2018年6月23日 (土)

地域の言葉について思うこと(3)

発音も個性、語彙も個性

 

 ある新聞のコラムに次のような文章がありました。

 

 東北地方の温泉宿に泊まった夫婦が散歩に出た。玄関で番頭が「じいさん、ばあさん、お出かけ」と言った。夫婦は黙っていたが、帰った時、再び「じいさん、ばあさん、お帰り」と言ったので、さすがに注意した。「ひどいではないか」。番頭はそんな失礼なことは言わないと否定する。調べると夫婦の部屋番号が十三番。福島、宮城、山形あたりでは「じ」も「ず」も「じゅ」も同音になりやすく「十三番さん」と言っていたのだが、相手には「じいさん、ばあさん」と聞こえた。言語学者の金田一春彦さんが書いている。

 

 このコラムを読んで、思い出した文章があります。同じ金田一春彦さんに関わる話です。金田一さんが、どこかの食堂で食事をしていたら「金田一さん」と呼ばれました。あたりを見回しましたが知っている人はいないので不思議に思いました。しばらくすると、また「金田一さん」と呼ばれましたが、やっぱり知り合いはいません。そのうちに、その謎が解けたそうです。「金田一さん」という呼びかけに聞こえた言葉は、実は食堂の人が、注文を受けて、早口に「チキンライス、一丁」と伝えていた言葉であったというお話です。よく似た発音を、私たちは誤解して受け取ることがあります。

 七十年近く前に山形県鶴岡市で行われた調査では、猫のことを「ねご」と言うと答えた人が三十七%あったのに、最新の調査では三%に減ったのだそうです。ところが「鶴岡弁らしく発音してみせて」と言うと、今でも九割近い人が「ねご」と言うのだそうです。私たちは状況や相手によって共通語と方言を上手に使い分けているようです。

 方言はしだいに消えていくというのが通説です。福島原発事故の地元では、地域社会の人たちの避難先が多方面にわたり、方言の語彙で消滅する恐れがあるものがいくつもあるということを、東北大学の研究者が調査して、危惧しています。

 私たちの日常生活は方言の上に成り立っています。語彙は共通語と同じものをたくさん使っているでしょうが、音韻(発音)、文法、アクセントなどは、その地域がはぐくんできたものからは抜け出すことが難しいでしょう。それが、その地域の言葉の個性です。語彙も発音もアクセントも、共通語になびく必要はありません。文法ですら、共通語とは異なる特徴を備えていることもあるのです。

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2018年6月22日 (金)

地域の言葉について思うこと(2)

「真逆」という言葉

 

 私は、新しい言葉に抵抗感を示すことが多いのですが、「真逆」という言葉は少し違ったとらえ方をしています。

 何年か前の文化庁の「国語に関する世論調査」の結果などによると、今では「真逆」は「正反対」をしのぐ勢いなのだそうです。「真逆」を一語であるとすると、訓読み(「ま」)と音読み(「ぎゃく」)が交ざった湯桶読みをする言葉です。

 関西では一音節の言葉を長音にする傾向が強くて、「真」は、しばしば「まあ」となります。「まあ後ろ」「まあ前」とか「まあ東」「まあ西」と言います。(「まん前」というような言い方もないわけではありません。)その場合、「まあ後ろ」の「まあ」と「後ろ」は密接な一語になっているという印象ではなく、「まあ」と言って瞬間的な呼吸を置いてから「後ろ」にかかっていく、修飾語のような働きをしているように感じられます。

 例えば「まっ正面」は一語になってしまっているように感じますが、「まあ正面」は、「正面」を「まあ」が修飾しているように感じるのです。「真逆」にあたる日常語は、私の感覚では「まあ反対」であって、これも一語に熟してしまっているようには感じません。また、「まあ逆」と言っても違和感はありません。

 「真逆」と文字に書くことと、「ま逆」という共通語の発音と、「まあ逆」という長音化した日常語の使い方とは、それぞれ異なった印象を受けるのです。「まあ逆」は滑らかな響きを持つ言葉であると思います。

 言葉にも、地方分権的な視点を持つことは大切なことだと思います。

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2018年6月21日 (木)

地域の言葉について思うこと(1)

「ん」で始まる言葉

 

 大型であれ小型であれ、国語辞典に収められている言葉の最初の見出しは「あ」です。「あ」の見出しで並んでいる言葉は、感動詞の「あ」や、造語成分の「亜」や「阿」などです。

