2018年8月16日 (木)

言葉の移りゆき(117)

内部で使うはずの「事案」という言葉

 

 8月15日に、「ひょうご防災ネット」からメールで、次のような文章が届きました。

 

 すでにテレビや新聞等で報道がされていますが、812日(日)に大阪府富田林警察署の留置施設から被留置者が逃亡する事案が発生しました。

 

 この件について、大阪府から兵庫県を通じて県内各市町村への注意喚起の協力依頼がありました。市民の皆様におかれましては、いつもにも増して、自宅等の戸締りを確実にしていただくとともに、不審な人物を見かけたら、すぐに110番通報をしていただきますようにお願いします。

 

 「事案」という言葉は、テレビ・ニュースなどで見る記者会見などで、これまでにも耳にした言葉です。けれども、なぜ「事件」でなく「事案」なのだろうと思います。「案」という文字が出てくることに違和感を感じていたのです。

 試みに小型国語辞典を見ると、『岩波国語辞典・第3版』『新明解国語辞典・第4版』『三省堂国語辞典・第3版』『現代国語例解辞典・第2版』『明鏡国語辞典』には出ていません。

 『広辞苑・第4版』には、次のように書かれています。

 

 (処理の対象とするしないにかかわりなく)問題になっている事柄そのもの。→案件

 

 ついでに「案件」を見ると、次のようにあります。

 

 処理されるべき事柄。議題とされる事案。「重要-を処理する」

 

 要するに、処理が終わっていないから「案」だと言うようです。事件が起きても、一定の処理が行われていない間は「案件」と言うのでしょう。

 この言葉は、組織の内部で使う言葉が、報道機関などを通じて一般社会に流れ出して、組織の側も一般向けに使ってもよい言葉だと考え始めたのかもしれません。

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2018年8月15日 (水)

言葉の移りゆき(116)

「くさい」という言葉の複合語

 

 「くさい」という形容詞は、鼻について嫌なにおいがするということが主な意味です。

 けれども、複合語として使う場合は、「焦げくさい」はにおいに関する言葉ですが、「邪魔くさい」「面倒くさい」「古くさい」「陰気くさい」となると、においのことではなくなります。それらに共通するのは、いかにもそれらしい感じがする、という意味でしょう。けれども、嫌な感じであることには変わりがありません。

 例えば、「おじんくさい」とか「年寄りくさい」とかは、老臭がするという意味よりは、老人っぽい行動や仕草や、ものの考え方などを指しているように思います。においのことに限定する場合は、「おじんくさい臭いがする」「年寄りくさい臭いがする」と表現するのが、私にとっての日常語の世界です。

 こんな記事を見ました。

 

 小6の娘から「パパったら何だかパパくさい」と言われるのだ、と40歳代後半の同僚が話す。「パパくさい」のアクセントが「低高高高低」なのだとか。ここにえも言われぬ残念さがあるような……。 …(中略)

 「くさい」には「いやなにおい」だけでなく、「いかにもそれらしい雰囲気がしていやな感じがする」という意味もある。もしかしたらオヤジくさいは、においだけではなく、その「生態」によるところ大かもしれない。「パパくさい」と可愛く言われているうちが花かもしれないね。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月18日・夕刊、3版、7ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 「パパくさい」も、私の日常語の感覚から言えば、(子どもの世界から離れて)いかにも父親っぽい言動などをしている、という意味です。記事で言うところの「生態」です。複合語として使われる場合は、「パパくさい」をにおいのことに限定する必要はないと思います。

 言葉の変化(変遷)を考えてみます。もともとは、「パパ」と「くさい」が別の言葉として使われて「パパは、くさい」であったのでしよう。この場合の「くさい」はにおいのことです。それが短く「パパ、くさい」となり、さらに短く(塾合して)、複合語としての「パパくさい」になったのではないでしょうか。

 このように考えなければ、「パパくさい」という複合語がにおいに限定して使われるということが説明できないように思えるのです。

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2018年8月14日 (火)

言葉の移りゆき(115)

番組欄のラジオ冷遇と、記事のいい加減さ

 

 災害が起こるとラジオの有り難さがわかります。けれども、普段はラジオを聴く人が少ないかもしれません。

 ラジオの価値は、災害時の放送だけに限りません。テレビが画面と音で即物的に表現するのに対して、音だけのラジオは想像力をかき立てる力を持っています。人間には創造力や想像力が必要だと声を大にして唱えても、テレビの画面や音に支配されている毎日では考える力もしぼんでしまうかもしれません。

