2019年7月21日 (日)

ふるさと江井ヶ島(22)

はす【蓮】


 世界通信社が発行している教材学習ニュースに「オニバス」を扱ったものがものがある。1999年(平成11年)7月15日の発行である。
 「絶滅が心配される貴重な水草」というタイトルで、「直径2メートルにもなる大きな葉と全身をおおう鋭いトゲが特徴の水草で、スイレン科の一年草です。太平洋側は宮城県、日本海側は新潟県を北限として、本州、四国、九州の主に平野部に分布していますが、近年、埋め立てや水質汚濁などが進み、激減しています。全国に60~70か所となってしまった産地の保護が急がれます。」という説明がある。
 載せられている写真は「兵庫県明石市の西島大池」で、「日本一の群生地で、池一面をびっしりとオニバスの大きな葉がおおっています。」と書かれている。
 この希少な植物は、兵庫県レッドデータブックのBランクである。オニバスの観察会は西島ため池協議会の主催で、継続的に開催されている。

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2019年7月20日 (土)

ふるさと江井ヶ島(21)

はくつる【白鶴】


 神戸・灘の酒である「白鶴」は、かつて江井ヶ島でも造られていた。
 その理由の一つは、白鶴酒造株式会社の支店が江井ヶ島にあって、酒蔵があったということである。大きな酒蔵が何棟も並んで、その南側に小さな事務所があった。この白鶴の蔵の広場に干してあった大桶の中に入って、遊ぶことをした。
 昭和20年代から30年代の前半頃は、自動車が発達していなかった。4トン積みのトラックとか、小さなオート三輪はあったが、自動車以外の輸送手段にも頼っていた。「馬力」という、馬に引かせた荷車で、江井ヶ島港から米や芋(焼酎の原料)などを運んでいる風景は日常的なものであった。(焼酎は白鶴ではなく、別の会社で作っていた。)その仕事に携わっている人を「馬力引き」と呼んでいた。
 白鶴酒造の酒造用の水を井戸から蔵へ運ぶことを仕事にしている人もあった。「馬力」より小さい車にタンクを積んで、引いていた。車を引く綱を肩にかけて2人で引っ張っている姿をよく見かけた。「肩引き」という言葉があったが、それが車のことを指すのか、作業に当たっている人を指すのか、今となっては断言しにくい。
 「白鶴」の酒が江井ヶ島でも造られていたということの、もう一つの事情は、江井ヶ島の他の酒蔵で造られた酒が、トラックの大きなタンクに詰められて、運び出されていたということである。タンクに「白鶴」と書かれていたから、間違いなく白鶴へ運ばれていたはずである。江井ヶ島は酒造地として知られているから、自社の銘柄でも売り出していたが、白鶴の中にブレンドされていたこともあった。
 以上の話は昔日のものとなった。白鶴の支店はとっくの前に廃止になった。そして時が流れて、レストランチェーンの会社が旧・白鶴の酒蔵を買い、それを活用した店が誕生してからも20年以上の時が流れている。そのレストランは「明石江井島酒館」というのであるが、ここで造られる明石ブルワリーの地ビールは高品質で、数々の賞を得ている。また「日本徳利博物館」「酒蔵資料館」も併設され、資料としての価値も高い施設になっている。

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2019年7月19日 (金)

ふるさと江井ヶ島(20)