 それでは、国語辞典に収められている言葉の最後の見出しは何かといえば、辞書によって異なるでしょうが、「ん」で始まる言葉であることに間違いはありません。

 私は、仕事の必要から、十種類以上の国語辞典を手元に置いておりますが、改訂のたびごとに新版を買い求めることはできません。『広辞苑』は第4版のままです。その版の最後の見出しは、「んとす」であって「終りな-」という用例が載っています。まさに一冊の辞典が終わりなんとしている場所に置かれた用例です。その版では「ん」ではじまる見出しは、「ん」(4項目)、「んす」、「んとす」の合計6項目です。

 『広辞苑』はこの度、第7版が刊行されて、さまざまなことが話題になっていますが、最後の見出しは「んぼう」になりました。「赤-」などという言葉の造語成分です。今後、これより後の見出しが誕生するかどうか、興味がわくところです。

 もっとも、『新明解国語辞典・第4版』には、既に「んぼ」の見出しがあって、「甘え-」「おこり-」「立ち-」「けち-」「隠れ-」などの用例がどっさり載っています。

 極めつきは『三省堂国語辞典・第3版』の「んんん」という感動詞で、〔ひどくことばにつまったときの声。〕という説明がされています。

 国語辞典の最初と最後の言葉が感動詞であるということには納得しますし、そこまで言葉を拾い上げた辞書編集者に感服します。

 感動詞は、話し手の感動を表したり、呼びかけ、応答、掛け声、挨拶などに使われたりする言葉ですから、感動詞の語数は広がっていく可能性があります。

 さて、全3冊の『日本方言大辞典』は全国各地の方言を集めたものですが、「ん」で始まる見出しには、沖縄の言葉を中心にして百八十余があげられています。兵庫県にも関係がありそうな言葉をあげると、打ち消しの過去を表す「んかった」、ある動作をしなければならないということを表す「んならん」、尊敬の意味を表す「んす」、などです。私が勝手に用例を作り上げれば、「昨日はテレビを見んかった。」「明日は神戸へ行かんならん。」「事務所におりんすのは、どなたですか。」というようになります。方言辞典には「んんん」の見出しが現れないというのも面白いことです。

 ちょっと話が広がりますが、朝日新聞・大阪本社版の夕刊に「勝手に関西遺産」という企画があって、関西特有の言い回しなど、言葉の話題も積極的に取り上げています。かつて取り上げられていたのに「んなあほな」という言葉があります。

 上方落語協会の情報誌のコラムに「んなあほな」というタイトルがあるのだそうです。真面目な人が反論するならば、その言葉は「そんな阿呆な」という発音が崩れたに過ぎないということになるでしょう。けれども、関西の言葉では「そんな」ではなくて、実際の発音は「んな」になっていることは否定できません。

 この記事では、「いきなり『あほな』はキツいけど、前に『んな』って付けると、ノリツッコミのようになるんじゃないかなあ。」というコメントも紹介されています。

 関西では「んな」という連体詞が面白い味わいを出しています。「んなこと言われても、何ともならん。」とか、「んな話やったら、わしも一口乗りまっせ。」などと言います。理屈を言えば、共通語の「そんな」という形容動詞の「そ」が抜け落ちたに過ぎないということになるのかもしれませんが、そこまで言うと、関西言葉の味わいにケチをつけることになってしまいます。

 例えば、応答のときに使う言葉の「うん」は、「うん」という発音もしますが、人によっては、あるいは場合によっては、はっきりと「ん」とか「んん」と発音することがあります。鼻音の発音です。感動詞の「ん」は、文のはじめに出てきますから、「んなあほな」と言うのと似た性格をそなえています。

 私は今、『明石日常生活語辞典』を作っていますが、「ん」で始まる語を取り上げています。目立たせようとして積極的に取り上げたわけではありません。自然とそのように発音する言葉があるからです。例えば、名詞の「んま()」は「うま」と言う方が多いでしょうが、「んま」もきちんと残っています。打ち消しの意味の助動詞の「ん」は、例えば、「明日は行かつもりや。」などと言って、「ん」以外の何ものでもありません。格助詞(準体助詞)の「ん」は、例えば「その本はわし()や。」と言います。「わしのや」とか「わしのんや」とも言います。

 『明石日常生活語辞典』では、やや複合的な言葉も含めると、二十語ほどを、「ん」で始まる見出し語として取り上げています。

 

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2018年6月20日 (水)

言葉の移りゆき(64)

「想定」ということの不安定さ

 

