2020年7月13日 (月)

ことばと生活と新聞と(143)

「〇〇年記念」という区切りは、何のためにあるのか


 美術館などの催し物、大ホールでの演奏会、そして出版物などに、「生誕〇〇年記念」「没後〇〇年記念」などと銘打たれたものがあります。そのような名の付いた美術展などには、この機会を逃したら何年先になるかもしれないと思って出かけることがあります。けれども生誕や没後の年数に関わらず開催されるものも多いのですから、「〇〇年」にどれほど意味があったのかと思うこともあります。もちろんその年数に意義深いものが含まれることもあるのは否定しませんが、単なる惹句として使われている場合もあります。
 こんな文章を読みました。

 もはや誰も言わなくなってしまったが、今年はベートーベン・イヤーである。生誕250年。様々な企画が世界中で用意されていた。それがほとんど新型コロナの影響で中止になった。
 古典派音楽が専門の指揮者、鈴木秀美さんは昨年末、自身の楽団の指揮を1年間休止すると宣言した。体調などが理由だったが「ベートーベン・イヤーに乗っからずに済みそうでほっとしている。芸術はイベントではない」と公演後のトークで皮肉った。人類の宝をそう易々と「商品」にされてたまるか。そんな矜持を映す言葉だった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月8日・夕刊、3版、7ページ、「取材考記」、吉田純子)

 この機会に、と思って期待をしていた演奏者や音楽ファンがいたことは確かで、中止によって失われたものも多いでしょう。けれどもベートーベン生誕250年だから意味があり、249年や251年だから価値が薄らぐわけではないでしょう。ベートーベン・イヤーが商業主義と無関係ではないとは言えないでしょう。
 私たちはこのような宣伝の言葉に弱いことは確かで、知らない間にそんな口車に乗せられていることが多いように思います。あの人が亡くなって30年にもなるのかという感慨を持つことはありますが、あの人が生まれて200年かといっても時間の長さを感じるだけということもあるでしょう。
 美術展や演奏会だけでなく、出版物にもこの傾向が強いように思います。今年がそういう年に当たるのかということを教えてくれるのは意味がありますが、それに乗っかってしまうのが人間の弱いところです。美術展、演奏会、出版物などを商品として、利益を得ようとしている人が世の中には大勢いるのです。
 何十年ぶりに開かれるというオリンピックや万国博覧会も同じようなものかもしれません。何事をも商品にして、それで金儲けをしようとしている人がいるということを忘れてはなりません。
 商品化されたものに引かれないで、文化などの一つ一つを自分の目で見たり、耳で聞いたりしながら、自分で考えていくという習慣を身に付けておかなくてはならないと、深く思うのです。

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2020年7月12日 (日)

ことばと生活と新聞と(142)

「サ」も「パ」も自立した言葉ではない


 外来語はカタカナで書きますが、そのカタカナの最初の一文字をとって、その言葉全体の意味をあらわす表記法があります。プロ野球のリーグ名のセントラルを「セ」、パシフィックを「パ」と言いますし、国名のロシアを「ロ」と言うこともあります。
 こんな文章を読みました。文章全体に問題があると思いますので、全文を引用します。

