2019年5月25日 (土)

言葉の移りゆき(399)

東京人の文章

 新聞記者といえども、東京人は、東京以外の地域に住む人の心がわかっていないのではないか思うような文章に、ときどき出合います。
 これも、その一つです。途中に、デカルトの言葉「われ思う、ゆえにわれあり」が引用されていますから、「思うたい、だけん、あるばい」はそれを九州の言葉で言ったもののようです。それは理解できます。


 九州でわたしは、狩猟民として鹿や猪、鴨を追い、生活面の連載「アロハで猟師してみました」に報告してきた(22日が最終回予定)。たしかに山の中で命を取っていると、「思うたい、だけん、あるばい」と訳した方が、命の重さが伝わる。渋谷の109前、浮薄と喧騒の中でならでけえ声で「思うじゃんか、だから、あんじゃね?」。
 ちょっと違うかな。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月19日・夕刊、3版、11ページ、「取材考記」、近藤康太郎)

 「思うじゃんか、だから、あんじゃね?」というのは、デカルトの言葉を東京の言葉で言ったのでしょうか。最後に疑問符が付いていますが、何を言っているのか、よくわかりません。東京語というのは難しい言葉のようです。
 その上、「渋谷の109前」というのは東京人には十分に理解できている言葉であっても、田舎の人間には理解できません。「でけえ声」という表現が新聞社の編集委員の口から出るのも、どうかなと思います。
 この記事の見出しは、「渋谷でわれは叫ぶ 思うじゃんか、だから、あんじゃね?」となっていますが、文章で表現しようとしたことの意図が理解できません。最後の「ちょっと違うかな。」という表現は、何に首をかしげているのでしょうか。私には理解できません。
 とにもかくにも、東京の人の使う言葉は、難しいということだけが心に残りました。東京は全国共通語の中心地ということだけでなく、言葉の仕組みが難しいところだと思いました。

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2019年5月24日 (金)

言葉の移りゆき(398)

言葉を短縮することで、言葉が軽く扱われている


 流行語によって平成の時代を振り返る記事がありました。その連載で、女性の人権をテーマにした回に、次のようなことが書かれていました。
 1989年、セクシャル・ハラスメントが流行語になって、それを巡る訴訟があったということを述べて、原告の晴野まゆみさん(61)の言葉を紹介しています。


 晴野さんは、ネット社会になり、セクハラ被害者へのパッシングがひどくなったと感じる。セクハラやパワハラなどと言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われていると懸念。「人権侵害という認識と距離が出てしまう。人権とは何か、もう一度考える必要がある」
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月23日・夕刊、3版、8ページ、「平成代替わり 流行語でたどる」、伊藤繭莉)

 「言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われている」という懸念にはまったく同感です。そのような傾向を牽引しているのは新聞や放送です。きちんと「セクシャル・ハラスメント」「パワー・ハラスメント」という言葉を使うべきです。記者はきちんとした言葉を使っているとしても、整理部が短い言葉にしてしまうという事情があるのかもしれません。見出しの文字は少なくするというのは原則かもしれませんが、何でも略してしまえという方針は間違っていることに気づかなければなりません。
 このことは、私は、この連載で何度も指摘してきました。けれども改まるどころか、ますます酷くなっていると感じています。


①「あおり運転」摘発1.8倍 / 昨年 ドラレコ映像も活用
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、14版、1ページ、見出しの言葉)

②プラに印刷 まるで金属 / 特殊技術、中小が開発
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、14版、6ページ、見出しの言葉)

③モラハラ=心への暴力 見えない支配 / 無視や嫌み…話し合えない夫 / 「私が悪い」自分責めうつ病に
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年5月23日・朝刊、13版S、23ページ、見出しの言葉)

 ある日の新聞の見出しの一部です。①の「ドラレコ」はドライブレコーダーです。ドラレコなどという発音は下品きわまりない発音ですが、そんなことへの配慮はありません。言葉が短くなれば、それでよい、あとは知ったことではないという姿勢です。②の「プラ」はプラスチックです。
 ③の「モラハラ」は配偶者など親密な関係の中で起きる暴力の中で、「モラルハラスメント」と呼ばれる精神的な暴力のことだそうです。比較的に新しい言葉だと思いますが、略語で登場です。「モラルハラスメント」という言葉の重みは、「モラハラ」と略すことで軽くなり、日常茶飯事の出来事かと思われるような感じになります。「言葉を短くすることで、言葉が軽く扱われている」ことを、新聞が実践しているのです。

