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2020年11月11日 (水)

ことばと生活と新聞と(264)

方言の価値をおとしめる、悪意に満ちた表現


 私が小学生の頃、秋の運動会で「部落対抗リレー」というプログラムがありました。小学校の校区を地域別に分けて、選手を選んでリレー競技を行うものです。部落という言葉が被差別地域のことを指すなどということは小学生にはわからないことであり、教員にもそういう認識がない時代のことでした。部落は、地域という意味であって、日常で使う言葉でした。
 のちになって「部落」が同和教育で使われるようになってからは、この言葉を使うときは格段に留意をしたことはもちろんです。
 同じ言葉を使っても、その言葉をどのような認識のもとで使うかということによって、問題をはらんでくることがあります。差別用語というようなものでなくても、差別的意識や悪意を加えることは容易なのです。
 以下に述べることは「部落」のことではありません。「方言」という言葉の使い方についてです。もちろん「方言」は、差別に関わるような言葉ではありません。けれども、その言葉の使い方によって、ずいぶん差別意識を込めた使い方になることがあるのです。
 〈「政治的方言」に慣らされない〉という、大きな見出しの文章が、新聞社の編集委員の手によって書かれました。
 文章には、こんな表現が使われています。

 とりわけ近年は恥ずかしげもない作文棒読みがはびこって、国会議論は貧相にやせ細るばかりだ。
 そのような生気を欠いた、模倣的で陳腐な文体や言い回しを、英国の作家ジョージ・オーウェルは「政治的方言」と呼んでいた。演説者の喉から音は出ているが「自分で言葉を選んでいる時のような頭の働きがそこには加わっていない」と手厳しい(「政治と英語」から)。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年11月8日・朝刊、13版S、3ページ、「日曜に想う」、福島申二)

 今の首相の、原稿を棒読みする演説や、補佐する人から手渡されたメモを読む答弁には驚いてしまいます。情けないことと思っています。
 けれども、そのことと、上に引用した文章とは別個のものとして考えなければなりません。
 東京に住み日常的に東京語を使っている、偉い人からすれば、それぞれの地域の人たちが使っている「方言」などは、蔑むべき言葉なのでしょう。
 「生気を欠いた」、「模倣的で陳腐な文体や言い回し」であり、「自分で言葉を選んでいる時のような頭の働きがそこには加わっていない」ものが「政治的方言」であると言うのです。「政治的言葉」や「政治的共通語」ではなく、「政治的方言」と言うからには、「方言」という言葉に蔑んだ意味が込められていることは明確です。方言とは、そんなに軽蔑されなければならない言葉なのでしょうか。
 筆者は「方言」という言葉の使い方をジョージ・オーウェルのせいにして、堂々と「方言」という言葉を蔑んだ意味で使っているのです。
 ジョージ・オーウェル(1903年~1950年)の生きた時代や英国で「方言」という言葉がどのような意味で使われていたかという問題ではありません。そのまま、現在の日本社会の中で、「方言」という言葉を、こんな差別的な意味で使ってよいのかという問題なのです。
 私はジョージ・オーウェルを批判しているのではありません。その言葉をうまく引用しながら、地域の言葉(方言)をこき下ろした見方で貫いている筆者(新聞社の編集委員)に大きな問題を感じているのです。
 私は、地域の方言に興味・関心を持って、その記録と継承に取り組んでいます。そんな私からすれば、方言のことを、これほどまでに悪意を込めて、差別的認識に満ちた言葉遣いをする人に、はじめて出会ったように思います。
 私は言葉についてブログに書き綴っています。ブログに書いた文章は、これまで何回も新聞社に送り続けましたが、新聞社の姿勢は一貫して「無視」でした。今回も同様のことになるかもしれません。
 それでも私はいつもの通り、ブログに書いた文章を新聞社に送ります。例によって例の通り、私の文章などは無視するかもしれませんが、この問題に関しては、新聞社がどのように対応したかについて、このブログで報告します。「何の反応もなかった」という報告になるかもしれませんが、そういうことになるのならば、そういう実際の姿をそのまま報告するつもりです。

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