にしえいがしま【西江井ヶ島】


 筆者が小学生か中学生の頃だったと思うが、父と一緒に山陽電鉄の電車で明石へ出かけて帰ろうとしたときのことを思い出す。当時、切符は窓口で買ったのであるが、父が「西口まで」と言って切符を買ったのには驚いた。問答が繰り返されることもなく、窓口からは西江井ヶ島駅までの切符が差し出された。
 西江井ヶ島駅は、1944年(昭和19年)4月1日に改称されている。開業以来それまでは「江井ヶ島西口」駅であった。改称から十何年か経っても「西口」は通用したのである。昔も今も山陽電鉄には「○○西口」という名の駅は他にないということも理由の一つであったのかもしれない。
 その西江井ヶ島駅は上り線と下り線にそれぞれホームがあるが、かつては下りホームの南側にもう一つのホームがあった。駅の東の方から側線が引き入れられて、そのホームに入線できるようになっていた。駅の東側には、上り線と下り線との間の渡り線が設けられ、上り・下りの入れ替えもできるようになっていた。
 電車に乗るときには改札口があった。小さな駅であっても、当時はすべての駅が有人であった。けれども南側のホームは、改札の外にあって、ホームに上ることができた。これは、実は貨物用で、西江井ヶ島駅にあったのは貨物用の引き込み線とホームで、草が生えているようなホームだった。
当初はたぶん酒の輸送という役割を持っていたのだろう。けれども、筆者の記憶では、貨物用のホームには、いつも白い粉が落ちて残っていたように思う。近くの魚住町西岡に1926年(大正15年)創業の丸尾製粉(現在の社名は、丸尾カルシウム)があって、石灰岩を原料として炭酸カルシウム製品を作っていた。作られた製品の輸送に山陽電鉄の貨物電車も使われていたのだろうと思う。
 茶色の貨物電車は、その角張った車両に荷物を載せることができるが、無蓋の貨車を1~2両引っ張って走っていることもあった。貨物輸送が自動車に押されるようになって山陽電鉄の貨物輸送は1960年頃に全面的に廃止された。西江井ヶ島駅前には日本通運の取扱店もあったが、いつの間にか廃止された。西江井ヶ島駅の南側には、乗客用ホームに接して、山陽電鉄従業員用の5階建ての集合住宅が建てられたが、近年、取り壊された。

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2019年7月18日 (木)

ふるさと江井ヶ島(19)

でんしゃ【電車】


 1960年前後の頃は、現在とはまったく様子が違って、西江井ヶ島駅のあたりの山陽電気鉄道本線より北側は田圃と溜め池だけで、民家はほとんど無かった。西島の集落の北の外れに西江井ヶ島駅があるという感じであった。もちろん、それより北を走る国鉄(当時)山陽本線の蒸気運転の列車はよく見えた。
 山陽電鉄は、兵庫(神戸市)-明石間は兵庫電気軌道株式会社として開業し、明石-姫路間は明姫電気鉄道株式会社として開業(2年後に神戸姫路電気鉄道に改称)した。両者が宇治川電気(現在の関西電力)電鉄部となった時期があるが、1933年(昭和8年)に独立して山陽電気鉄道となった。
当初の社名からもわかるが、兵庫-明石間は道路併用区間もあり、駅間距離が短く、電圧は600ボルトになっていた。明石-姫路間は高速運転ができるように直線区間が長く、駅間距離も長く、電圧は1500ボルトになっていた。連結点の明石に2つの駅があった時代があるが、線路や電圧(1500ボルト化)を改めて、1928年(昭和3年)から兵庫-姫路間の直通運転を実現している。
 兵庫-明石間は既に開業100年を超えたが、明石-姫路間の開業は1923年(大正12年)8月19日である。筆者が子どもの頃には、2両連結の大型車や小型車が特急、急行、普通電車として走っていた。特急に使われた800型はロマンスシートをそなえた大型車で、子どもの頃には「新車」と呼んでいた。「新車」が時々は普通電車にも使われたが、その時は大喜びであった。急行に使われた車両のうち700番台は旧国鉄の63型と同型で、全国の私鉄に戦後の車両不足の緊急対策として導入されたが、標準軌の鉄道会社に導入されたのは山陽電鉄が唯一であった。この電車が普通電車に使われたときも喜んで乗った。
 市立の大久保中学校に通学した時代は、西江井ヶ島(または江井ヶ島)駅と中八木駅の間を電車通学した。自転車で通った友だちもあるが、電車通学の方が多かったように思う。「しんしゃ」というのは、その時代の呼び名で、子ども達だけの呼び名であったかもしれない。国鉄山陽本線の西明石-姫路間が電化されたのは中学生の頃であった。

