2018年12月12日 (水)

言葉の移りゆき(235)

「枕詞」「形容詞」から「冠」へ

 

 例えば「世界のファッションの発信地、パリ」などと言う場合の、修飾語である部分「世界のファッションの発信地」を、「枕詞」とか「形容詞」と言うことがありました。前に置かれた言葉は「パリ」を称えて説明しているのですが、厳密な意味での枕詞でもありませんし、形容詞でもありません。

 枕詞は、後ろの言葉にかかっていくのですが、和歌に見られる修辞法で、5音の長さを基本としています。散文に使われて音数の制約もない言葉遣いを「枕詞」というのはふさわしくありません。

 形容詞は、品詞を表す言葉です。後ろの言葉にかかることはありますが、形容詞(性質・状態、感覚・感情などを表す言葉)でないものまでも「形容詞」と称するのは行き過ぎです。

 近頃は、そのことに気付いたからかどうか知りませんが、別の言い方を目にするようになりました。

 

 むのが、89歳になっていた2004年、退社を「失敗だった」と電話で告げた。「今まで『報道責任をとって辞めた』と冠付きで紹介されていい気になっていたが、こっぱずかしい」

 (朝日新聞・大阪本社発行、201810月2日・夕刊、3版、5ページ、「むのたけじ をたどって」、茂木克信・大塚晶)

 

 魚と野菜を扱うひとつの市場が「世界の築地」と冠をつけて呼ばれた不思議。人、物、情報……何が原動力となって人々をひきつけたのか、今後はどう受け継がれていくのか。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181118日・朝刊、10版、31ページ、伊藤恵里奈)

 

 枕詞とか形容詞とか言うよりは望ましいと思いますが、「冠」とは何と大袈裟なという気持ちがしないでもありません。最上級の褒め言葉のように思われるからです。

 「冠」でもなく、「枕詞」でも「形容詞」でもなく、ふさわしい言葉があるかと尋ねられたら、私は「修飾語」でよいと思っています。〈「報道責任をとって辞めた」という修飾語を付けて呼ばれる むのたけじ〉、〈「世界の(市場)」という修飾語を付けられた築地市場〉。それで良いではありませんか。

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2018年12月11日 (火)

言葉の移りゆき(234)

「置き勉」では何も解決しない

 

 昔、「別勉」という言葉を初めて耳にしたときは、違和感を覚えました。別勉というのは、学校とは別に、塾などに通って勉強することのようでした。学校教育を軽視するような響きがありました。

 小学生や中学生のカバンが重くなっています。教科書が大型化していることと、副教材に多様なものを指定するとが大きな理由です。どうして教科書とノートだけで、あるいは厳選したごく僅かの副教材を加えるだけで、授業を展開できないのでしょうか。教員を経験したひとりとして、最近の副教材の氾濫ぶりに腹立たしい気持ちを抱いています。

 それに関連して、こんな記事を読みました。

 

 「脱ゆとり教育」によって教科書が分厚くなるなど子どもたちの通学かばんやランドセルが重くなっている。つらい実態を緩和しようと、教材を教室に一部置いて帰る「置き勉」を認める学校が徐々に増えている。 …(中略)

 置き勉とは「置き勉強道具」の略語。登下校の荷物を軽くするため勉強道具を持ち帰らず、学校に置きっぱなしにすることだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年6月1日・夕刊、3版、13 ページ、山下知子・峯俊一平)

 

 「置き勉」は、「置き勉強道具」の略語だと言います。そもそも「置き勉強道具」という言葉があることが不思議です。家庭での学習に不都合をもたらします。学校での指導で十分だという自信の表れであるのなら歓迎ですが、そんなことではないでしょう。教科書とノート以外のものを減らす工夫をしないで、「置き勉」を認める方向へ進むのは、学校教育の本末転倒であるようにも思えます。「置き勉」というやり方では、学習指導の方法の改善には結びつかないと思います。教科書とノートだけ持ち帰れば予習・復習ができるというのなら、それ以外の教材は格別に必要だということにはならないのではありませんか。教材を厳選すべきです。