 さて、新聞のテレビ欄に比べて、ラジオ欄は冷遇されています。例えば、5時間15分にわたるNHKラジオ第1放送の「ラジオ深夜便」の紹介は、こんな具合になっています。

 

 11.15 関西発深夜便 住田功一 列島エッセー▽アジア▽歌

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・夕刊、3版、7ページ)

 

 11.15 関西発深夜便 住田功一 くらしのたより街は生き▽日本の歌▽ことば選

 (読売新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・夕刊、3版、7ページ)

 

 たったこれだけの言葉で6時間近い番組の内容を紹介したことになるのでしょうか。ほとんど単語を並べているに過ぎないのです。この記事を初めて見た人は、番組を聞こうとする気持ちを持つでしょうか。

 駄弁を弄して視聴者を呼び寄せようとするような、テレビ欄の書き方とはまったく異なっています。ラジオを冷遇している、などという言葉で表現しても言い足りません。

 ところで、時々、ラジオ番組を紹介する記事が載ります。

 

 関西発ラジオ深夜便 ★NHK① 夜1115 日本列島くらしのたよりは、奈良市の話題を届ける。ほかに、明日の日の出などのコーナーを送る。アンカーは住田功一。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月10日・朝刊、13版、22ページ、「ラジオ」)

 

 わざわざの紹介記事ですが、テレビの場合なら、毎時の番組表に組み入れられるような文字数で、むしろそれよりも短い内容です。これでは番組全体の紹介にはなっていません。部分的な紹介ですらありません。「明日の日の出」というのは、札幌から那覇までの主要都市の日の出の時刻を並べあげるもので、たった2分間ほどでのものです。しかも、これは365日、毎日放送されているのです。わざわざ「日の出」のコーナーを紹介する必要はありません。番組を知っている人が読んだら、噴飯ものです。

 つまり、この記事を書いた人も、載せようと判断した人も、この番組を聞いたことなどない人でしょう。放送局の発表する番組表のうち、気の向いたごく一部をつまみ上げて、実にいい加減な記事を書いて載せているのです。ラジオ番組の冷遇はここまで進んでいるのです。

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2018年8月13日 (月)

言葉の移りゆき(114)

片言の文字遣いに馴らされてしまって

 

 (101)回に「固有名詞の『盛り合わせ』」ということを書きました。今回も似たような話題です。

 

 最近の教育のキーワードに「STEM(ステム)」がある。科学、技術、工学、数学の英語の頭文字を取った。AIをはじめ、テクノロジーがどんどん進化して新たな地平が生まれている。教育でもこの分野に力を入れて将来この道に進む人を増やそうというわけで、米国・オバマ前政権が打ち出した。要は、社会を変えるであろう最先端の分野、といえるかもしれない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月9日・朝刊、10版、12ページ、「ザ・コラム」、秋山訓子)

 

 「社会を変えるであろう最先端の分野」ということに異論はありません。けれども、「STEM」などという言葉を使って、それを「教育のキーワード」と言って良いのでしょうか。

 新しい言葉、それもカタカナ語やアルファベット略語をいち早く使うのは報道機関です。まるで時代の先端を歩んでいるかのように、何の疑いもなく、これまで使われていなかった言葉を平気で使います。大体は、欧米追随の言葉です。

 「STEM」は、日本の社会から生まれた言葉ではありません。筆者も「米国・オバマ前政権が打ち出した」ことがわかっていながら、無批判にこの言葉を読者に提示しています。教育に対する考え方が間違っていると言っているのではありません。日本語に対する認識がおかしいと思います。

 アメリカで生まれた「STEM」などという言葉を、日本の社会に押しつける必要はありません。古風に見えるかもしれませんが、科学、技術、工学、数学の頭文字を連ねた「科技工数」の方が、うんと落ち着いた言葉です。それを古風だと感じるとすれば、「STEM」などというアルファベットばかりの略語の洪水の中に、人々が導かれていってしまったからに他なりません。人々は、そんな片言の文字遣いに馴らされてしまって、古来の日本語を奪われつつあるのです。

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2018年8月12日 (日)

言葉の移りゆき(113)

「人々が言っている」言葉と、「報道が勝手に作る」言葉

 

 とかく新聞や放送の世界では、大袈裟な言葉が大好きです。一見すると、それはテレビに多いように感じますが、新聞とて負けてはいません。「〇〇の神さま」「〇〇の王者」「〇〇の聖地」、名人、カリスマ、レジェンド、巨匠、メッカ、……。なんでもないものに対してそんな称号を与えています。新聞や放送は、毎日毎日、そのような人や物を作り出しているのです。

