ことばと生活と新聞と(283)
再び、「語り部」について
「語り部」という言葉について、国語辞典の説明が追いついていないということについて、この連載の(182)回で書きました。古代の日本の「語り部」のことしか書いていないのです。
写真集の「あとがき」で、写真家の東松照明さんが述べている言葉が印象に残りました。次のように書かれていました。
過去に起こった出来事で、忘れられないことを、決して忘れてはならないことを、後世に語りつぐ人を、語り部という。原爆の悲惨さについての直接的な語り部は、もちろん被爆者である。被爆者は、存在をもって、原爆の悲惨を明かす。そのとき、写真は、被爆者の存在を証すための視覚伝達の装置となる。
(東松照明、『長崎〈11:02〉1945年8月9日』、新潮社、1995年8月9日発行、「あとがき」、ページ表記なし)
現代の「語り部」について言及しているのは『明鏡国語辞典』だけでしたが、その辞典の説明も「ある事柄を語り伝える人の意でも使う。」という、もの足りないものでした。
東松さんの「過去に起こった出来事で、忘れられないことを、決して忘れてはならないことを、後世に語りつぐ人」という説明こそが適切であると思います。25年も前に書かれた文章ですが、国語辞典がそういう説明をしていないことは残念なことです。
何度も繰り返しますが、カタカナ外来語や流行語を追いかけるよりも、このような言葉をきちんと定義することの方に、国語辞典の編纂者は力を注いでほしいと願います。
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