 この記事で、「子どもに関わる消費ビジネスが専門」という大学教授が存在することを知りました。そんなことを専門にする研究者がいることも驚きですが、そんな消費ビジネスがある限り、教材の売り込みはこれからも拡大していくのでしょう。

 言葉に関して言うと、「〇勉」という言い方の「勉」は、「勉強」を短く表現する言葉であるはずです。「勉」を「勉強道具」の略とするのは乱暴です。せめて「置き教材」ぐらいにすべきだと思います。「置き勉」という言葉では、勉強しようとする姿勢や意欲までも学校に置き去りにして、校門を出ていく児童・生徒の姿が浮かんできます。

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2018年12月10日 (月)

言葉の移りゆき(233)

開拓村かと思ったが…

 

 「江戸開府」という言葉があります。江戸に幕府が置かれ、江戸の町が開かれたことを表しています。

 学校の「開校」や「開学」は、それが初めてつくられたことを意味しています。前身となるものがある場合は、その前身の創立が「開校」や「開学」になるのでしょう。

 それでは、次のような例はどう考えればよいでしょうか。

 

 朝日村は20日、開村130周年の記念式典を村農業者トレーニングセンターで開いた。村と近隣市町の関係者、住民ら約150人が出席。昭和と平成の2度の大合併で、ともに自立の道を選んだ村の歩みを振り返った。 …(中略)

 朝日村は1889(明治22)年、西洗馬村、小野沢村、針尾村、古見村が合併して誕生。人口は4609人(5月1日現在)

 (信濃毎日新聞、20181021日・朝刊、31ページ)

 

 見出しは「開村130周年 朝日村で式典」となっていましたから、見出しを見たときは、開拓か何かで新たに村が誕生してから130年が経ったのかと思いました。実際には、4つの村が合併してから130年ということです。

 一般には、町制施行〇〇年とか、市制〇〇年と言いますが、朝日村の場合は、村が合併して新しい村になったのですから、村制〇〇年とは言えなかったのでしょう。それでも、それぞれの村はそれ以前に始まっているのですから「開村130年」はそぐわない気がします。「朝日村発足130年」とか「合併130年」とか言うのが普通でしょう。

 朝日村は、昭和と平成の2度の大合併の時代に左右されず、独立した歩みを続けてきたそうで、賞賛したいと思います。記事によれば、歌手・俳優の上條恒彦さんがこの村の出身だそうです。

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2018年12月 9日 (日)

言葉の移りゆき(232)

小さな大根の「たたずまい」

 

 「たたずまい」という言葉は、漢字で書くと〈佇まい〉と書きます。「たたずまう」という語の連用形が名詞になったのが「たたずまい」です。

 「たたずまう」の旧仮名遣いは「たたずまふ」です。「たたずむ」という言葉に、接尾語「ふ」が続いた言葉です。「ふ」は例えば「住まう()」「散らう()」などに見られるように、動作・状態などが続いていることを表す言葉です。「たたずまう」というのは、じっと立ち続けている、立ち止まり続ける、という意味です。

 したがって「たたずまい」は、立ち続けている様子、存在し続けているものの姿・有様、を表す言葉です。けれども、この言葉は何に対してでも使ってよいという言葉ではないと思います。「宿場町のたたずまい」「山のたたずまい」「雲のたたずまい」「人のたたずまい」などと使ってきました。ときには「詩のたたずまい」という使い方もありましたが、それは詩で表現されている全体の有りようを意味していると思います。

 そんなことを述べてきたのは、亀戸ダイコンを紹介した文章の表現が気になったからです。

 

 いまの江東区の亀戸香取神社周辺で栽培が始まり、この名がついた。根は最も太い部分でもゴルフボール大という華奢なたたずまい。透けそうなほど真っ白な茎が特徴だ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181110日・朝刊、be7ページ、「とれたて菜時記」、篠原久仁子)

 

 「たたずまい」という言葉を〈姿・有様〉という意味で使うなら、何に対してでも使えることになりますが、小さなものに使うのはかまわないのでしょうか。

 古風な言葉であったり、ちょっと気の利いた言葉であったりして、普段あまり使っていない言葉を使う場合、ちょっと規格はずれの使い方をしても見逃されて、それを真似る表現が広がっていく、というようなことにもなりかねません。ことわざや慣用句の誤用の中にも、そのようにして始まったものがあるのかもしれません。