 どのように作り出すか。それは一見、遠慮がちに、自然な趣を装います。そして、あっと言う間にその言葉を表に押し出すのです。

 その具体例です。奈良県大和郡山市に、金魚を数える人がいるという話が載っていました。

 

 「片方の手だけ4匹とか3匹という場合もあります。そんな時は、次にすくうときに6匹のせたり、7匹にしたりして、数を読みながら調整するんです」。秒単位の動きの中でそんなことまでしてるなんて、いやはや「神の手」と呼べそうな技だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月11日・夕刊、3版、4ページ、「まだまだ勝手に関西遺産」、小滝ちひろ)

 

 熟練した技かもしれません。これまでならば「熟練」とか「ベテラン」とかの言葉で表現していたのでしょう。金魚すくいの金魚の話ですから、郡山の地方色のある話題なのかもしれませんが、これが「遺産」とは、大袈裟な取り扱いです。

 本文では、〈「神の手」と呼べそうな技だ。〉と少し遠慮がちな表現ですが、見出しになると、堂々と〈金魚数える「神の手」〉となっています。この「神の手」は、「いわゆる」というような(遠慮がちな)意味のカッコではなく、その言葉を強調するためのカッコになっているように思います。こんな風にして、大袈裟な言葉は作られていくのです。

 世間の人が口を揃えて「あの人は名人だ」と言えば、それは世間からの評価です。けれども、この記事の場合は、記者が〈「神の手」と呼べそうな技だ。〉と書き、見出しでは〈金魚数える「神の手」〉と断言しているのです。これは、報道機関が勝手に作り上げた言葉です。そして、世間には、その言葉が広がっていくのです。

 その広がり方も、人々がその言葉を認めて使い始めるということではないようです。新聞や放送がその大袈裟な表現を繰り返したり、それに輪をかけたような表現をして、定着させていくということが多いように思います。

 報道機関は、言葉に対して、もっと控えめで謙虚な姿勢を持たなければならないと思います。客観報道などという言葉が死語になって、書く人の言いたい放題になってしまってはいけません。

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2018年8月11日 (土)

言葉の移りゆき(112)

業界用語を、一般の人の日常生活に引っ張り出す人たち

 

 「ビジネスプランのフィジビリが、コンサバ過ぎると言われたので、リバイズしたものをマージしてデリバラブルにした」

 マーケティングやコンサルティングの業界では、こんなせりふが日常の会話に飛び交うとか。この意味、わかりますか?

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月11日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 「この意味、わかりますか?」と尋ねられても、わかりません。わかるはずがありません。

 そして、もうひとつ、わからないことがあります。どうして、このような記事を書くのでしょうか。その理由が、わかりません。

 どのような業界にも、業界用語があるのは当然でしょう。「マーケティングやコンサルティングの業界では、こんなせりふが日常の会話に飛び交う」としても何の不思議もありません。その業界では、それが「日常の会話」なのです。

 わけのわからない業界用語を、一般の人の目に触れさせようと画策するのは放送や新聞・出版などに携わる人のやることなのです。まるでそれが報道の正しいあり方であるかのような装いで、一般の人の目に触れさせようとします。その結果、いくつかの業界用語が、一般の日本語の中でも使われるようになることがあります。それは、その言葉を報道した人の手柄になるのでしょうか。

 業界用語を無理に日本語全体の中に注入しようとすることは止めた方がよいと思います。わざと画策しなくても、望ましい言葉であれば、自然と日本語全体の中で使われ始めることがあるでしょう。けれども、その言葉は、片言のように聞こえるカタカナ語ではありません。

 業界用語は、業界の中にいる人たちが意志疎通のために使う言葉のはずです。その業界の人であっても、一般の人を相手にして、こんな言葉を使うことはないでしょう。業界内の能率のためにも、特殊な言葉が使われてもおかしくはないと思います。

 けれども、その内輪だけの言葉を、広く報道するのはどういう魂胆に基づくのでしょうか。その言葉を日本語の中に定着させてやろうと思っているのでしょうか。それは、思い違いです。業界用語は業界内で命脈を保っていればよいのです。