 元の文章「平成代替わり 流行語でたどる」は、その文章全体の末尾を引用しました。「…と懸念。」などという尻切れトンボの文の次に、「 」で引用文が続いて、それでお終いという、尻切れトンボの二重奏です。晴野さんの言葉を軽く引用しただけの印象で文章全体が終わっています。NIEとして使えば、失礼な文章の見本、日本語の原則を無視した文章の見本ということになります。
 記者はこんないい加減な文章を書いていないはずです。もし、書いていたのなら、「どうせ、このような形に加工されるのだ」ということを知っていて書いたのでしょう。新聞記者は本質的にこんな文章を書かないと思います。すべては整理部の仕業だろうと思います。そして、そんな表現が新聞紙上を跋扈しているのです。情けないことです。

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2019年5月23日 (木)

言葉の移りゆき(397)

「最後の未開の地」って、どこのこと


 テレビは、まるで自分が天下を動かしているような気取りで、どこへでも入り込んでいきます。少し前までは、遠慮をしていたところへも、無遠慮に入っていきます。
 これまでになかったような場面であれば視聴者が喜びます。それを大義名分にして、とんでもないところへもカメラを入れて、視聴者を喜ばせようとします。すぐに飽きられることがわかっていても、短期間だけでも視聴率を取ればよいと考えているようです。そんな風潮をNHKも追随するようになってしまったのが嘆かわしいことです。
 家庭の風呂に入れてもらうという番組があるそうです。それを紹介する記事にこんなことが書いてありました。


 NHKの北川朗チーフ・プロデューサーは、番組の狙いについて「ネットを使えば地球上のあらゆることが調べられる時代でも、各家庭の風呂についてはネットでほとんど出てこない。最後の未開の地である家庭風呂に注目することで、市井のみなさんの人生を深く見つめることができると思った」と説明する。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月22日・朝刊、14版、18ページ、「フォーカスオン」、鈴木友里子)

 ネットに出てこないから、それが未開の地だという論理は、一般人の論理ではなく、テレビ人特有の考えでしょう。何でも絵(テレビ画面)になるという考えのもとでは、家庭風呂は、まだ絵になっていない「未開の地」であるということなのでしょう。そんな場所に入り込んで番組を作るべきではないという自戒の心はまったく喪失してしまっています。
 家庭の風呂のことがネットに出てこないということの方が、うんと正常です。この紹介記事には、番組を讃える言葉が散りばめられていますが、新聞記者にも、家庭の風呂にカメラが入り込むことの自戒心はまったく存在しないようです。
 「最後の未開の地」という大袈裟な言葉は滑稽以外の何ものでもありません。こんな言葉を使うプロデューサーは、これを最後に番組づくりをやめるのでしょうか。それとも、次々と「最後の」地を開発していく能力の持ち主なのでしょうか。もし開発力を持っているのなら、家庭風呂が「最後」であるはずがありません。言葉のまやかしです。
 馬鹿げた言葉遣いを紹介することが、新聞の質を下げることにつながるということにも、記者は注意をしなければなりません。

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2019年5月22日 (水)

言葉の移りゆき(396)

「予定調和」という一刀両断


 「予定調和」という言葉は、哲学説の根本原理として使われた言葉だそうです。そのような言葉を日常語として使ってはいけないというわけではありませんが、この言葉を聞くと、簡単に物事を切り捨ててしまうような響きを感じます。
例えば、こんな文章がありました。


 半世紀を超える地上波の演芸番組を語ろう。いや予定調和な大喜利ではない。TBSの「落語研究会」だ。
 明治からの伝統を継ぐ同名の落語会で高座を収録している。現在は地上波(関東ローカル、第3日曜早朝)、BSTBS、CSのTBSチャンネルと多重に放送している。 …(中略)…
 長岡杏子アナウンサーは、自分の意見を最小限にとどめて質問する。そうだ、聞き役に徹する奥ゆかしさも、ツッコミ全盛のテレビが失いつつある伝統だった。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月19日・朝刊、14版、31ページ、「記者レビュー」、井上秀樹)