 ホテルの朝食の席で、〈納豆〔略〕税サ込三六三円〉などと値段が書いてあります。これが高いかどうかはともかく、〈税サ込〉とは何だろう。「税込み」なら分かるけど……。
 はい、「税・サービス料込み」ということですね。「サ」の1字だけで「サービス料」を表します。ホテルやレストランでよく使われるですが、少々分かりにくい。以前は「サ別」(=サービス料別)というのも多く見ました。
 これだけ「サ」が目につくなら、辞書の項目にあってもいいだろう。そんなわけで、『三省堂国語辞典』では「サービス料」の意味の「サ」という項目を立てています。
 「サ」は、福祉分野でも「サービス」の意味で使われます。「サ責」と言えば介護の「サービス提供責任者」。「サ高住」と言えば「サービス付き高齢者向け住宅」。見守りなどのサービスつきの住宅です。
 カタカナ1字の略語で、もうひとつ辞書に載せてもいいと思うのは「パ」です。「パ・リーグ」ではなく「パーティー」のこと。「鍋パ」「たこパ」(=たこ焼きパーティー)など、これもよく見ます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月4日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 「税サ込」という表記は広く行われていますから、わざわざ事新しく取り上げる必要はないと思います。「以前は『サ別』(=サービス料別)というのも多く見ました」というのは当然です。消費税の制度が始まる以前から使われていた表記法だからです。
 「辞書の項目にあってもいいだろう。…(中略)…「サービス料」の意味の「サ」という項目を立てています」という説明は矛盾しています。「サ責」や「サ高住」の「サ」は「サービス料」という意味ではありません。
 そして、このような表記は、この文章の冒頭で私が述べたこととは異なります。「セ」「パ」「ロ」は自立した言葉として、主語になり得ます。「セは、混沌とした首位争いを展開している。」などと言えます。
 それに対して、上に引用した文章に書かれている「サ」や「パ」はしっかり自立した言葉として使われていないのです。そこで述べられている「サ」と「パ」の使い方は、すべて「税サ込」「サ責」「サ高住」「鍋パ」「たこパ」というように、他の言葉と結びついてはじめて意味が示されるのです。「サ」「パ」は自立していません。こんな使い方の「サ」を国語辞典の項目に立てる必要はありません。
 話題を変えます。銭湯に大きな文字で「ゆ」と書いてあります。これは漢字の「湯」ではなくて、ひらがなの「ゆ」です。ひらがなの「ゆ」が独立した意味を持つのです。これこそ国語辞典の項目として採用すべきです。〈ゆ【湯】〉という見出し語のもとで、その一つの使い方として説明している辞典はありますが、そうではなくて、〈ゆ〉という独立した、ひらがなだけの見出し項目を立てるべきです。
 そして、もう一度考えてみてください。〈サ〉というカタカナ見出し項目や、〈パ〉というカタカナ見出し項目を立てて、「サービス(料)」とか「パーティー」とかの説明を書くでしょうか。〈ゆ〉に比べると、まったく自立していない言葉が〈サ〉や〈パ〉なのです。国語辞典は、個人の嗜好で特徴を出すものではありません。

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2020年7月11日 (土)

ことばと生活と新聞と(141)

相手の配偶者をなんと呼ぶか


 「ご主人」「旦那様」「奥様」などという言葉は、男性中心社会を反映してようだから使いにくいと感じている人がいます。私も同感です。けれども、日常的な話し言葉の世界においてまで、その言葉を追放して、「夫」「妻」のような言葉を使わなければならないとは思いません。
 「ご主人」「旦那様」「奥様」などに代わる言葉を、今の日本語から見つけ出そうとしても、なかなか難しいと思います。外国人の真似をするような外来語の導入は嬉しくありません。
 日常的にインタビューなどをする任務のある人は、相手の配偶者をなんと呼ぶかということを大きな問題と感じているようです。
 こんな記事を読みました。

 取材で初対面の人と話すときに迷うのが、相手の配偶者の呼び方です。「ご主人」「奥様」といった表現に上下関係を思わせる響きがある中で、他にどんな呼び方があるのか。 …(中略)…
 私は「お連れ合い」を使っています。「『お連れ合い』と言ってくれてうれしかった」というメールを取材の後でもらったことがある一方、「え? 主人のことですか?」と聞き返す方もいました。誰もがぱっと口にする言葉にはなり得ていない分、使い方の難しさも感じます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月7日・朝刊、13版S、11ページ、「論の芽」、田中聡子)