 不思議なことに、この同じ記事の中には、次のような表現があります。

 

 feasibility study(実現可能性の予備調査)をフィジビリ、conservative(保守的な、控えめな)をコンサバという具合に、外国語を省略することもある。この時点で、外国語は立派な日本語に変身している。いくらカタカナを使って外国語風を装っても、ことばはすれ違う。しかし、「うそっぽい話も外来語を交えると、なぜか本物らしく聞こえてしまう」と小嶋さん。

 (出典は、上記に同じ)

 

 「この時点で、外国語は立派な日本語に変身している。」という筆者の見解と、「うそっぽい話も外来語を交えると、なぜか本物らしく聞こえてしまう」という引用文。引用文は、筆者が同感するから引用しているはずです。このような考え方の人が、新聞を作っているのかと考えると、空恐ろしくなります。NIEの活動によって、新聞を教室で使うことにも警戒心を持たなければならないでしょう。

 この記事の見出しは〈飛び交う業界用語にやれやれ〉となっています。やれやれと思うような言葉を報道する価値はありません。

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2018年8月10日 (金)

言葉の移りゆき(111)

ヒーロー主義と商業主義の高校野球

 

 ほぼ50年前の高校野球の報道に比べて、現在の紙面は豹変してしまっています。決勝戦を報ずる2つの紙面からも、それは感じ取れます。

 

 試合は津久見の先攻で始り、二回表四番吉近が四球を選び足立の犠飛で生還して先取点をあげ、さらに三回表にも三本の長短打と一失策で2点を加えた。柳井は八回裏、敵失に乗じて二本の安打をあびせ、1点を返し、最終回にも一死一、二塁と必死に迫ったが、津久見・水江投手を中心とした堅い守りにはばまれて無念の涙をのんだ。

 (朝日新聞・東京本社発行、1972年8月23日・夕刊、3版●●、1ページ)

 

 野球はチームプレイであることをきちんと理解して、記者は文章を綴っています。現在の紙面のように、試合経過はそっちのけで、特定のイニングの、特定の選手のはなばなしい活躍のみを報じる姿勢とはまるで違っています。

 この記事の見出しは、〈津久見が初優勝 / 3-1 柳井の追撃及ばず〉です。ヒーローがいたとしても、チームの陰に隠れています。

 その2年後の高校野球の決勝戦を、見出しだけ引用します。

 

 銚子商、出場8回目の快挙 / 6回、驚異の集中打 / 二死から一挙に6点 / 土屋完封 初陣防府商も健闘

 (朝日新聞・東京本社発行、1974年8月20日・朝刊、13版、15ページ)

 

 この記事には、〈救われた土屋 / バックスが強力な援護〉という見出しの文章と、〈敗戦にも淡々 / 防府商の井神投手 / 「欲持ったのが失敗」〉という見出しの文章とがあります。見出しだけで見ても、高校野球の純真さが読みとれます。チームとして戦っている様子も濃厚です。たった一人の選手をヒーローにまつりあげる、現代の記者たちとは精神が違うように感じます。

 この見出しには、投手の名前は出てきますが、打者を大袈裟な扱いにしていません。

 偶然かもしれませんが、この4つのチームはすべて公立高校です。学区で区切られた高校生でチームを編成して、教育の一環として戦っています。

 

 社会の出来事は、どんなに重要なことであっても、その場に記者がいなければ、伝聞の記事にならざるを得ません。それに対して、スポーツの報道は、出来事が起こるはずの場所へ記者が大挙して押しかけていますから、いくらでも記事が書けるようになっています。スポーツ記事の大袈裟さは、これからも拡大していくのでしょう。

 そして、スポーツが商業主義に組み入れられてしまっています。資金のある学校が強くなり、それをもとに発展を遂げていくことになります。新聞は、そんな仕組みに加担していることに気付いていないはずはありません。

 

 輝け、大垣日大! 第100回全国高等学校野球選手権記念大会

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年8月9日・朝刊、13版、16ページ、日本大学の広告)

 

 1ページの紙面の3分の1ほどを占めるカラー広告です。大会の途中に、このような激励広告が載っています。広告を載せるだけの効果があると判断しているのでしょう。公立学校にはこのようなことができるはずはありませんし、そんなことをする必要もないでしょう。

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2018年8月 9日 (木)

言葉の移りゆき(110)

日本語を「ミミック」する表現

 

 昔、子どもの頃に、短くなった鉛筆を使うための、簡単な補助軸があって、使えなくなる寸前の短さまで使い続けたことがありました。ものの乏しい時代の、懐かしい思い出です。次の記事で紹介されているのは、同様のものの豪華版のようです。

 