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2018年12月 8日 (土)

言葉の移りゆき(231)

AI記者の書く記事

 

 言葉は人と人とをつなぐものです。言葉によってコミュニケーションが生まれます。マスコミと言われる巨大組織も、人間によって成り立っています。そのマスコミからの情報を受け取るのも人間です。

 こんな記事がありました。

 

 新聞社やテレビ局で、人工知能(AI)の活用が始まっている。各社の取り組みと課題は。

 今夏の全国高校野球選手権記念西兵庫大会決勝。神戸新聞社はツイッターで、記事を配信した。

 「明石商は同点の7回、二死二塁から3番田渕翔のセンターヒット、なおも二死二塁から4番右田治信のレフト二塁打などで計3点を挙げ、逆転した」

 AIを活用して記事をつくる「ロボットくん」が書いたものだ。地方大会のデータや、過去に記者が書いた同種の記事などを「学習」。試合データを読み込ませると1秒あまりで「執筆」する。 …(中略)

 社内では「そつなくまとまっていた」という評価の一方、「試合の熱量や雰囲気が伝わらない」という声も。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月1日・朝刊、13版、29ページ、末崎毅・丸山ひかり)

 

 記事ではこの他に、NHK、日本経済新聞社、信濃毎日新聞社、朝日新聞社の取り組みが紹介されています。

 AIは試合経過については、そつのない文章を書けるでしょう。けれども「試合の熱量や雰囲気」はひとつひとつの試合に独特です。AIがさまざまな観戦記を学習して記事を書くことになれば、さまざまな観戦記を混ぜ合わせたような文章が生まれてくることでしょう。

 それは、日本全国が同じようなチェーン店で覆い尽くされて、それぞれの地方の味わいが無くなっていくことと同様なことが、文章表現においても現出することになるのでしょう。

 ふだん、野球は人間ドラマだと言っている新聞、高校野球は人間教育だと言っている新聞。その新聞が、人間(記者)抜きで記事を作ることに何のためらいもないのでしょうか。

 AI活用だとか、省力化だと言えば免罪符になるような風潮がますます蔓延しているように思われてなりません。

 「遺伝子組み替え食品は使用しておりません」という文字がスナック菓子などの説明に書かれています。新聞にも「本日の記事はAIによる作成はありません」と書かれる時代が来るかもしれません。どの記事がAIによって作成された記事であるかを明示しなければならないと思います。

 

 前回と同様に、もうひとつ、恐ろしい問題があります。この記事によると、公立はこだて未来大の教授が、AIで小説を書かせるプロジェクトに取り組んでいるそうです。たとえ骨子だけを作って、それに人間が手を加えていくことであっても、人間の営みをAIが左右していくことになります。

 学問と学問の間の「学際」が話題になりますが、ほんとうの学際は、文系(とりわけ哲学や文学)と理系(情報科学)の間で必要だと思います。理系の独走(あるいは暴走)を傍観しているわけにはいかないと思います。

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2018年12月 7日 (金)

言葉の移りゆき(230)

心のこもらない戦術と、心のこもらない創作

 

 人工知能(AI)が進歩して、囲碁や将棋で専門家をうち負かすほどのものが出来ていると言います。AIの進歩には感心します。AIと棋士の対戦は、AI技術者の宣伝にはなっていますが、そんなことまでしなくてはならないのでしょうか。

 囲碁や将棋のAIは戦術の研究でしょうから、人間の心を存在させなくてもよいのでしょう。けれども、AIが、人間の心を表現する俳句の世界に侵入してくると、大きな疑問を感じます。

 大きく紙面を割いた、こんな記事がありました。

 

 かなしみの片手ひらいて渡り鳥-。膨大な古今の俳句の手法を学んだ人工知能(AI)が、着実に力を付け、俳人をうならせる句を詠みつつある。五感と語感を研ぎ澄まし、自然美や喜怒哀楽を五・七・五で表す伝統文化の世界に、AIがどう挑んでいくのか。

