2018年10月22日 (月)

言葉の移りゆき(184)

便利な言葉「化学反応」

 

 気になっていた言葉を、また、目にしました。「化学反応」という言葉の、比喩的な使い方です。

 

 ドラマ「リーガルⅤ~元弁護士・小鳥遊翔子~」(木曜夜9時)のキャスティングを進める上で、実は、できるだけ今まで米倉涼子さんと共演したことのない出演者で固めようという方針があった。米倉さんとの化学反応で生まれる新しい何かを期待したのだ。 …(中略)

 そんな中、一人だけ今までに何度も米倉さんと共演している例外の俳優がいる。勝村政信さんだ。顔合わせで「僕なんかお守りもんですから」と謙遜していたが、現場に入ってその意味が分かった。数々の化学反応の中で、恐ろしいまでの安定感で潤滑油となり、このチームを完成させる存在。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181014日・朝刊、13版、12ページ、「撮影5分前」、大江達樹)

 

 「化学反応」とは、物質が化学変化によって、他の物質に変化することです。変化したことは目に見えますが、具体的に何と何とがどう関わって、どのように変化したのかは確かめられないことが多いと思います。

 人間関係は、1+1=2のような形にはなりません。もっと大きなものになったり、逆にしぼんでしまったりします。誰と誰の(あるいはもっと大勢の間の)、何と何とがどう反応したから、そのような結果がもたらされたのか、なかなか説明しにくいことがあります。このときに使われる言葉が「化学反応」です。

 この言葉は、説明できないことをうまく言い抜けるためにあるように感じていたのです。あるいは経過の説明を拒否して、結果だけを指し示すのには便利な言葉だと思っていたのです。

 記事の表現では、「化学反応で生まれる新しい何か」を求めたのでしょうが、その「何か」は曖昧なままです。「数々の化学反応の中で」勝村政信さんの存在感が示されたのでしょうが、それがどのようなものであるのかも具体的でありません。「化学反応」というのはなんとも便利な言葉です。

 なお、引用した文章は、論理の上で矛盾した結果を述べています。

 「米倉涼子さんと共演したことのない出演者で固めて……、米倉さんとの化学反応で生まれる新しい何かを期待したのだ。」と言いながら、結果的には、「(共演したことのある、唯一例外の)勝村政信さんが、……数々の化学反応の中で、恐ろしいまでの安定感で潤滑油となり、このチームを完成させる存在」になったというのですから。

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2018年10月21日 (日)

言葉の移りゆき(183)

スラングを日常語にする新聞

 

 「スラング」というのは、ある特定の社会集団の中で用いられる俗語のことで、卑語とか隠語とか言われることがあります。『事故物件怪談 恐い間取り』という本を紹介する文章に「嘘松」という言葉が出てきますが、これはまさにスラングです。

 

 「嘘松」なるネットスラングがある。真偽の疑わしい体験談を指摘する際に用いる単語で、あまりに出来すぎている逸話には容赦なく「嘘松」判定が下されてしまう。容易く情報を検索できる時代の産物だが、その背景にはすべてに根拠を求める震災以降の世相が影響しているのでは……などと、のんきに分析している余裕はない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月15日・朝刊、13版、23ページ、「売れてる本」、黒木あるじ)

 

 上記の「嘘松」という言葉は、本の紹介のために必要な言葉でしょう。

 ところが、「スラング」は特定の集団内の言葉ですから、一般の記事で、そんな言葉を白日の下にさらして紹介する必要はないでしょう。次のような記事がありました。

 

 9月1日夜、雨でびしょぬれの少女(17)がツイッターでつぶやいた。

 「『泊めてもいいよ』って方は、DMで住みと年齢性別をお願いします」

 「DM」はダイレクトメッセージ、「住み」は住所のこと。そして、相手が検索しやすいように記号「#(ハッシュ)もつけた。「#誰か泊めて」  …(中略)