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2019年7月17日 (水)

ふるさと江井ヶ島(18)

どっこいしょ


 「どっこいしょ」という言葉を聞くと、「あ よいよい こらこら…」と踊り出したくなるような気持ちになるが、実はそれとはまったく違った意味である。江井ヶ島の周辺は良い水の湧き出るところで、そのうちの、浅い井戸、地表に湧き出している井戸のことを「どっこいしょ」と言う。
 『明石のため池』(明石市教育委員会発行)に、「どっこんしょ」という項目があって、次のようなことが書かれている。

 「どっこんしょ」あるいは「どっこいしょ」と呼ばれる湧き水が、谷八木から二見までの海岸線や川沿いにあったことが、地元の年配の人たちの話によくでてきます。
 子どもの頃、海で魚を突くために、松陰から谷八木の海岸まで歩いていく途中、いつものように崖の下から湧き水が出ているところで休憩し、汗をかいた顔を洗うことにしていたそうです。また、海で魚を突いたり、泳いだりした後、今度は、海岸の砂浜にも湧き水が出ているところがあり、そこで真っ黒になった体を洗い、そして乾いた喉に冷たい水を流し込む。その水がなんともいえないほど、おいしかったそうです。
 戦前には、谷八木にこのような湧き水が10数ヶ所あったそうです。戦後には、大きな工場が大量に地下水を汲み上げるようになり、湧き水は次々に枯れてしまったそうです。

 大久保町の北の方にある松陰(ルビ=まつかげ)から、谷八木の海岸へ歩いて行った「年配の人」の体験談として語られているのであるが、湧き水は崖の下などにあったようである。
 筆者は、江井ヶ島に住み続けているのであるが、呼び名は「どっこいしょ」である。確かに崖のようなところにもあったとは思うが、大きな酒蔵などの中にも水が湧き出しているところがあって、石やコンクリートで囲ってあった。目の前へこんこんと湧き出してきて、もったいないのであるが、流れっぱなしになっていた。大量の地下水の汲み上げが原因で涸れていったのかもしれないが、今では「どっこいしょ」の存在は忘れ去られてしまっている。
 筆者の家には井戸があったが、井戸といってもせいぜい地表面から3メートル程度の深さの水面だった。水に恵まれていることと、江井ヶ島を中心とした地域の酒造りとは密接なつながりがある。

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2019年7月16日 (火)

ふるさと江井ヶ島(17)

ためいけ【溜め池】


 兵庫県の溜め池の数は全国で最多である。播磨平野や淡路島は雨が少なく、灌漑用の溜め池が必要である。
 『明石のため池』(明石市教育委員会発行)という本の後ろの方に、30ページ近くにわたって「ため池データベース」というのがあって、明石市内にある111か所の溜め池の写真とともに、所在地、堤高、堤長、貯水量、満水面積や、管理している水利組合やため池協議会の名が書かれている。
 桜の名所でもある明石公園には剛ノ池という、春は花に埋まる池があるが、この池の満水面積は31720平方メートルである。剛ノ池は有名な池であっても、大きな池の部類には入らないようである。
 明石市大久保町の大字名としての江井島と西島にある池は、次の通りである。
   皿池  堤長1940メートル 満水面積107150平方メートル
   谷池  堤長1456メートル 満水面積 69990平方メートル
   切池  堤長 313メートル 満水面積 8350平方メートル
   下切池 堤長 296メートル 満水面積 6750平方メートル
   納戸池 堤長 430メートル 満水面積 19130平方メートル
   上池  堤長 560メートル 満水面積 19220平方メートル
   新池  堤長 275メートル 満水面積 17920平方メートル
   皿池  堤長 300メートル 満水面積 19710平方メートル
   大池  堤長 954メートル 満水面積 54250平方メートル
 はじめの2つの池の管理は江井ヶ島土地改良区、あとの7つの池の管理は西島水利組合である。はじめの2つの池は圧倒的に大きい池である。
 皿池という名の池が2つあるが、池の底が周囲の田んぼと変わらないような、底の浅い池を皿池と言うから、皿池という名の池はあちこちに存在する。
 これらのため池は、鳥をはじめとする動物や、水生植物にとっての生活環境を提供していて、貴重な存在になっている。特に、直径2メートルほどの大きな葉を持つオニバスのあるところとして、全国的に知られている。