 「予定調和な大喜利」という表現の意図が理解できません。
 予定調和という言葉は、観衆や関係者などの予想する流れに沿って事態が動き、予想通りの結果になることを表す言葉のようです。途中に異常な存在が現れても、最後にはごく当たり前の結末になることのようです。意外性がないということのようです。伝聞の形で書くのは、こんな言葉を使ったことはありませんし、正確な表現意図を理解できないからです。
 この言葉は、映画、演劇、小説などの世界から、政治、経済に至るまでに使える言葉のようです。もしそうであるのなら、わが国の政治のあり方などがその典型と言えるようです。
 「笑点」という長寿番組を批判する言葉として「予定調和な大喜利」という表現は効果的なのでしょう。けれども、ある番組を「予定調和な番組」という言葉を使って貶すなら、立つ瀬がありません。このような言葉遣いをするのなら、現在のテレビ番組はほとんどすべてが「予定調和な番組」ということになるでしょう。
 私たちの歩んでいる人生も「予定調和な何十年間」という言葉で言われかねなくなります。一刀両断な言葉です。
 「落語研究会」というのは半世紀を超える番組だそうですが、地上波が関東ローカルで、しかも月1回の早朝時間帯の番組だそうです。いかに価値ある番組と認めたとしても、関東以外の人たちにとっては、知らない番組です。東京で書かれる記事にはこのような傾向があります。全国向けに書いている意識があるなら、こんな記事は書かないはずです。
 「長岡杏子アナウンサーは、自分の意見を最小限にとどめて質問する。聞き役に徹する奥ゆかしさ…」というのは日本人(日本語)が持っていた特性でした。新聞記者もその特性を失って、大袈裟な言葉を振り回す時代になってしまっているのです。

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2019年5月21日 (火)

言葉の移りゆき(395)

「100%再生可能エネルギー運行」とは

 

「再生可能エネルギー」とは、有限な資源である石油、石炭、天然ガスなどの化石エネルギーとは違って、太陽光、風力、地熱などの、自然界に常に存在するエネルギーのことです。
 全列車をそのエネルギーによって運行する試みが始まったというニュースがありました。

 

  東京急行電鉄(東京)は25日、東京都内を走る世田谷線で、電力の100%を再生可能エネルギー由来とする取り組みを始めた。東北電力グループが水力と地熱で発電した電力を供給する。東急によると、全列車を再エネだけを使って通年運行するのは日本の都市型電車では初めて。 …(中略)…
 東急によると、今回の取り組みは、従来の電気料金より割高になるが、運賃には反映させない。
 (毎日新聞・中部本社発行、2019年3月26日・朝刊、13版、6ページ)

 

 このような取り組みは、もちろん望ましいことではありますが、東京急行電鉄の取り組みによって日本全体の再生可能エネルギーの割合が上がることになるのでしょうか。そうではなくて、現状としての割合の中で、東急は再生可能エネルギーのうちの水力と地熱で発電したものを使うということなのでしょう。
 従来の電気料金よりも割高になるが、それのみを使うという考えは賞賛すべきなのでしょうが、いったいどのようにして送電されるのでしょうか。専用線を使うのでしょうか。いろいろな方法で発電されたものが一括して送電されているのなら、何だか理屈が通らないような気持ちがしないではありません。
 再生可能エネルギーだけを使うという企業が増えた場合、太陽光、水力、風力、地熱などの発電でまかなえる態勢となるのでしょうか。東急の営みは今後を考える長い長い営みの先導役であるような気がします。
「再生可能エネルギー」だから略して「再エネ」などということではなくて、もっとしっかりした言葉が生まれてほしいと思います。

 

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2019年5月20日 (月)

言葉の移りゆき(394)

「2連ポスター」は違反でないと言うが…


 選挙が告示されていないのに候補者の顔と名前を売り込もうとするポスターが氾濫しました。これって違反でないそうですが、それを違反でないとする法律自体がおかしいと思います。


 ポスターをよく見ると、「立候補予定者」は「別の人」と並んでいる。党首や国会議員だったり、著名人だったり……。その下や脇のスペースには、党のキャッチフレーズや演説会の案内などがある。
 業界で「2連ポスター」と呼ばれるものだ。あり方について議論はあるが、違反ではない。 …(中略)…
 総務省選挙課によると、2連ポスターは個人の名前や顔を表示していても、政党の政治活動のためのポスターとみなされる。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年3月27日・朝刊、「神戸」版、13版△、31ページ、「探る!統一地方選」、西見誠一)