 返信はほとんど男性からだ。泊めてくれる男性を「神」と持ち上げ、ツイッター上では「#神待ち」という言葉も飛び交う。

 少女もそうしたつぶやきを知っていた。「(男性は)『やり目』(性行為目的)だし、男性からの呼びかけに応じるつもりはなかった」。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181013日・朝刊、13版、1ページ、有近隆史・田中聡子)

 

 このような言葉を引用しないと記事が書けないというのでしょうか。下品であろうと有害であろうと、スラングと言われるものを、まるで日常語であるかのように紹介しています。こんな言葉を知らなかった青少年がこの文章を読めば、新しい知識として貯えていくことになります。節度があってしかるべきでしょう。

 別の話題に移ります。「下町ロケット」というテレビ番組を紹介した、次の例もスラング(ネットスラング?)でしょうか。

 

 もはや「鉄板」と言える組み合わせだ。2015年に放送された人気ドラマの続編で、同枠でヒットした「半沢直樹」「陸王」の池井戸潤の小説が原作。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181014日・朝刊、13版、30ページ、「試写室」、矢田萌)

 

 国語辞典には、「鉄板」の、このような使い方の意味は出てきません。記者にとっては日常語であったとしても、読者にとっては驚きの対象でしかありません。

 テレビほどではないにしても、新聞の言葉遣いもずいぶん乱れてきたものです。こんな言葉を日常語として使われるのは困りものです。記者には、用語についての規制はないのでしょうか。

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2018年10月20日 (土)

言葉の移りゆき(182)

傘寿の翌年の「半寿」

 

 長命を言祝ぐのは嬉しいことですが、還暦から始まって、古稀、喜寿…と続きます。「〇寿」という言葉は、ややこじつけの感がないとは言えませんが、喜寿、傘寿、米寿、卒寿、白寿などは定着した言葉であると言ってよいでしょう。それにしても、その間隔に長短があるのはしっくりしませんが、愛嬌であると笑ってすませることにしましょうか。

 広告の中にこんな言葉を見つけました。

 

 慶びに咲く「本象牙の薔薇」-。いついかなる時も、国民をやさしく見守りくださる皇后美智子さま。平成2710月に迎えられた御年八十一の「半寿」を記念して、特別に創作された典雅な宝飾ブレスレットです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月8日・朝刊、be1ページ、インペリアル・エンタープライズ株式会社の広告)

 

 傘寿が80歳であるのに、その翌年に半寿と命名したのは誰なのでしょう。「半」の文字を分解すれば、「八」と「十」と「一」に分けられるという理屈でしょう。けれども、「半」という文字のイメージはよくありません。まるで中途半端な長寿のようです。

 一年ごとに「〇寿」と言うのなら、82歳、83歳、……と毎年に名付けたらいかがでしょうか。知恵を絞っても、それは無理かもしれませんね。文字が見つかった歳だけに「〇寿」と名付けるのは、勝手な考え方かもしれません。

 広告にある「半寿」は、商売のために使っているという感は否めません。傘寿の年に作るのを忘れて、1年後になってしまったのでしょうか。「平成2710月」制作の商品を、「半寿」という言葉を呼び水にして売り払おうとしている、と考えるのは穿ち過ぎでしょうか。

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2018年10月19日 (金)

言葉の移りゆき(181)

威勢のよい「ハンドベル」

 

 私たちが住んでいる地域の小・中・高等学校の、50年ほど前のことを思い出すと、授業開始や終了を告げる合図は、サイレンを鳴らしていました。一日に十数回になるでしょうか、学校の周りの住民にはずいぶい迷惑なことであったろうと思いますが、おおらかな時代でした。

 今では、校舎内にチャイムが設置されて、サイレンは姿を消しました。

 ところで、サイレンであってもチャイムであっても、ある特定の学年だけが試験か何かを行って、他の学年と開始・終了時刻が異なることがありました。そんな場合は、重い鐘を持ち出して、廊下などで手で振り回して合図をしました。手で振り回すもののことを、そのものずばり、「鐘」と言っていました。別の言い方があるのかもしれませんが、大らかに「鐘」とだけ、言っていました。

