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2020年10月24日 (土)

ことばと生活と新聞と(246)

「カネを積まれても使いたくない日本語」?


 連載を続けている、「ことばと生活と新聞と」のコラムは、日本語としておかしいのではないか、できればやめてほしいというような例を取り出して紹介し、私の意見を添えています。
 そのようなことを集めた本は何冊も出ています。内舘牧子さんの『カネを積まれても使いたくない日本語』もそのような本です。賛同する内容がとても多いのですが、書名だけは感心しません。「前書き」の中から引用します。

私は『週刊朝日』に連載エッセーのページを持っているのだが、時々、言葉の乱れについて個人的な所感を書くことがある。すると、毎回毎回、たいへんな反響で、メールや手紙がドカッと届く。 …(中略)…
 多くの人々が、こんなにも言葉の乱れを憂えているのか。そこで、私は同誌の連載で読者に、
 「カネを積まれても使いたくない言葉」
を知らせてほしいと書いた。
 もう、編集部が驚くほどの手紙、メールが全国から届いた。中には、
 「カネを積まれても……なんていう言葉こそ下品だ。使いたくない」というものや、「カネを積まれてたら、どんな言葉でも使う」というものもあり、これには笑った。
 (内舘牧子、『カネを積まれても使いたくない日本語』、朝日新聞出版(朝日新書)、2013年7月30日発行、3ページ~4ページ)

私の思いは、「カネを積まれても……なんていう言葉こそ下品だ。使いたくない」という反応にぴったり一致します。「カネを積まれても使いたくない」は、著述家や出版社が使うのには適しているのかもしれませんが、一般の人が使う言葉ではありません。下品であり、不快感を持ちます。
 それだけではありません。「カネを積まれて」何かの言葉を使わなければならなくなるような状況が、論理的に成り立つのかという疑問があります。言葉はひとりひとりが選んで使うものです。人の真似をして使うこともあります。けれども、使うように仕向けられることは、ほとんどないと思います。カネとは無関係です。
 強いて言えば、オレオレ詐欺の犯人グループの首領が、手下に向かって言葉遣いを指南することぐらいしか思い浮かびません。この場合は、その言葉を使った成果としてカネが与えられることになるのでしょう。
 普通の生活では、言葉に関して、「カネを積まれても使いたくない」というような事態は起こり得ません。この表現が、一種の強調表現、象徴表現であることは理解しますが、あり得ないことを表現しているに過ぎないのです。
 政治家には「カネを積まれても使いたくない言葉」というような葛藤があるのかもしれません。他には、犯罪に関することぐらいでしょう。私たちひとりひとりには、そのようなことはあり得ないのです。

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