 この問題提起について、引用文で「…(中略)…」としたところに、ラジオパーソナリティーの綿谷エリナさんに聞いたことをまとめた部分がありました。けれどもこのインタビューは「相手の配偶者をなんと呼ぶか」という論点から外れたことも多く語られていますので、引用しません。
 まず私自身のことを書きます。私は年齢を重ねている人間ですから、話し言葉で「ご主人(さん)」「奥さん」を使うことに抵抗を感じておりません。
 「お連れ合い(の方)」という表現に抵抗感はありません。「連れ添う」という言葉は古くから使われていますから、「お連れ合い」は自然な表現です。古風な表現で、使う人が少なくなっていることは否めませんが、これから増えていってもよい言い方だと思います。ただし、夫婦関係にある男女の一方から見た相手を指す言葉ですから、夫を指すのか妻を指すのかわかりにくい場合もあるでしょう。
 「パートナーの方」という表現も増えてきているように思いますが、使いたくはありません。仕事のパートナーとか、研究者としてのバートナーという言い方もできる言葉で、相棒というような意味です。配偶者の意味に使いたくはありません。しかも、この言葉には、正式な結婚の手続きをしていない相手とか、同性同士の組み合わせの相手とかの意味にも使われています。
 配偶者の名前がわかっているときは、名前を使うこともあります。「吉田先生は……」と言って夫のことを指したり、「明子さんは……」と言って妻のことを指したりしますが、親しい場合でないと使いにくいかもしれません。

 この記事の話題は「相手の配偶者」の呼び方ですが、ちょっと話題を広げます。
 自分の配偶者については、私は「家内」と言うのがクセになっていますが、改まった場では「妻」と言います。私の配偶者は、私のことを「主人」と言っていますが、改まった場では「夫」と言っています。
 私よりかなり年若い人男性が、自分の配偶者のことを、「奥さんに相談してから返事をします」というように「奥さん」と言うのを聞いてとても驚いたことがあります。「わし(私)の嫁はん」というような、ちょっとふざけたような言い方は耳慣れたものでしたが「奥さん」には驚きました。けれども、この言い方を耳にすることが増えてきたように思います。
 女性が、自分の配偶者のことを、「田中は酒を飲みません」というように姓で言うことにも驚いたことがあります。しかも、結婚して20年とか30年の人が口にしています。
 相手の配偶者や自分の配偶者を呼ぶ言葉は、すぐに望ましい言葉が見つかるようには思えません。ただ、外来語(外国語)から答えを見つけ出そうとすることだけはやめてほしいと思います。

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2020年7月10日 (金)

ことばと生活と新聞と(140)

「掛」の謎が解けた


 長い間、なぜだろうと思っていたことが、ふとした拍子にわかることがあります。ここに述べるのはもう50年以上も昔のことです。
 学生時代のことです。神戸大学の事務室に行ったり、書類をもらったりしたときに、例えば教務掛とか学生掛とかの文字が使われていました。(実際に、教務とか学生とかの言葉であったのかどうかは、昔のことゆえ、記憶があいまいです。)それが教務係や学生係という意味だと思いましたから、誤解はありませんでした。係のことを「掛」の文字で表すことを古い文字遣いだろうと思っていましたが、それ以後、市役所や県庁などの書類などでこの文字遣いに出会うことは無かったように思います。
 井上ひさしさんの連載広告文を集めた、「ことばの泉」という題名の文章がありますが、その中にこんなことが書かれていました。

 「係大学よりも掛大学の方が上」という言い方が受験生の間にあるらしい。言語学の井上史雄さんによれば、昭和二十四年以降にできた新制国立大学の担当職名は「係」、それ以前の国立十大学(北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大、東京医歯大、東工大、神戸大)だけが「掛」を使用しているそうで、「係大学ウンヌン」はそこからきた言い方。こんなことが国語辞典に書いてあればおもしろいが、これは百科語事典が「掛」かもしれぬ。それとも隠語辞典が「係」かな。
 (井上ひさし、『井上ひさし発掘エッセイコレクション 社会とことば』、岩波書店、2020年4月10日発行、143ページ)

 この話はいつの頃の受験生のうわさ話であるのか、わかりません。「係大学」とか「掛大学」という言葉が今も使われているのかどうかも、わかりません。そもそも、現在も同じような使い分けの文字が踏襲されているのかどうかも知りません。
 それにしても、昭和24年より前にできていた大学と24年以降の大学で使う文字がちがうとは、ずいぶん大げさな話だなぁと思います。
 そういうわけで、私にとっては、ひとつの疑問が解消されたということです。

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2020年7月 9日 (木)

ことばと生活と新聞と(139)