 統一地方選挙に至る期間に、立候補予定者と別の人とを並べたポスターが町中に氾濫しました。それをべたべたと何枚も何枚も張り並べる立候補予定者もいました。選挙前には汚らしさが極点に達しました。それでも違反でないというのは、そんなルールを作るのも政治家であるからなのでしょう。
業界で「2連ポスター」と呼んでいるとありますが、業界とは、どんな業界のことなのでしょうか。ポスターを作る印刷業界でしょうか、それとも、候補者の業界でしょうか。
 名前と顔が町中に大きく張り出されているのは、重大犯罪の犯人の手配と、もう一つは立候補予定者のようです。ポスターだけではなく、選挙が済んでも看板(置き看板)が町のあちこちに残されています。
 政治家は美に対する意識を持ち合わせていないのだろうかと思います。とりわけ、国会議員のポスターは、長い期間にわたって張り続けられますから、汚くなったものもそのままです。

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2019年5月19日 (日)

言葉の移りゆき(393)

「チーズ」と「らりるれろ」


 写真を写すときに「はい、チーズ」と言います。「チーズ」という発音が、口を横に広げてにっこりした顔つきにさせるからです。けれども、その発音とともにシャッターが切られることは少ないようで、本当ににっこりとした写真ができあがることは少ないようです。
 それに比べると、こちらは効果覿面の言葉のようです。


 「・・・・・」「もっとはっきり」「らりるれろ」
 うなずく刑務官に礼を言う受刑者。隣の受刑者が、同じように刑務官から薬を受け取る。
 錠剤や粉薬を舌の上に乗せてそこにあることを示し、水と一緒にのみ込んだ後、何もなくなった舌を再び刑務官に見せる。最後に言う言葉が「らりるれろ」だ。
 「こうした言葉を言わせるのはいかがか、各自の称呼番号で十分ではないかという議論もありました。でもそれだと薬を確実に飲んだかわからない。舌の裏まで確認できる『らりるれろ』には一定の合理性がある。薬をため込んで人にあげたり、大量に飲んだりする事案を防ぐためです」と細川隆夫所長が説明する。
 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月21日・夕刊、3版、1ページ、「密着Document」)

刑に服する人も高齢化して、病気がちの人も多いそうです。睡眠薬、軟便剤、降圧剤など多くの薬が必要になると言います。
 確かに「らりるれろ」を発音している人の口もとを見れば、口の中の様子がよくわかります。「舌の裏まで確認できる」という効果は、その通りだと思います。

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2019年5月18日 (土)

言葉の移りゆき(392)

秒数、分数、時数、日数


 100メートルを走るのにかかる秒数、漢字の練習帳の1ページ分を仕上げる分数、原稿用紙10枚分を書き上げるのに必要な時間数(時数)、東海道を歩き続けてお江戸日本橋から京都三条大橋までにかかる日数。
 このように書き並べてみると、秒数、時間数、日数はよく使いますが、分数(ふんすう)はあまり使わないように感じます。
 分数という文字を見ると、整数Aを整数Bで割った結果を、「B分のA」という形で表した、分数(ぶんすう)という言葉の方が馴染みがあります。
 だから、次のような文章を見ると、ずいぶん印象に残ります。


 キッチンタイマーがないと何もできない。 …(中略)…
 主に決まった分数をセットして仕事を始め、それが終わるとまた休憩時間の分数をセッとして休む。それからまたタイマーをセットして仕事をする。これを何回か繰り返しているうちに、その日のノルマができあがる。仕事時間と休憩時間のバランスは諸説あるのだが、わたしは二十五分仕事をして十二分休むという自分に甘い設定に落ち着いた。ただその二十五分間は仕事以外はお茶を飲んでおやつを食べる以外何もしない。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月10日・夕刊、3版、2ページ、「となりの乗客」、津村記久子)