 さて、築地市場から豊洲市場への移転に関して、さまざまなニュースが伝えられました。そのうちのひとつにこんな記事がありました。

 

 10月6日に閉場する築地市場(東京都中央区)14日、冷凍マグロのセリが報道陣に公開された。外国人観光客にも人気のマグロのセリは、15日に一般の見学を終了する。

 午前6時、ハンドベルが鳴らされ、白い冷凍マグロのセリが始まった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月14日・夕刊、3版、10ページ、抜井規泰・有吉由香)

 

 記事にある「ハンドベル」とはどんなものでしょうか。私は、はじめに書いた、学校の「鐘」と同じようなものを思い浮かべました。鐘の大きさはいろいろあるでしょうが、手で振り回して、ガランガランと音を出させるようなものです。静かであるとは言えないセリの場所ですから、優雅な音では役に立たないでしょう。

 「ハンドベル」という言葉で、私が思い浮かべるのは、何人かの人が並んで、手に持って鳴らす楽器です。ひとつひとつのベルは異なった音階になっていて、そのベルを振って曲を奏でるのです。可愛らしい音が出ます。

 国語辞典を見ると、「ハンドベル」を載せているのは少ないようです。『三省堂国語辞典・第5版』には、次のような説明があります。

 

 〔音〕手でふり鳴らすすず。特に、楽器として用いられるもの。

 

 「手でふり鳴らす」のは、「鐘」でなく「すず」です。可憐なイメージです。「特に、楽器として用いられるもの。」とありますから、力任せに振り鳴らす鐘のイメージでもありません。

 築地市場で「ハンドベル」と称しているのか、記者の用語であるのかはわかりません。それはそれとして、国語辞典の世界が、今後、この言葉をどのように定義していくのか、注目したいと思います。

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2018年10月18日 (木)

言葉の移りゆき(180)

組み込まれ、入り込まれる生活

 

 私たちは、テレビのコマーシャルを見て、知らず知らずのうちに洗脳されています。それがスポンサーにとっては、効果があったという喜びに通じることなのでしょう。コマーシャルだけでなく番組自体の内容にも同じような傾向が見られます。こんな文章を読みました。

 

 最近テレビ番組で、健康長寿のための食べ物が紹介されたり、運動の仕方などの指南も行われていて、視聴者も無関心ではいられなくなっています。 (中略)

 私のような健康オタクは、その都度メモを取って実行するので、お勧めの食品もどんどん増えて、これらを全部摂取すると、お腹が健康食品でパンパンになって病気になってしまいそう。 …(中略)

 ときどき呆然と立ちつくします。これらが朝食に入り込んできたのは、明らかにテレビ番組のせいだと。アレも必要、コレも大事!

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月14日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、高樹のぶ子)

 

 「オールジャパン」ほどの強引さはなくとも、国民のひとり、現代人のひとりとして、こういうことに気を付けた生活をしたらどうですかという構想の中に組み込まれてしまっている感じがします。もちろん、そんな勧めは無視してもよいのですが、何となく気になるのが人の常というものでしょう。それに従わなければ現代人失格かもしれないという不安かもしれません。不安は、その勧めを実行しない罪悪感につながってゆくかもしれません。

 話が変わりますが、「罪悪感」を除く食品というものがあると知りました。

 

 カロリー制限や糖質制限。むやみにカロリーを抑えようとして、食事をとらなくなることで、摂食障害に陥る事例もあります。楽しいはずの食事に感じる「罪悪感(ギルト)」を取り除くために、どんな方法があるのでしょうか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月25日・朝刊、be9ページ、「続・元気のひけつ」、田中誠士)

 

 この記事は、そんな罪悪感を取り除くための食品などの情報が書かれているのですが、そこに書かれている勧めに従おうとする気持ちを持ってしまうことも、人の常かもしれません。