 札幌市にある北海道大調和系工学研究室で、大学院情報科学研究科の川村秀憲教授(45)がパソコンを操作すると、一瞬で画面が文字で埋め尽くされた。ひとつひとつが俳句だ。「1秒間で40句を詠みます」と川村教授は笑顔を見せる。 …(中略)… 

 研究を知ったテレビ局に人間との対決を打診され、研究を本格化させた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月3日・夕刊、3版、1ページ、藤家秀一)

 

 テレビだ、対決だ、宣伝だという次元でこの研究が行われているとは思いませんが、1秒間に40句を詠むことにどんな意義があるのでしょうか。AIが仮に人間の感性や独創性を備えるまでに至ったとしても、それは機械の作った俳句であって、人間が作ったものではありません。囲碁や将棋の戦術は人間の心が欠如していても練り上げることができます。俳句は人間の心が欠如していては、俳句とは言えません。俳句とは何なのかという根本問題をないがしろにしてAIが進化しても、機械の進歩でしかありません。

 

 もうひとつ、恐ろしい問題があります。この記事によると、AIが「人間の感性で句を選ぶ」というのが次の課題だと書いてあります。人間の作った俳句を選別して優秀作を選ぶというようなことが、AIにできるのでしょうか。仮に、AI技術者が「できた」と言った時点で、それに喝采する人たちがいるはずです。

 これまでも話題になってきましたが、生身の受験生が一生懸命になって書き上げた文章(記述式の解答や、小論文など)を、機械で採点するという提案がありました。「AIが人間の感性を持って、文章に優劣を付けることが可能になった」と、誰かが宣言した段階で、実際にそのような採点が行われて、合否判定の資料が作られるようになるのです。人間を機械が判定するという世の中が到来してもよいのでしょうか。それを恐ろしいことだと感じないような人間が、この世に大勢、既に存在してしまっているのかもしれません。

 AIの俳句のことを、こんなに大きな紙面で報じたのは、新聞社の判断です。このことと表裏一体をなすような記事を、しばらく前の紙面で目にしました。それは、次回で書くことにします。

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2018年12月 6日 (木)

言葉の移りゆき(229)

長文の問題点

 

 谷崎潤一郎には長文があることで知られています。文庫本で1ページの中に一つの文が収まりきらないという長文もあります。

 長文は、曲折した思いを述べたりするときには効果があると思いますが、一般には読者を迷わせます。現今の作家は長文を書くことが少なくなったと思いますが、例外もあります。こんな文がありました。(格別に長いというわけではありませんが…。)

 

 母親の介護をきっかけに東京暮らしを引き揚げ、築123年の無人の実家に46年ぶりに舞い戻り、コシヒカリの本場の新潟県の村で独り暮らしをするようになった男性の知人宅を訪れた際に、飯炊きだけはちゃんとやるようにしている、と琺瑯の鍋で炊いたご飯と生卵、わかめの味噌汁という簡素な昼食が、すこぶる充実して感じられたことも影響している。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181110日・朝刊、be7ページ、「作家の口福」、佐伯一麦)

 

 長文になると、主語-述語の関係が複雑になります。修飾語-被修飾語の関係も同様です。その他、あれこれと煩わしさが生じます。煩わしさというのは、筆者にとってということではなく、読者にとってです。

 引用した文の前に、これと同量程度の文があります。それは5文に分かれています。この長文を読み始めて、「引き揚げ」、「舞い戻り」、「独り暮らしをする」の主語がどうも筆者自身でないと勘づくのですが、断定できないままに「男性の知人宅」という言葉にぶち当たります。そうすると、そこまでの主語は「男性」だろうと思われてきます。ところが、「男性」で終わらずに、その男性の「知人」のことなのだろうかと迷います。

 「男性の知人」という「の」は一般に連体格ですが、ここでは同格で使っているのだろうという推測も必要になってきます。

 文も捻れています。「男性の知人宅を訪れた際に」、筆者はどうしたのでしょうか。たぶん「すこぶる充実して感じられた」という言葉に対応しているのでしょう。けれども、それはちょっと飛躍しています。