「かたち」と「カタチ」と「形」


 ある日の夕刊と翌日の朝刊とに、大きな見出しがあって、同じ言葉がカタカナとひらがなとに書き分けられていました。
 それぞれの記事の見出しとリード文とを引用します。

 プロ野球 新しいカタチ / 当面は無観客・エアタッチ・球審マスク / ジェット風船タオル・共にZOOm観戦
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月6日・夕刊、3版、1ページ、見出し)
 プロ野球が19日、3カ月遅れで開幕する。新型コロナウイルスの感染を防ぐため、選手らは接触を極力避けるなど新しいスタイルで試合に臨み、当面の間は観客を入れないため応援風景も変わる。コロナ時代のプロ野球はどうなるのか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月6日・夕刊、3版、1ページ、木村健一・室田賢・伊藤雅哉)

 新しい旅のかたち / オンライン宿泊してみた / 画面越し「農場ツアー」に活路 / 心に革命起こす機会 / 「人と人」に新発想を / 温泉旅「不要」と言われぬために / 観光地、顧客層広げて
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月7日・朝刊、13版S、7ページ、「フォーラム」、見出し)
 自由な移動は制限され、レジャーを楽しむこともままならない。空前の訪日観光ブームから一転、観光地は新型コロナウイルスで深刻な苦境にあります。でも、今だからこそ日常を離れ、旅がしたい。そう願う人も多いはず。新しい生活様式になじむ新しい旅の可能性とは。旅する人、受け入れる人の声から探ります。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月7日・朝刊、13版S、7ページ、「フォーラム」、担当執筆者多数)

 「カタチ」や「かたち」は、見出しに使われるほどですから、キイワードと言ってよいでしょう。けれども、リード文や本文では使われていません。簡単な意味ではなく、いろいろな意味合いを込めた言葉として使っているようです。
 プロ野球の記事のリード文から「カタチ」に近い言葉を探すと、「(新しい)スタイル」「(変わる)風景」といったところでしょうか。
 旅の記事のリード文から「かたち」に近い言葉を探すと、「(新しい)生活様式」になじむ「可能性」といったところでしょうか。
 どうやら、「かたち」や「カタチ」という仮名書きの言葉は、「形」という漢字書きの言葉よりも、広い意味をそなえているようです。国語辞典では「形」という語の意味をそこまで広げて書いているわけではありません。だから漢字の「形」を使わないで、仮名書きにするのは理由のあることだと思います。
 それにしてもカタカナ、ひらがなを自由に使ってよいというものではないでしょう。そのことについてはきちんと法則を設けるべきです。
 カタカナだとカタチという表記で強調されますが、ひらがなにすると「かたち」というようにカギカッコ付きにしたくなるという気持ちは理解できますが、私は、日本語(和語)をカタカナ書きにすることには賛成できません。日本語の表記は外来語と一線を画すべきであると考えます。

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2020年7月 8日 (水)

ことばと生活と新聞と(138)

「お疲れさん」は以前から使っていた、ごく普通の日常語


 もう1回だけ、「お疲れ様」の話題を続けます。7月4日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」のページの〈「お疲れ様です」考〉の中に、倉持益子さん(社会言語学者)からの聞き書きが掲載されています。その一部を引用します。

 いつごろから「お疲れ様」という言葉が広がったのでしょうか。
 時期ははっきりしませんが、芸能界、例えば歌舞伎役者から広まったようです。戦前から活躍した俳優がよく使っていたという証言が残っています。芸能界からメディア関係者のあいさつとなり、じわじわと一般社会にも浸透したのではないかと考えられています。 …(中略)…
 1980年代ごろからマナー本などで「『ご苦労様』は目上の人に使ってはいけない」という記述が増え、使いづらくなりました。取って代わったのが「お疲れ様」だったのです。 …(中略)…
 これを使っている限りひんしゅくは買いにくい。代わる言葉の候補も、私はまだ見いだせません。まだまだ「お疲れ」時代は続くのではないでしょうか。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月4日・朝刊、13版S、13ページ、「オピニオン&フォーラム 論の芽」、田中聡子)