 「幸福」「健康」「長寿」「お勧め」……など、きれいな言葉に惑わされず、「不幸」「病気」「短命」「罪悪感」……など、マイナスイメージの言葉に脅かされないようにしようという心の持ち方が必要な時代です。

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2018年10月17日 (水)

言葉の移りゆき(179)

「オールジャパン」に組み込まれる不愉快さ

 

 東京五輪・パラリンピックが近づいて、さまざまなことが話題になっている中で、こんな記事がありました。

 

 この夏、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会が文部科学省に文書を出し、それが都道府県などを通じて、全国の学校にも配付された。 …(中略)

 「大会はオールジャパンで行うので、教育関係者のみなさんもご理解ください」ということが書いてある。

 この文書を受け取った東日本のある高校の関係者は「オールジャパン」という言葉に違和感を覚え、「なんとなく気持ち悪い」と感じた。

 無理もないと思う。「何のために今、東京で五輪を開くのか」について、一般の人の心に届く発信が今もってないからだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月8日・朝刊、13版、27ページ、「コラム2020」、平井隆介)

 

 記者の意見とは異なるかもしれませんが、突然のごとく現れた「オールジャパン」という言葉には反発します。

 例えば、目的・目標を同じようにした人たちの集まりである学校で、「全校(全校生徒)挙げて」取り組む行事を設けるのは自然なことでしょう。巨大企業は別としても、「全社(全社員)で」取り組む事業があってもおかしくはありません。

 けれども、仮に人口が少なくても、「全市民(ひとり残らず)」心を一つにして何かを行うというのは難しいことでしょう。ひとつの市の市民には、いろいろな考え方の人がいます。県となるとなおさらであり、国全体では無理なことかもしれません。

 上記の記事に戻ります。どうして、「国民の皆さま」でなく「オールジャパン」なのでしょうか。このカタカナ言葉には「国民の皆さまにお願いする」という姿勢が見られません。「大会はオールジャパンで行う」と一方的に決めてしまっています。このカタカナ語の押しつけがましさは、まるで挙国一致と命じているような響きがあります。

 「オールジャパン」という言葉ひとつで、国民全体が動くと考えているとすれば、あまりにも不遜な言葉です。ひとりひとりの立場からすれば、有無を言わさず「オールジャパン」に組み込まれてしまう恐ろしさを感じます。大会のボランティアに参加するのは当然でしょう、大会が始まったら必ず応援しましょう、多少の税負担が増えても文句を言ってはなりませんぞ、などなど……。言葉に操られてしまうような気持ちになります。関西にいても、そんな危惧を感じるのです。いわんや東京をや。

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2018年10月16日 (火)

言葉の移りゆき(178)

「苦節何十年」という言葉

 

 「苦節」という言葉は不思議な使い方をされているように思います。

 はじめに、「苦節」という言葉を国語辞典がどのように説明しているか、引用します。

 

 『広辞苑・第4版』……苦しみによく耐えて信念や立場を守り通すこと。「-十年」

 『岩波国語辞典・第3版』……苦しみに負けずに守り通す心。「-十年」

 『三省堂国語辞典・第5版』……逆境にたえて・仕事をする(志をつらぬく)こと。「-十年」

 『新明解国語辞典・第4版』……苦しみに堪え、初心を守り通すこと。「-十年」

 『明鏡国語辞典』……困難や苦しみに耐えて、初心や信念をつらぬき通すこと。「-一〇年、初志を貫徹する」

 『現代国語例解辞典』……逆境にあっても節を曲げないこと。また、そのかたい心。「苦節十年初志を貫く」

 

 お見事! としか言いようがありません。揃いも揃って「苦節十年」という用例が収められています。これを見る限り、「苦節」は、苦しみが長く続いた場合に使う言葉かと思います。実際の用例を新聞記事から拾うと、やはりそうなっています。

 

 苦節20年。今年1月、簡単に縫えて、丈夫で、履き心地もよい理想のスリッパが完成した。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月9日・朝刊、10版、27ページ、「with読者会議」、栗田優美)

 