 「男性の知人宅を訪れた際に」、「(ご飯と生卵、わかめの味噌汁という簡素な昼食を)いただいた」のでしょうが、その述語は省略されています。「……際に」「……をいただいて」「……充実して感じられた」はずです。述語を一つ省略すると、文の据わりが悪くなります。

 このような文は、国語の教材として、文の仕組みを考えさせたりするときの材料になることがあります。けれども、国語教育では、問題のある文章について考えさせたりすることよりも、正しく、望ましい文章を多く読ませる方がよいと、私は考えています。

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2018年12月 5日 (水)

言葉の移りゆき(228)

10分は消毒」の謎

 

 人間は間違いをおかす動物であり、新聞も間違った表現をすることがあります。もし、記事に間違いがあればまちんと訂正すべきであり、また、間違いを指摘した人に対してはきちんと回答をすべきであると思います。

 さて、「まず手洗い■吐いたもの処理後 10分は消毒」という見出しの記事がありました。

 「10分は消毒」とはどういう意味でしょうか。「10分は」というのは〈少なくとも10分以上は〉という意味でしょう。見出しだけを見たのでは、どういう消毒の仕方かはわかりません。普通に考えれば、煮沸を10分以上にわたって行うのならわかりますが、消毒液を使う場合は10分間も消毒し続けるということがあるのでしょうか。

 記事を読んで、この見出しのもとになった表現を探してみます。ノロウイルスを流行させないための対策について書いた記事です。短い記事ですから、見出しと関係のある表現は、次の部分しかありません。

 

 重要なのが、感染が疑われる人が吐いたものの処理だ。大量のウイルスが含まれる可能性があり、飲食店の衛生対策をサポートするダスキンの小林英明さんは「速やかな処理が感染を防ぐ」。正しい方法で拭き取った後、さらに10分、消毒することがポイント。消毒を怠ると、乾燥後に飛散することもある。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181113日・朝刊、13版、29ページ、野村杏実、高橋健次郎)

 

 記事の中で、「10分」という時間はどういう意味を持っているのでしょうか。「消毒を怠ると、乾燥後に飛散する」とありますが、「10分」の根拠は示されていません。それをさらに見出しで「10分は」〈少なくとも10分以上は〉としたのはなぜでしょうか。

 ここからは、私の勝手な推測です。記者は「正しい方法で拭き取った後、さらにじゅうぶん、消毒することがポイント。」と書いたのではないでしょうか。その「じゅうぶん」を「十分」と書いていたかもしれません。「十分」を誰かが「10分」と書き改め、最終的に時間の長さだと判断してしまった……。

 参考として、ダスキンのホームページを見ました。次のような表現がありました。

 

 汚物を取り除いた床面をペーパータオルで覆い、ペーパータオルが十分濡れるよう消毒液を注ぐ。そのペーパータオルを二次回収袋に入れたら、新たに消毒液に浸したペーパータオルで拭き、その後水拭き。拭き取ったペーパータオルも二次回収袋に入れる。

 

 ここには「十分」という言葉が使われていますが、10分にわたる長時間をかけて消毒するとは書いてありません。

 上記の新聞記事には、写真と説明が加えられています。その中に、次の言葉があります。

 

 ④床に再度キッチンペーパーを敷いて消毒液をかけ、10分間おいてから同様に捨てる

 

 この説明文の「10分間おいてから」という表現も、記事の本文に基づいて、辻褄合わせをした表現のように感じられます。消毒液をかけてから10分間も放置するという消毒方法があるのでしょうか。もし、あるのなら、そのような消毒方法があるということを強調して知らせなくてはなりません。

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2018年12月 4日 (火)

言葉の移りゆき(227)

仮名が大好きな博物館

 

 神戸市埋蔵文化財センターで「神戸はかつて焼き物の里だった~トウバンケイスエキの世界~」という企画展が開かれています。「トウバンケイスエキ」とは東播系須恵器だそうです。東播というのは播磨国の東部のことです。

 熊や猪をクマ、イノシシと書くのは生物学では当たり前のことになっていますが、考古学でもこのような書き方を始めたのでしょうか。漢字で書く方がわかりやすいと思いますから、展覧会のタイトルをこのようにした理由がわかりません。

 同様のことが近隣の館でも行われています。こんな記事がありました。

 