 ミミックは、短くなった鉛筆を快適に使うための鉛筆補助軸だ。真鍮製の先端部分に、鉛筆を入れて固定すれば、全長3センチほどの鉛筆でもしっかり握れ、ストレス無く使うことができる。 …(中略)

 手作りのため、アイボリーと黒のマーブル柄は1本ずつ微妙に違っていて、同じものはないというプレミアム感もうれしい。 …(中略)

 ミミックとは、英語で「擬態者」という意味。つまりこの製品は、鉛筆やボールペンを万年筆に擬態させているのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月24日・朝刊、13版、26ページ、「そばに置きたい」、納富廉邦)

 

 「ストレス」という言葉は深い意味を持つ言葉です。「ストレス無く使う」というのは、短くなった鉛筆をイライラせずに使うということでしょう。「プレミアム感」というは、同じものは他にないという嬉しさのことなのでしょう。

 日本語の中に、やや大袈裟な外来語を使うことによって、いかにも優れた品物であるということを、言葉の上で擬態させているように思われます。筆者は、ミミックという商品にふさわしい紹介文を書こうと心がけたのでしょうか。

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2018年8月 8日 (水)

言葉の移りゆき(109)

東京で勤める、東京に勤める、東京都に勤める

 

 「以前、東京で勤めていた」という表現があります。その場合、「東京で勤める」と「東京に勤める」とはどう違うのでしょうか。「で」と「に」という助詞だけの差です。

 「東京で勤める」は勤め先が東京であったというだけで、勤め先がどういう会社や官庁であってもよいと思います。「東京に勤める」は、勤め先がその会社の東京本店や支店であるかもしれませんが、ことによったら東京都庁であったかもしれません。「東京都に勤める」は、東京都庁である可能性が大きいだろうと思います。

 さて、次の場合は、どこに勤めていたのでしょうか。

 

 以前、「ビール王国」ドイツに勤務していた時のこと。ロシアのプーチン大統領(65)がまだ30代の頃に通ったという旧東独ドレスデンのバーに行ってみた。

 (毎日新聞・大阪本社発行、2018年6月23日・夕刊、3版、9ページ、「憂楽帳」、篠田航一)

 

 このコラム欄はどういう立場の人が書くかということとは無関係に、この文を読んでみます。筆者は、「ドイツで勤務していた」のではなく、「ドイツに勤務していた」のです。しかも「ビール王国」という修飾語に引かれて「ドイツ国に勤務していた」という印象が強くなります。「で」という助詞一つで、筆者は国レベルの話をしているような気分に引き入れられます。

 この文章は、この後、プーチン氏が酒を傾けながら、客の様子をじっと観察していたという話になっていきます。

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2018年8月 7日 (火)

言葉の移りゆき(108)

ごちゃ混ぜ日本語

 

 新聞は、一部の編集者が勝手な言葉遣い(あるいは表記)を用い、それがいかにも先駆的な表現であるかのように誤解している面があると思います。新聞が日本語を壊したり、あらぬ方向へ誘導するような働きをしてはいけません。

 

 米国と中国の貿易摩擦が激しさを増している。第2次世界大戦前の保護主義政策の応酬を思い起こさせるような事態だ。世界は過去に逆戻りする……「バック・トゥ・ザ・近代?」なのか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年7月11日・朝刊、13版、13ページ、「耕論 オピニオン&フォーラム」)

 

 このページの見出しは〈バック・トゥ・近代?〉です。このページの趣旨は、わずか2行ほどの前書きでじゅうぶん理解できます。そして、3人の意見をそれぞれの聞き手が文章をまとめています。3人の意見のそれぞれに付けられた見出しは〈保護主義台頭 必然の流れ〉、〈自由貿易へ揺り戻し来る〉、〈日本の姿勢 問われる局面〉です。記事の中には「バック・トゥ・ザ・近代?」などという言葉は、どこにも出てきません。

 いい加減だなぁと思うのは、大きな見出しは「バック・トゥ・近代?」であり、リード文は「バック・トゥ・ザ・近代?」であり、イラストには「BACK ←…TO THE KINDAI」の文字が書き入れられています。「ザ」の有無、「?」の有無など、気まぐれのようです。

 それよりも何よりも、どうして「バック・トゥ・ザ」という外来語と「近代」という日本語とを混在させるのか、編集者の趣味以外の何ものでもないでしょう。見出しとリード文が、一ページ全体の中で浮き上がってしまって、3人の意見を茶化しているようにも見えます。

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