 見出しも「苦節20 理想の古布スリッパ」となっています。

 「苦節」と言う限りは「苦」(苦しみ)の要素が入っていないと使えないでしょう。それとともに、引用した国語辞典の説明でほぼ共通していることは「信念・志・初心・立場を守り通す」ということです。

 ところで、国語辞典は、「節」をどのように捉えているのでしょうか。「節」という文字には、〈自分の志・行動・主義を守って変えないこと〉という意味、〈とき。おり。時期〉の意味、その他にもいくつかの意味があります。漢和辞典を見ればわかります。

 多くの国語辞典は〈自分の志・行動・主義を守って変えないこと〉という意味を記述しながら、用例になると〈とき。おり。時期〉などの意味に支えられた言葉を挙げているのです。不思議な気がします。たぶん「苦節」は十年、二十年と続かなければ使えない言葉なのでしょう。

 「苦節を続けた」というような表現には出会いませんし、「苦節6カ月」では短すぎるでしょう。「苦節」はイメージが先行している言葉のように感じます。

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2018年10月15日 (月)

言葉の移りゆき(177)

「出口調査」を独立した見出しに

 

 「出口」とは、中から外へ出るための場所です。「非常用の出口」とか「水道やガスの出口」というような使い方をします。

 その用例に従って、仮に「出口調査」という言葉を使うとすれば、非常用の出口が大丈夫かどうかを調べたり、水道やガスがきちんと供給されているかどうかを調べたりすることを意味すると思います。「出口を調査する」という意味です。

 ところで、選挙が行われると「出口調査」が行われます。開票があまり進んでいなくても、出口調査に基づいて「当選確実」を判断することが行われています。これは「出口で調査する」という意味です。

 たくさんの国語辞典を調べたわけではありませんが、「出口」という項目(見出し)はありますが、「出口調査」という項目(見出し)は無いように思います。「出口」の用例として「出口調査」が挙げられているような状況です。

 そろそろ「出口調査」という項目を設けてもよいように思います。その場合は、選挙の時に使われる言葉だ、という限定が書かれるのでしょうか。それとも、もっと広い意味でも使うと許容されるのでしょうか。

 次のような記事に出会いました。

 

 最近は出口調査として、日本の旅を終え帰国する直前の外国人に空港でインタビュー取材。彼らが日本で買ったものや訪れた場所を深掘りする企画が好評です。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月2日・朝刊、13版、18ページ、「撮影5分前」、荻野健太郎)

 

 「出口」から独立して「出口調査」という言葉が一人歩きをして、既に「出口調査」は選挙関連用語から離れて、拡大していく方向にあるのではないでしょうか。そうなれば、国語辞典の項目には何としても必要だと言わなければならない気持ちです。

 もっともテレビの場合は、静かな形での調査ではありません。インタビュー取材というきれいな言葉を使いつつ、空港での現実は、相手の都合に配慮せずに、やたら呼び掛け、カメラを回すことも多いように感じます。もはや「調査」の範疇から離れて、テレビ関係者の好きな言葉、「突撃」そのものになってしまっているかもしれません。

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2018年10月14日 (日)

言葉の移りゆき(176)

肩をすくめる」はどういう意味?

 

 獣医学部新設問題について、加計学園理事長がやっと会見を開いたというニュースを読んでいて、おやっと思う表現に出会いました。

 

 与党側からも疑問の声があがる。自民党の閣僚経験者は「なぜこの時期に会見したのか。野党に(臨時国会での)攻撃材料を与えるだけだ」と首をかしげた。中堅議員は「安倍首相への不信感は根雪のように解けないが、野党もモリカケ問題を追及しても支持率が上がらない」と肩をすくめた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月8日・朝刊、13版、2ページ)

 

 「肩をすくめる」とはどういう意味でしょうか。中堅議員は、「しまった」と思っているのでしょうか、それとも「ざま見ろ」と思っているのでしょうか。自民党の議員が、野党の支持率が上がらないことを残念がるはずはありませんから、「肩をすくめ」て嬉しい気持ちを表したと言うのでしょう。