 大阪北部を震源とする地震が起きました。関西にとっては阪神淡路大震災以来の大きな地震ですが、大震災以降は、さまざまな災害を「想定」した訓練などが増え、それなりの効果をあげていると思います。

 「想定」という言葉は、仮にある状況や条件などを考えてみること、という意味です。起こっていないことを予め考えるということです。

 大阪府教委が府立高校入学者に、英語の「スピーキングテスト」を在学中に課す方針を決めたというニュースがあり、そのテストの内容や取り扱い方が紹介されていました。

 

 受験教育を手掛ける民間事業者に委託して独自のテストや教材を作り、教員自らが評価する想定。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年6月16日・夕刊、3版、11ページ、芝村侑美)

 

 たぶん府教委の発表に「想定」という言葉が使われていたのでしょう。評価という重要なことを「想定」(どうするかは確定していない)というレベルで考えて、テスト実施そのものを決めてしまうというのは粗っぽいやり方です。公立学校のテストや教材を民間事業者に委ねてしまうということ自体に違和感を覚えますが、「教員自らが評価する」ことも想定に過ぎなくて(つまり、仮に考えただけであって)、そうでないこともありうると言っているようです。教員が評価するのではなく、ひとりひとりの生徒を民間事業者が評価する可能性もあるのでしょう。

 同じ記事には、英語授業に詳しい大学教授の話というコメントが添えられていました。

 

 話す能力を鍛えるには目的や場面、状況などを想定しながら自分で考えて話す経験が重要。

 (出典は上記に同じ。)

 

 こちらの「想定」はごく自然な意味で使われています。何の違和感もありません。

 大災害の場合の「想定」と、教育の場における「想定」とを同じように考えてはいけないでしょう。人智を超える災害に「想定」で対応するのは仕方ありませんが、教育の場の生徒たちを「想定」で左右するのは望ましいことではありません。

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2018年6月19日 (火)

言葉の移りゆき(63)

書名は不当表示にならないのか

 

 例えば、食品や薬品の販売で、「あなたは健康に蝕まれている」、「この食品(または薬品)を使えば回復する」と言えば、大問題になるでしょう。世の中の商品の大半は、不当表示が規制されていると言ってよいでしょう。

 ところが、書籍などの場合は、まったく好き勝手なことを言っても問題にならないようです。「あなたは馬鹿です」から「この本を読めば、たちどころに賢くなります」と言わんばかりのことが行われています。書名の付け方にも、そのような傾向があります。

 

 「知らないと恥をかく世界の大問題」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月9日・朝刊、13版、2ページ、KADOKAWA・広告)

 

 恥をかこうと人の勝手なのですが、恥をかくからこの本を読みなさいと言わんばかりの書名です。人の弱点につけ込んで、本の購入を勧めようという姿勢は見え見えです。「あなたは健康に蝕まれている」というのと違いはありません。こういう書名は出版元がつけるのでしょうが、著者の了解なしには行われていないはずです。「知らないと恥をかく…」というのはシリーズで何冊も出ているようです。著者お好みの言葉のようです。

 この広告には出ていませんが、同じ著者には、「なるほど!日本経済早わかり」とか「そうだったのか!現代史」などという書名もあります。「なるほど!」や「そうだったのか!」は誰の感想でしょうか。著者ではなく読者のはずです。ということは、著者の述べることは素晴らしく、読者がそれに納得するという構図です。著者は何でも知っていて、知識の足りない読者が驚くということが書名に現れているのです。

 私はこのような書名の本を読みたいとは思いません。話は変わりますが、「〇〇先生のナントカカントカ」というように、自分のことを先生と言って、人を引きつけようとする本も同じです。書名に抑制力がはたらかないような人の文章は、あてにならないと思っています。

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2018年6月18日 (月)

言葉の移りゆき(62)

国語テストの三択問題

 

 首相がテレビ番組で語ったというニュース記事がありました。その一部分が、次のような文章になっています。

 

 一方、学校法人「森友学園」「加計学園」問題について、「私の分からないところで『これは首相が言っているんだから』ということは起こっているかもしれない」と述べ、…………。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年6月16日・夕刊、3版、1ページ、古川宗。ただし実際には、…………の部分には言葉が書かれていた。)

 

 ここで、問題です。「…………」の部分には、どのような言葉が書かれていたのでしょうか。次の3つの中から選んでください。

 () 自身の関与を重ねて否定した。

 () 自身の関与をしぶしぶ認めた。

 () 自身の関与を否定も肯定もしなかった。

 