 「お疲れ様」という言葉は、「芸能界からメディア関係者のあいさつとなり、じわじわと一般社会にも浸透した」と言えるのでしょうか。「お疲れ(になられた)でしょう」というような表現はごく普通の日常の言葉です。「ご機嫌さん」「お早うさん」と同じように、「お疲れさん」という言い方は自然に発せられます。短く「お疲れ!」と言うこともあるでしょう。それは相手を思いやる気持ちから発せられていたはずです。それならば、何の問題もありません。同じ言葉が、今では軽い挨拶言葉に転落してしまったということが問題なのです。
 「ご苦労様」の代替として「お疲れ様」が使われるようになったというのも疑問です。上に述べたように、「お疲れさん」はそんなに新しい言葉とは考えられません。「ご苦労様」と「お疲れ様」は意味が異なる言葉です。それを代替品として使うというのは、心のこもらない言葉遣いということになります。言葉は、そんなふうにして変化していくと考えるべきではないと思います。
 「これを使っている限りひんしゅくは買いにくい」という評価は大問題です。ひんしゅくを買いにくいと肯定するのなら、この言葉を新聞で取り上げる必要はありません。そうではなくて、「お疲れ様」は使い方(どんな場面で、どのように使うかということ)に問題があるのです。「お疲れ様(です/でした)」を認めるか認めないかということではなく、どんな場面で、どのように使うかということを、深く考えるべきだということなのです。

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2020年7月 7日 (火)

ことばと生活と新聞と(137)

挨拶という役割だけでは、言葉は相手の心に届かない


 前回の話題「お疲れ様です」の続きです。7月4日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」のページに〈「お疲れ様です」考〉という見出しの企画が掲載されました。赤塚りえ子さんに聞いた話をまとめた記事に対する反応です。
 残念に思ったことは、葉書やメールで寄せられた読者の意見が約40通であったということです。何百万人の読者のうちで、この話題に関心を持った人数があまりにも少なかったのは、言葉への関心が薄いということではないでしょうか。そのせいでしょうか、読者からの反応は短くまとめられていて、その特集ページでは3人の方にインタビューした聞き書きが大きなスペースを占めていました。
 私は、前回のブログで、「お疲れ様です」と「お疲れ様でした」とは、その言葉を口にする人の心の状態がちがうということを書きました。この企画記事の全体の中で、「お疲れ様でした」という表現に言及しているのは、たった1カ所だけでした。3人のインタビューでは、どなたも、その違いについての発言はなかったようです。
 言及されている、その1カ所を引用します。

 肯定的な意見も多々ありました。「夫婦の夕食は『お疲れ様でした』で始まります」という男性は「基本的に温かい『ことば』。これからも大切にしていきたい」とのこと。ねぎらい合えるご夫婦、うらやましいです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年7月4日・朝刊、13版S、13ページ、「オピニオン&フォーラム 論の芽」、田中聡子)

 私は前回のコラムで、「相手が確実に疲れていると思われているときには『お疲れ様でした』と言います。その人の仕事ぶりなどに一日中、接していた場合などには、腹の底から『お疲れ様でした』と言います。」と書きました。この夫婦の場合はまさしくそれに該当します。けれども、単なる挨拶言葉として使う「お疲れ様」(というような尻切れの言葉)は、相手の心にしっくり届かないということでしょう。
 「ご苦労様でした」「お世話様でした」というような表現は、軽い挨拶言葉としては使いません。本当に相手に苦労をかけた、世話をしてもらったという心がこもっている言葉です。「昨日はご苦労様!」とか「いろいろお世話様!」というような、ぶっきらぼうな表現とは質が異なっています。
 似たような言葉もすべて、同じように考えるべきでしょう。「ご馳走様になりました」「ご愁傷様でございました」「お気の毒様でした」「お待ち遠様でした」「お生憎(あいにく)様でした」「お粗末様でした」という過去形を使った表現は、相手の思いを推察した上で発せられる言葉だと言うべきでしょう。
 相手の心と無関係に発せられる場合の「お疲れ様(です)」は、かえって相手の心を傷つけることがあります。その言葉を発する人の人格や品性が疑われることになるかもしれません。

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2020年7月 6日 (月)

ことばと生活と新聞と(136)