 大きなカマで狩りをする姿から「強い」「かっこいい」というイメージを持たれるカマキリ。だが、それだけではない多彩な姿を知ってもらおうと、企画展「さいきょうのかまきり展」が、伊丹市昆陽池3丁目の市昆虫館で開かれている。来年1月14日まで。 …(中略)

 「『最強』や『最恐』など、来館者それぞれの『さいきょう』を自由にイメージしてほしい」と担当学芸員の長島聖大さん(39)。「鳥に補食されたり、ハリガネムシに寄生されたりするなど、弱い一面も知って」と言う。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181127日・朝刊、「神戸」版、13版△、27ページ、大木理恵子)

 

 「かまきり」は平仮名でよいでしょう。ところが、「さいきょう」という言葉を見て、私は「最強」という言葉ぐらいしか思い浮かびません。「最恐」という言葉もあるのかと教えられますが、その次は浮かんできません。

 「さい」が音読だとすれば「きょう」も音読でしょう。「最恐」に近いのは「最脅」かもしれませんが、日常語としては使いません。「最凶」「最狂」「最競」「最驚」「最叫」「最響」「最協」「最恭」「最教」「最鏡」「最境」……と、思いつくままに並べてみても、日常生活で使う言葉ではありません。

 「来館者それぞれの『さいきょう』を自由にイメージしてほしい」というのは、無理な注文ではないでしょうか。「さいきょう」という言葉を選んだということは、あるメッセージを設定したはずですが、来館者にそのメッセージは伝わるのでしょうか。

 やっぱり、企画のタイトルは、そのテーマを明確に表す表記が望ましいと思います。

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2018年12月 3日 (月)

言葉の移りゆき(226)

「ネタバレ」と「ネタバラシ」

 

 「ネタ」というのは「たね()」を逆さにした言葉です。この言葉の意味は、『三省堂国語辞典・第5版』によれば、「①たね。材料。②証拠。」とあります。簡単な言葉の置き換えですませています。用例はただ一つ、「- は上がってるんだ。」とあります。

 「ネタバレ」という言葉を聞くことが多くなってきました。「バレ」というのは「ばれる」という動詞の連用形で、それが名詞として使われているのでしょう。同じ国語辞典で「ばれる」を見ると、「①あらわれる。露見する。②〔釣りで〕一度はりにかかったさかながにげる。」とあります。ここでも用例は一つ、「秘密が -」とあります。

 この二つを結び付けると、「ネタバレ」とは、たねや材料が露見する(あらわれる)、証拠があらわれる、という意味になりそうです。

 「ネタバレ」の一例として、新聞記事を引用します。

 

 エンターテインメントの世界で、「ネタバレ禁止」の仕掛けが思わぬヒットにつながっている。日常的に何でも書けるSNSの時代。書きたいのに詳しく書けない、という受けての歯がゆさが、逆に熱気を帯びて拡散されるからだろう。 …(中略)

 ネタバレを気にして内容にはあまり触れず、とにかくすごい、すごいと興奮気味に書く。その異様さが気になり劇場に行った私も、すごい、すごいと薦めて回ることになり、それが妙に楽しかった。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181128日・夕刊、3版、8ページ、「葦 夕べに考える」、山崎聡)

 

 「ネタバレ」というのは、上記のような、たねや材料が露見する(あらわれる)、証拠があらわれる、という意味ではなさそうです。

 「ばれる」は自動詞で、その他動詞は「ばらす」と考えるのがよいでしょう。「ネタバレ」というのは、小説、演劇、映画、テレビなどで、進行上の仕掛け、筋書き、結末などが暴露されてしまうことのようです。だから「ネタバレ禁止」などという措置が取られて、それがかえって作品のヒットにつながっているというのでしょう。

 自動詞・他動詞ということから言えば、自然と露呈してしまう「ネタバレ」もあるでしょうが、意図的に行う場合は「ネタバラシ」と言うべきだと思います。

 国語辞典の「ネタ」や「ばれる」の説明が簡単なのは仕方ないとして、しかし、「ネタバレ」もしくは「ネタバラシ」という見出し語も必要な段階に来ているように思います。

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