 「肩をすくめる」という成語を取り上げて説明している国語辞典は少ないのですが、『広辞苑・第4版』には、次のように書いてあります。

 

 肩をちぢませる。やれやれという気持や落胆した気持を表す。

 

 辞書の説明文に間違いはないのでしょうが、ずいぶん意味を広く考えているようです。

 説明文前半の「やれやれという気持」というのは、どのような気持ちでしょうか。「やれやれ」というのは、心が疲れたり困惑したときの、がっかりした気持ちを表すとともに、ほっとしたり喜び(安堵感)を表すときにも使います。

 説明文後半の「落胆した気持」というのは、期待通りにならなくて失望する様子を表しています。

 合わせて考えると、「肩をすくめる」には、安堵感もありますが、落胆する気持ちを表す方が多いように思うのです。〈肩をちぢませる〉のであって、〈肩を怒らす〉のではないのですから。

 この段落の文章は「与党側からも疑問の声があがる。」という趣旨で書かれています。野党が追及しても野党の支持率が上がらないことを喜んでいるのです。そうすると、「肩をすくめる」のこの用法は、新しいもののように見えます。

 この文章の「肩をすくめる」は、野党が追及しても効果は上がらないだろう、それ見たことか、というような気持ちのようです。大きな笑い声をこらえつつ、肩を控えめに小刻みに揺らしつつ、その嬉しさを表現している態度のように読みとれるのです。内心は、「ざま見ろ」という気持ちを膨らませているのかもしれません。

 議員の心中を推し量ったように書きましたが、それが目的ではありません。この表現を用いた記者の心中(意図)を推し量りたいと考えているのです。

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2018年10月13日 (土)

言葉の移りゆき(175)

「配慮」という言葉の使い方

 

 「配慮」というのは、よく考えて心を配ること、心遣いをすることです。言葉にとって大切なのは、意味とともに用法です。

 例えば、「安全に配慮する」というのは、安全でないような状況を周囲に及ぼしそうな側が使う言葉です。今にも危険な状態に陥りそうな側が「安全に配慮する」とは使わないでしょう。

 力を持っている側と、力のない側。害を与える側と、害を受ける側。普通の状況をうち破る側と、普通の状況をうち破られる側。そのように対比してみると、「配慮」をするのは、前者(力を持っている側、害を与える側、普通の状況をうち破る側)の方でしょう。

 こんな記事がありました。

 

 2020年東京五輪のテスト大会の第1弾となるセーリングのワールドカップ(W杯)江の島大会の競技が11日、神奈川県の相模湾で始まった。国際大会の大型イベントで、五輪本番での問題点を洗い出していくのがテスト大会の目的だ。今大会では地元名物のシラスの漁場などになるべく影響が出ないよう、配慮がされてのスタートとなった。 …(中略)

 大会組織委の内田拓也・地方会場調整担当部長は「コース設定に関しては、(シラス漁などに)十分に配慮した形になっているのではないか」と話す。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月11日・夕刊、3版、7ページ)

 

 リード文にある「配慮がされてのスタート」という表現は、地方会場調整担当部長の「十分に配慮した形」というコメントに基づいて書かれているように思います。

 シラス漁をしているのは、それを生活としている人たちです。その場所へセーリング競技が割り込んできたのです。

 大会組織委員会が「配慮する」と言うのは、大会を運営する側が、普通の生活をしている人たちの状況を破って、その人たちに害を与えると認識しているのですが、その前提にあるのは、組織委員会が、力を持っている側に立っているという認識でしょう。大会のために、漁場の一部を使わせてもらうということではないのです。大会運営に際しては漁業のことにも「配慮してやる」という意識を持っているということがあらわれています。つまり、五輪を絶対的な力で開催して、影響を受けそうな住民(生活者)には「配慮」をしてやるのです。

 そこのけそこのけ五輪が通る、という姿勢が、ちょっとした言葉遣いにも露呈してしまっているように感じられます。

 

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