「お疲れ様です」と「お疲れ様でした」


 日常的な挨拶の言葉に悩むことがあります。「ご苦労様」をすべての人に向かって言うのはよくない、「おはようございます」は何時頃までなら使えるのだろう、「こんにちは」という短い挨拶は失礼ではないか、などと考えると、思案をしてしまうことがあります。
〈疲れてなくても「お疲れ様です」 便利だけど…?〉という見出しの記事がありました。海外経験のある赤塚りえ子さんに聞いた話をまとめたものです。次のようなことが書かれていました。

 2006年に12年間過ごした英国から日本に戻った時、驚いたのが「お疲れ様です」の嵐でした。メールはもちろん、オフィスのあいさつも電話もです。そんなに疲れているとは思えない朝から、一日中「お疲れ様です」が続くので、「一体これは何なんだろう」と不思議で、辞書やネットで語源や使い方を調べたほどでした。 …(中略)…
 「みんな疲れている」という共通認識があるから、「お疲れ様です」とねぎらい合っているのかもしれない。そう感じるようにもなりました。
 最初のうちは、どのタイミングで使うのかが分からず、戸惑いの連続でした。でも少しずつ、「こんにちは」とか「さようなら」のような軽いあいさつの代わりなんだ、と理解しました。確かに、メールの書き出しが「こんにちは」だと、ちょっとなれなれしい。「お疲れ様です」はすごく便利な言葉だと分かりました。今では「とりあえず書く」まで日本社会に順応してしまい、あいさつでも、うまく使えちゃう自分がいます。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2020年6月4日・朝刊、13版S、11ページ、「論の芽」、田中聡子)

 疲れているかいないか分からない人に向かって「お疲れ様」は使いにくいと思います。私は、メールの冒頭に「お疲れ様です」と書いたり、帰りの電車で出会った友人に「お疲れ様です」と言うことはしません。私がこの言葉で挨拶をされたときの気持ちは複雑です。疲れていないよ、と言いたいときがありますが、そんな言葉は口には出しません。単なる挨拶語だと思っているからです。挨拶として「お疲れ様です」を使うことは、私の場合は、ありません。書き言葉として「お疲れ様です」と書くことはありません。押しつけがましいと感じるからです。
 けれども、「お疲れ様」を全く使わないかと言うと、そうではありません。相手が確実に疲れていると思われているときには「お疲れ様でした」と言います。その人の仕事ぶりなどに一日中、接していた場合などには、腹の底から「お疲れ様でした」と言います。
 ここまで書くとお分かりになったと思いますが、私は「お疲れ様です」という現在表現の軽い挨拶言葉は使いませんが、本当に疲れていると思われるときには「お疲れ様でした」という過去表現で、ねぎらいの気持ちを表すことはするのです。職場の同僚に「お疲れ様でした」という別れの挨拶をすることには抵抗感は持ちません。
 【ブログの文章は、前もって書いたものを、1日につき1編ずつを載せています。この文章は、あらかじめ7月3日に朝日新聞社東京本社あてにメールで送りました。その翌日7月4日の朝刊に、この話題についての特集記事が掲載されました。】

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2020年7月 5日 (日)

ことばと生活と新聞と(135)

アベノマスクよりも国語辞典を


 今の日本の首相は、「積極果断な」政策を、「躊躇なく」「間髪を入れず」「一気呵成に」実行しているという自負があるようです。このような言葉を何度も口にしていますが、国民の耳には届きません。国民が聞く耳を持っていないのではなく、発せられる言葉があまりにも空虚であるからです。本人の心の中から出てきた言葉ではなく、周辺の者が書いた言葉を読んでいるだけだからかもしれません。
 もうすぐ「首相用語集」がまとめられて、その意味も記述されるかもしれませんが、その意味・用法は一般の国語辞典と大きく異なるところがあるように思われます。その「首相用語集」が国民に配られたら、言葉の意味の軽さに国民は驚くに違いありません。
 お礼に、国民は首相に、ごく一般的な国語辞典を一冊、差し上げたく思うでしょう。日本語の一つ一つの言葉にはこのような意味・用法があるのだと知っていただくために、差し上げたくなるのです。
 アベノマスクというものが届きましたが、マスクに多額の予算をかけたり、GO TOキャンペーンの取扱手数料を多額に準備したりするよりも、この際、全国の家庭に良質な国語辞典を配付する方が、国家予算の使い方としてはよほど優れたように思います。
 井上ひさしさんの連載広告文を集めた、「ことばの泉」という題名の文章がありますが、その中にこんなことが書かれていました。