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2019年7月15日 (月)

ふるさと江井ヶ島(16)

スタンプ

 山陽電気鉄道は、かつて、すべての駅に観光用のスタンプを設置していたことがあり、そのスタンプを集めるという催しも行っていた。
 駅のスタンプは、かつての国鉄がディスカバー・ジャパンを合い言葉に旅行意欲を喚起しようとして、全国的にスタンプを整備し、ブームとなったことがある。
 ところで、山陽電鉄のスタンプはその時が最初というわけではない。それより前にも、主要駅や、観光客が主体となる駅にはスタンプがあった。
 すべての駅に設置されたスタンプは既に姿を消してしまっている。山陽電鉄は全駅自動改札を推し進めて、その結果として主要駅以外は無人化されたから、今ではスタンプを置いても管理が行き届かなくなることだろう。
 さて、昭和の終わり頃のスタンプの印影はと言えば、西江井ヶ島駅のスタンプには、日本酒の酒蔵とウイスキー蒸留所が描かれ、蒸留所の空には風見鶏の姿がある。さらに、魚住城跡の標柱があり、沖には淡路の島影が見える。
 一方、魚住駅のスタンプには、藤の花で有名な中尾・住吉神社と、牡丹で知られる薬師院(通称はボタン寺)が描かれている。海に向かって開放的な風景が広がるのが住吉神社である。
 魚住駅は、JRの駅名と区別するために、正確には山陽魚住駅と言う。この魚住駅は、西江井ヶ島駅と同時に開設された。終戦直前の1945年(昭和20年)7月20日から営業を休止したが、2年後の1947年(昭和22年)11月15日に再開している。いずれにしても、国鉄(現・JR西日本)魚住駅の開設よりは古い。

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2019年7月14日 (日)

ふるさと江井ヶ島(15)

しろ【城】


 兵庫県の城の代表格は世界遺産でもある国宝・姫路城であり、明石市の城と言えば明石城で、あたり一帯は兵庫県立明石公園になっている。ところで、江井ヶ島にも城があった。魚住城である。今、魚住城跡には明石市教育委員会が説明板を設置しており、次のように書かれている。

 一 魚住城は南北朝時代に赤松氏の一族である魚住長範によって魚住町中尾に築かれた。
 一 天正六年(一五七八)、魚住頼治は毛利軍が三木城へ兵糧を運ぶ基地として西嶋の丘に柵を巡らし新しい城を構えた。天正八年(一五八〇)に、三木城の廃城とともに廃絶した。
 一 平成十年の発掘調査で魚住城の堀割の一部と考えられる遺構が見つかり、ここに城があったことが確認された。

 別所長治は、織田信長に叛いて毛利元就についたが、別所を攻める羽柴秀吉軍と三木合戦になった。別所氏についた魚住氏が、兵糧攻めにあっている友軍に兵糧物資を輸送するための補給基地としたのが魚住城である。
 江井ヶ島は前面に海があるが、山らしいものはない。魚住城は平城である。海路からの交通には恵まれているが、北に離れた三木城にどのように兵糧を運んだのだろうか。子供の頃には「魚住城から三木までトンネルが掘られていて、物資を運んだのだ」という説がまことしやかに流布しており、江井ヶ嶋酒造株式会社の敷地の西側、断崖のようになっているところがトンネルの入り口だという者もいたが、これは大人たちも信じている説だったのだろうか。今ではそんなことを信じている人はいない。
 説明板が設置されているのは住宅地の真ん中で、小さな児童公園になっているところであるが、筆者の記憶では、ずっと以前は、この地点より少し南の坂道に「魚住城跡」という木柱が立っていたように思う。発掘調査によって堀割の一部が発見されて、遺構の位置がずらされたのかもしれない。