 国語のテスト問題にはこのような形式のものがあります。文脈から考えて、ここにはどのような言葉が入るのが適切かと問うているのです。(現実には、時事的内容が問題になることは少ないと思いますが…。)

 これはテレビ番組を見たか見なかったかとか、首相の人間性がどうであるかとかは関係ありません。純粋に言葉の問題です。

 カギカッコの中はテレビ番組で語ったことが記されており、その意味では客観的事実です。「…………」の部分には、その発言に基づいて記者が下した判断が書かれているはずです。どれを選べばよいでしょうか。

 国語のテスト問題としては、答えの選択に迷います。「関与」という言葉の重みによって、ますます迷いが生じるでしょう。とはいえ、選択肢は、否定、肯定、曖昧返答の3つです。どれかを選ばなければなりません。

 正解は、意外に思われるでしょうが、()です。国語のテスト問題の場合は、もともとの文章に書かれていた言葉が正解です。それ以外は誤答ということになります。「…………」の部分には「自身の関与を重ねて否定した。」と書かれていたのですから、それが正解です。

 けれども、これは国語のテスト問題にするには適切でなかったと思います。問題はこの文章表現にあるのです。表面的な発言とは裏腹に、内心が見え見えであったというのならば、「と述べつつも、」とか「と述べるにとどめ、」などという表現をした上で「…………」の部分につなげていかなくてはならないでしょう。そういう言葉を取り払ってしまって、記者としての結論を書くのは性急であったと言わなければならないでしょう。

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2018年6月17日 (日)

言葉の移りゆき(61)

「自撮り」と「自画撮り」

 

 「自撮り」とは、自分のカメラで自分を撮ることです。と言っても、シャッターを押すことを他人に頼んで、自分のカメラで自分を撮ってもらっても自撮りとは言わないでしょう。三脚を立ててシャッターのタイマーを使うのは自撮りの範疇にはいるのでしょうか。自撮りというのは、自分のカメラのシャッターを自分で押して自分を撮るということなのでしょうね。「自撮り」は写真を撮るときの方法についての言葉です。

 では「自画撮り」とは何でしょうか。こんな記事がありました。

 

 一都九県でつくる関東地方知事会議が二十三日、都内で開かれた。都の提案で、中学生や高校生らが自分の裸を撮影して他人に送り、画像が悪用される「自画撮り」被害を防ぐため、国に法改正を求めることで一致した。

 (東京新聞、2018年5月24日・朝刊、22ページ、したまち版、川田篤志)

 

 自画撮りとは、記事にあるように、自分の裸を撮影することのようです。これは自分でシャッターを押すとは限らないと思います。タイマーを使ったり、他人にシャッターを押してもらったりすることも含まれるでしょう。「自画撮り」は写真の中身(対象)についての言葉で、とりわけ「裸」がキーワードになっているのでしょう。

 観点の違う内容を、よく似た言葉で表すと、混乱が起こることがあります。「自撮り」と「自画撮り」は、一見同じことを表すようにも取れます。「国に法改正を求める」とありますから、今後、しばしば目にする言葉になるかもしれません。「自画撮り」は、他の言葉を工夫して使うようにするのがよいのではないかと思われます。

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2018年6月16日 (土)

言葉の移りゆき(60)

実感できる数字と、架空のような数字

 

 今朝の気温は昨日の朝よりも5度高いというニュースを聞くと、なるほどその通りだと実感します。数字が現実を再認識させてくれるのです。

 平均年齢が延びたというニュースを聞くと、我が身には実感しませんが、嬉しいことだという思いになります。数字のもたらす効果です。

 ところが、次のような数字は、私には何の思いも与えてくれません。

 

 定期的なウオーキングに寿命を延ばす効果があることが知られている。最近の米ペンシルベニア大などの研究でも、1日に座っている時間を30分でもウオーキングなどの運動に振り替えると死亡リスクが5年間で51%も減少すると報告されている。 …(中略)

 ゆっくり歩く人に比べて平均的な速さで歩く人は全死亡リスクが20%低く、速く歩く人(速いとより速いを合わせて)では全死亡リスクが24%低いことが分かった。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年6月14日・夕刊、3ページ、「100歳への道」、白澤卓二)

 

 「死亡リスクが5年間で51%も減少する」とか「全死亡リスクが20%低く」「全死亡リスクが24%低い」とか述べていますが、どういうことを言っているのか、実感はゼロです。