明治の初期、新政府は『英和対訳辞書』を作り開拓使学校全生徒に配った。惣郷正明氏の研究によれば、その数は四千部。大学南校(東京大学の前身)も学生に和英辞典を無料配布したらしい。こちらは二千。時代がちがうから同日の談ではないが、これは検討に値する。たとえば全国の中学生に質のいい国語辞典を無料で配るのだ。
 (井上ひさし、『井上ひさし発掘エッセイコレクション 社会とことば』、岩波書店、2020年4月10日発行、136ページ~137ページ)

 これは冗談半分の提言ではありません。ばかげた使い道を考えるよりも、効果のうんと高い予算の使い方だと思います。首相の言語能力の向上にも役立つはずです。全国の中学生ではなく、全国の家庭のすべてに配ればよいのです。

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2020年7月 4日 (土)

ことばと生活と新聞と(134)

贋物の音声がはびこる


 新型コロナとは関係なく、以前からテレビで贋物の音声がはびこっていました。音楽やお笑い番組などで、実際にその場で起こった歓声や拍手などではなく、効果音を取り入れている番組が多くなっていました。効果音と言うと肯定的な言葉になりますが、実際にはそこにない音を追加するのですから、これは状況の作り替えであり、意図的な改変です。内容の異なったものに仕立て上げるのであり、贋物づくりです。こういうことがなぜ責められないのだろうと思っていました。
 相撲やプロ野球などが無観客で行われると、これまでのような大観衆のもとでは聞き取れなかった音が聞こえて、新鮮な気持ちになりました。相撲の行司などの声、力士の声やぶつかったときの音など、野球のバットやボールから出る音、ボールがミットにおさまる音、あるいは選手同士の掛け声などです。無観客ゆえの臨場感が生まれます。
 そのようなことに反して、わざと音声を作り出そうという営みがあることを知りました。こんな記事がありました。

 「いけー」「頼むぞ」。23日のプロ野球・千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズの試合。観客のいないZOZOマリンスタジアム(千葉県美浜区)に歓声が響く。千葉ロッテの井上晴哉選手が九回に同点打を放つと、拍手や声援はひときわ大きくなった。
 活用されたのは楽器メーカー大手ヤマハ(浜松市)が開発した「リモート応援システム」。スマホなどのアプリから「歓声」「拍手」など4種類のボタンを押すと、右翼席のスピーカー3台から、あらかじめ録音された約100種類の男女の声援や拍手がランダムに再生される仕組みだ。ボタンを押した人が多くなるほど音量も大きくなる。
 (読売新聞・大阪本社発行、2020年6月27日・夕刊、3版、8ページ、有留貴博・新田修)

 「あらかじめ録音された約100種類の男女の声援や拍手がランダムに再生される仕組み」というのですから、その球場で出た音(これまでの試合で録音された音)ではなく、作り出した贋物の音です。しかも、「右翼席のスピーカー3台から」出る音というのは、相手チームにとっては、試合をかき乱される音です。
 この記事を書いた記者は、このような応援作戦を肯定的に捉えているようですが、実際の観客の声援とはまったく異なります。試合を妨害する行為です。こういうことが拡大していけば、純粋にスポーツを楽しむことが阻害されかねません。スポーツ精神に反する行為であるのですから、排除しようという声があがることになるかもしれません。
 新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、人々の助け合おうとする態度や、自分から進んで行動を慎もうという姿勢などが、私たち国民の持つ特性として認識されました。しかし一方で、この機に乗じて金儲けを企てたり、相手に打ち勝とうと作戦を練ったりする者が現れています。スポーツの場にふさわしい行為とは思えません。どのようにすることが社会に貢献することになるのかということをよく考えてほしいと思います。

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