉を使うことができていたから、この言葉の規則的な応用を自力で生み出したわけだ。実に理に適っている。しかし、間違っている。
 間違いの理由を説明できるわけではない。実際、なぜ「四角い」はよくて、「三角い」は駄目なのだろう。
 自然言語には、規則的でない習慣的なものがあふれている。それは歴史や音韻やリズムなど、実に複雑な要素の賜物だ。子どもはその理不尽を呑み込んでいかなければ、言葉とともにある私たちの生活に入ってこられない。「四角い」から「三角い」を導くたぐいの高度な能力がなければ、言語習得はそもそも困難だが、その能力を野放図に発揮することも許されないのだ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年9月3日・朝刊、13版S、24ページ、「古田徹也の言葉と生きる」)

 引用した文章には異論はありませんが、現在の新聞の言葉の使い方を見たとき、四歳の子どもと同じことをしているように思われてなりません。
 「自然言語には、規則的でない習慣的なものがあふれている」と筆者は言っています。「子どもはその理不尽を呑み込んでいかなければ、言葉とともにある私たちの生活に入ってこられない」のです。けれども、それはごく普通の生活をしている、大多数の人々の立場です。
 新聞は、自分たちが社会を動かすリーダーであると心得ているようです。自然言語の習慣を破ることもリーダーの務めであると誤解をしているようです。その例を、私はこの連載でいくつも書き連ねてきました。「理不尽」な日本語の表現方法を書き示して、それがこれからの日本語のたどるべき姿であるかのように主張しているのが、新聞の言葉遣いです。
 むやみやたらにカタカナ外来語を使い、その略語を作り出し、日本語本来の表現力の豊かさ潰そうとしています。文章は、目で追って理解するものであると考えて、朗読に耐えられないような文章を書き連ねています。外国語の真似をすることに注力して、日本語への温かい目が失われてしまっています。
 四歳の子どもには、そんな言葉はよくないと指摘できても、新聞が堂々と使うおかしな日本語には目をつぶらざるを得ないようになっているのです。新聞記者は言葉を自由に操ることができます。けれどもそれを「野放図に発揮」しているのが、現在の新聞の言葉だと思います。放送の言葉も同様です。
 新聞社には校閲の部署がありますが、その力を発揮していないのが、現実のありのままの姿であるのでしょう。

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