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2019年7月13日 (土)

ふるさと江井ヶ島(14)

しょうわ【昭和】


 赤根川の河口の西側にあり、のちに白鶴酒造江井ヶ島支店となるのが昭和酒造株式会社である。白鶴酒造江井ヶ島支店となってからも、この酒蔵を「しょうわ」と呼ぶ続ける人がいた。
 白鶴酒造の『白鶴二百三十年の歩み』の巻末年表に次のようなことが書いてある。

 1927年(昭和2年)8月2日  昭和酒造株式会社設立(江井ヶ島)
 1947年(昭和22年)9月1日 嘉納合名会社、昭和酒造株式会社 合併
白鶴酒造株式会社に改称  資本金三六五万円
 昭和酒造というのが嘉納(白鶴)の子会社であるのか、別の資本かは明確ではないが、2社が合併して白鶴酒造になったという。その昭和酒造を引き継いだのが白鶴酒造の江井ヶ島支店の酒蔵であった。
 社史を読むと、昭和酒造がその当時の白鶴酒造のピンチを救ったというような記述もあった。

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2019年7月12日 (金)

言葉の移りゆき(435)

「完璧すぎる」というのは、どういう状況か


 「完璧」という言葉はありますが、完璧にものごとを運ぶことは、現実にはほとんどあり得ないことでしょう。完璧だと断じることには主観の問題も関わることです。
 スポーツの実況放送で、「完璧な投球で、バッターは手も足も出なかった」とか、「完璧なバッティングで、外野スタンドにホームランを打ち込んだ」とか言うことがありますが、どういう状況であれば「完璧」と言えるのかということに、基準があろうはずはありません。
 ところで、「完璧だ」というのと、「完璧すぎる」というのとでは、どちらが精度が高いのでしょうか。そもそも「完璧すぎる」という言い方は成り立つのでしょうか。
 小惑星探査機「はやぶさ2」が、小惑星「リュウグウ」に着陸したというニュースがありましたが、それを報じる記事にこんな表現がありました。


 砂や石を舞い上がらせるための弾丸を発射できたことも確認でき、採取に成功したとみられる。久保田孝・研究総主幹は「リハーサルじゃないかと思うほど、完璧すぎるぐらい完璧に動いてくれた」と話した。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年7月11日・夕刊、3版、1ページ、「テレビのおとも」、西森路代)

 実は、この記事は夕刊のトップニュースで、次のような見出しが付いていました。
 〈「はやぶさ2 再着陸成功 / 小惑星リュウグウ 地下の砂採取か / 「完璧すぎる」〉

 本文で書かれている「完璧すぎるぐらい完璧に動いてくれた」という表現を、短く言えば「完璧すぎる」になるのか、という疑問を持ちました。
 この表現では、「完璧」よりも「完璧すぎる」の方が精度は高いように思われます。けれども、「完璧すぎるぐらい完璧に動いてくれた」という表現では、「完璧すぎるぐらい」というのは修飾語に過ぎないと思います。
 リュウグウは直径約900メートルの小惑星だそうですから、それに着陸するのは至難のことでしょう。わずかの誤差でも生じたら、着陸はできないでしょう。だから、その着陸成功を「完璧」と表現するのは当然だと思います。「完璧すぎるぐらい完璧に動いてくれた」という喜びの言葉には実感がこもっています。
 それを報じる新聞見出しの「完璧すぎる」は、ちょっと行き過ぎではないかと感じたのです。

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