作家の人の執筆時間配分がこのようであることに驚きましたが、「分数」というものが生活の基盤にあることにもびっくりしました。
 私自身の生活時間配分は、新聞を半時間読むとか、パソコンに1時間向かうとか、ウオーキングに1時間半とかの、「時数」単位です。テレビのニュースを20分間見るということもありますが、それは0.5時間弱という単位にしてしまっています。
 「分数」単位の生活には興味がありますが、私は、25分と12分というような区切りなどはできないような人間になってしまっているような気持ちがします。
 「秒数」や「時数」が国語辞典の見出しになっても、「分数(ふんすう)」が見出しになることはないだろうと、私はのんびり構えているのです。

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2019年5月17日 (金)

言葉の移りゆき(391)

「綿菓子」と「綿飴」


 綿菓子または綿飴と呼ばれている食べ物があります。駄菓子屋さんで買うのではなく、お祭りなどの屋台で売られているのが主流だと思います。
 この食べ物について、「東西で違う証拠を撮った」という見出しの記事がありました。


 郷里の香川県に帰った時、こんぴらさんの参道で〈わたがし〉とあるのを見つけました。そうそう、小さい頃、私はこれを「わたがし」と呼んでいました。
 現在住んでいる東京で、屋台の文字に注意してみると、多くは「わたあめ」と書いてあります。経験的に、東では「わたあめ」、西では「わたがし」という感じがします。 …(中略)…
 こうした調査結果を、知識として知っておくことも大事ですが、実例に出合った時の楽しさは格別です。私はまだ何枚かの「証拠写真」を撮っただけですが、今後も、旅行先で屋台を見かけたら、このお菓子の表記に注意してみるつもりです。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月20日・朝刊、be3ページ、「B級言葉図鑑」、飯間浩明)

 東西で「わたあめ」「わたがし」という分布を示すということについては異論はありません。けれども、「わたあめ」と「わたがし」が、東西のどの辺りで分布が区切られるのかということは、現在ではあまり意味のないことであるのかもしれません。「証拠写真」の価値も乏しいと思います。
 ホームページを見ると、「わたあめ」「わたがし」の幟旗が売られています。幾つものホームページがありますが、たいていのところでは「わたあめ」「わたがし」の両方が売られています。これからは、東西の分布というようなことではなく、幟旗を買う人の好みによって選ばれるかもしれません。東京に「わたがし」があっても、関西に「わたあめ」があっても、何の不思議でもないことになるでしょう。
 なお、国語辞典では、『明鏡国語辞典』『三省堂国語辞典・第5版』では、「わたがし」が載せられて、「わたあめ」は「わたがし」を見るようにと誘導されています。一方、『現代国語例解辞典・第2版』では、「わたあめ」が載せられて、「わたがし」は「わたあめ」を見るようにと誘導されています。『岩波国語辞典・第3版』『新明解国語辞典・第4版』には「わたあめ」「わたがし」ともに載せられていません。

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2019年5月16日 (木)

言葉の移りゆき(390)

「選書」の新しい意味


 「選書」という言葉は、書物の中から選ぶ、という意味です。けれども、その言葉は、叢書・双書の名前として使われるというのが、従来の用例でした。
 そこに新しい意味づけがなされるようになりました。次のような記事があります。


 小さな書店の店主らが、お客さんのために本を選んで送る「選書サービス」が静かな人気だ。本が売れず、書店の数が減り続けている時代だが、利用者は何を求めているのか。
 北海道砂川市の「いわた書店」は全国から選書の依頼が殺到する、この世界では有名なお店。2006年に始めた「1万円選書」がテレビやSNSで取り上げられ、今では毎月150人限定のサービスに年7千人以上が申し込み、抽選待ちしているほどだ。
 年齢や家族構成、過去の読書歴や今、一番したいことなどを記した「カルテ」を顧客に送ってもらうのが最初のステップ。
 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年4月8日・夕刊、3版、3ページ、「知っとこ!DATA」、金本有加)

 全国チェーンの書店が幅を利かせる中で、小さな書店の営みとして興味深く感じます。文庫、新書、選書、双書…などというシリーズ名として「選書」という言葉が使われてきましたが、「選書」の本来の意味は、書物を選ぶということです。読者一人一人に合った本を選ぶというのはたいへんな作業だと思いますから、よほどの書店主でないとできないことかもしれません。
 他人に本を選んでもらうのは、読書人の営みとして望ましいかどうかわかりませんが、読書生活の契機となるのなら、一度ぐらいは利用してもかまわないのかもしれないと思います。その後は自分で「選書」をしていけば良いのですから。

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