 上記は、記事の文章の冒頭から引用しています。この文章には現在の年齢のことは触れられていませんから、すべての年齢の人を対象にしているのでしょう。死亡リスクという言葉の説明はありません。「死亡リスクが51%減少する」ということは、死亡率が半分になるということではないとは思いますが、リスクが半分になることと「寿命が延びる」こととの関係はどういうことなのでしょうか。「5年間で」という設定もよくわかりません。

 研究成果の中身を紹介しているのですから、間違ったことは述べていないでしょう。けれども、いくら数値を並べてもらっても、ごく普通の人にとっては実感が乏しいのです。ウオーキングをすれば効果がある、ということは理解できますが、それによって、どのように「寿命が延びる」のかは説明できていないと思います。リスクが何%低くなるというのは架空の世界の話のように聞こえるのです。

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2018年6月15日 (金)

言葉の移りゆき(59)

「伸びしろ」と「糊代」

 

 この頃、「伸びしろ」という言葉を聞くようになりました。スポーツに関しての場合が多いように思います。「この選手の伸びしろはまだ残されていると思う。」と評論したり、「私にはまだ伸びしろがあります。」と選手本人が言ったりしています。こういう文脈では、まだこれから伸びる余地(可能性)のことを述べているように思います。

 私は「伸びしろ」を聞くたびに「糊代」という言葉を思い浮かべてしまいます。「しろ」という造語成分は、「身代金」とか「飲みしろ」とかのように、代価・代金・代替品の意味をあらわしたり、あるいは、「糊代」とか「縫い代」とかのように、あることをするために確保しておく必要な部分のことを言ったりしていました。それが従来の使い方であると思うのです。

 民泊のことが話題になっていますが、仲介サイトの社長へのインタビュー記事がありました。スポーツなどで使われるのと同じ用法です。

 

 「まだまだ伸びしろはある。今は東京や大阪、京都に集中しているが、地方で増やせる。簡易宿泊所の許可を取った物件もある。旅館やホテルなど既存の施設の掲載も増やしていく方針だ。パリやロンドンなどと比べても伸びる余地があると考えている」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月13日・朝刊、10版、26ページ、「聞きたい 田辺泰之氏」、森田岳穂)

 

 この談話において、「伸びしろ」と「伸びる余地」は同じような意味で使われていると思います。「糊代」や「縫い代」は、糊を付けたり縫ったりすることによって、全体は狭まります。それに対して「伸びしろ」は広がっていく可能性を表しています。この言葉は見過ごして構わないようにも思いますが、なんだか変だなぁという気持ちも残ります。

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2018年6月14日 (木)

言葉の移りゆき(58)

「目が点」の意味は広がりつつあるのか

 

 「目が点になる」という言葉は比較的、新しい言葉です。だから、国語辞典を見ても説明がないものもあります。マンガで、目を点のように描いて、表情をあらわしたことがもとになっている言葉だと言います。

 そのことから考えると、びっくりする、驚くという意味が基本だろうと思います。拡大していけば、考えが浮かばなくなる、ポカンとしたりキョトンとしたりする、度肝を抜かれる、呆気にとられる、というあたりまで広がることでしょう。

 それにしても、この言葉の表す守備範囲はどこまでなのかが、よくわかりません。国語辞典はその範囲を示さなければならないでしょう。どこまで広がってもよいというものではありません。

 例えば、次の文章は、上に述べた意味範囲の中に入るのでしょうか。

 

 朝から晩まで同じ話を繰り返す。情報番組とはそんな風である。日大アメフト問題がようやく鎮火したら、次は「紀州のドン・ファン」変死事件。朝も昼もワイドショーはもちろん、NHKの「ニュース9」まで連日トップニュースで報道して、目が点になった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月13日・朝刊、13版、29ページ、「キュー」、島崎今日子)

 

 この文脈で、筆者が何を言おうとしているのかは理解できません。「紀州のドン・ファン」事件をほとんどの局が、昼夜を分かたず報道したから「驚いた」ということを言っているようには思えません。そんな単純な意味ではないでしょう。「度肝を抜かれた」というのは大げさです。テレビ局が一つの事件に集中して放送することは、これまでの常套手段であったのですから。

 この文章を読んだ瞬間、私が感じたのは、(同じ話題ばかりが報道されるので)「視野が狭くなった」とか「他のものに目が行かなくなった」とかの意味だろうかということです。けれども、そういう用例があるのかどうか、私にはわかりません。

 

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