2019年2月18日 (月)

言葉の移りゆき(303)

「卵のことば」を無理やりに孵化させない

 

 国語辞典の編纂者は、新しい言葉を見つけて、それを辞典に載せることを任務のひとつと考えておられるようです。それを否定するつもりはありませんが、根掘り葉掘り探す必要はない、と私は考えます。

 こんな文章がありました。

 

 〈のせもの別金〉。「のせもの」は分かります。爪に載せる飾りのことでしょう。見逃せないのは、その後の「別金」という言い方です。

 文脈から考えると「別料金」のことらしい。でも、「別料金」をこう略すのを見たことがありません。

 ツイッターの状況を探ると、〈別金発生する〉〈ドリンク別金〉など、まれに使われる程度です。将来広まるかもしれないが、目下の勢力はごく弱いという印象です。

 「別金」は、まだ日本語にデビューしたとは言えない、卵のことばです。不愉快に思う人もいるでしょうが、私は、こういうことばを見つけるのも楽しみなのです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2018年9月22日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 「別料金」という、たった3文字を2文字に減らすことには、ほとんど意味や価値はありません。けれども「別料金」を略すならば、「別金」ではなく「別料」でしょう。ツイッターなどの使用例を探し出して「別金」を認めようとするような努力をする必要はありません。むしろ「別料」を探して、その方が望ましいと書くべきでしょう。

 この頃、いぶかしく思うことは、日常生活の話し言葉などから使用例を探すことよりも、ツイッターのような世界からの使用例を優先しているような傾向があることです。新聞記事にもその傾向があります。国語辞典の編纂においても、それが正道なのでしょうか。

 私は方言を調べています。方言は、人々の言葉の有様に耳を傾けれなければ研究は始まりません。パソコンを相手にしていても、方言の実態はつかめません。広く日本語全体のことを考えても、事情は同じであると考えています。狭い世界で書かれた〈書き言葉〉よりも、生活の中に現れている〈話し言葉〉を大切に考えるべきでしょう。

 話し言葉の中に「べつきん(べっきん)」という言葉が定着したと思ったら、国語辞典に載せてもよいでしょう。

 日常生活に耳を傾けるよりも、パソコンを叩いている方が、うんと安易に言葉を探し出せるでしょう。簡単に検索できますから、この上なくラクです。町中の言葉の採集も、似たような傾向を持っています。

 けれども、よく考えてみてください。ツイッターや看板などに現れる言葉は、発信者(書く人)の立場で作っている言葉です。受信者(見る人)が「別金」などという言葉を認めたく思っているかどうかは、まったく別問題です。言葉はコミュニケーションの用具ですから、言葉の受信者もいっしょになってやりとりをするようになって、はじめて一人前の言葉になるのです。ツイッターや看板に何万例が現れても、一般の人が広く口にしなければ一方通行でしかありません。

 「将来広まるかもしれないが、目下の勢力はごく弱いという印象です」と書きながらも、それを紹介するということは、そうなることを期待しているという姿勢が現れています。

 「卵のことば」は、日本語の社会の中でしっかりと孵化して一人歩きをしたときに国語辞典に載せればよいでしょう。編纂者としては少しでも早く孵化してほしいと願っておられる気持ちはわかりますが、孵化を助けるような文章を書く必要はありません。

 「街のB級言葉図鑑」で採り上げられる言葉が、趣味的な傾向を見せてきていることを憂慮しています。時には、言葉の採集を休んで、そのあたりについての筆者の見解を示してほしいと思います。

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2019年2月17日 (日)

言葉の移りゆき(302)

外来漢語の受け入れ推進派?

 

 街にあふれる言葉を採集することは結構なことでしょうが、ちょっと考えてほしいことがあります。

 カタカナ外来語の氾濫に辟易している人は多いと思いますが、外来漢語を受け入れることも考えなければならないと思います。

 こんな文章がありました。

 

 駅のホームの立ち食い店に、しゃれたキャッチコピーが書いてありました。〈速食美味〉。四字熟語で風格があって、素晴らしい。 …(中略)… 

 中国では「すぐ食べられるおいしい料理」を「速食美味」とも言うんですね。例は多くありませんが、確認できます。 …(中略)

 中国語では、日本語に比べて、新しい四字熟語が簡単に作られます。先ほどの立ち食い店は、「速食美味」という熟語を中国語から輸入して使ったのでしょう。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月16日・朝刊、be3ページ、「街のB級言葉図鑑」、飯間浩明)

 

 このコラムの筆者は最近、漢字熟語の新しい用例や、漢字を用いた短絡表現の紹介に力を注いでいるようです。中国語では、新しい四字熟語が「簡単に作られる」そうですが、今回の記事は、それをどこかの立ち食い店が上手に宣伝に取り入れて、さらに、それを素晴らしいと感じて全国紙で紹介するという流れになっています。

 筆者は外来漢語や短絡漢語の価値を積極的に評価する立場にあるようですが、そのような言葉が国語辞典に増えていくことには、眉をひそめる人も多いだろうと思います。

 自然な日本語の中から生まれた、表現力豊かな言葉が増えていってほしいと願わずにはおれません。マスコミが外来語や輸入漢語を強調すれば、本来の日本語が萎縮することにつながりかねないと危惧をしております。

 長い伝統を持った日本語にも、新しい表現の兆しは随所に見られるはずです。そういうものを探し出して育てていくことも、国語辞典編纂者の大きな務めであると思います。

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2019年2月16日 (土)

言葉の移りゆき(301)

ひらがな頭文字の略語

 

 「こそあど」と言ったら、「新しい流行語ですか」ときいた人がいました。こそあどとは、「これ」「それ」「あれ」「どれ」というような代名詞や、「この」「その」「あの」「どの」というような連体詞や、「こう」「そう」「どう」というような副詞などの体系を表す言葉です。指示機能を持った言葉のことです。「こそあど」という発音には、「ここは、どこ?」とつぶやいている趣もあって、好ましい日本語です。

 日本語には、このように頭文字を連ねた略語の機能があるのです。報告・連絡・相談を一続きにして「ほうれんそう」と言うそうです。

 こんな文章がありました。

 

 最近、ネット通販やファッションに携わる人から、よく聞く言葉がある。

 「ささげはどこに頼むかな」「ささげの出来不出来が大きいですよね」という感じで使われている。

 ささげ?……。業界が業界だけに横文字の略語か、AIも駆使する業界だけにハイテクの専門用語かとも思った。

 「すいませんけど……」と聞くと、「さ・さ・げは、撮影・採寸・原稿の頭文字の略」と教えてくれた人がいた。

 意外だった。いずれも地味な業務である。だが、消費者はスマホやパソコンの画像、サイズ表、商品説明から商品を選ぶしかない。ささげは重要なのだ。

 (朝日新聞・大阪本社発行、20181126日・夕刊、3版、8ページ、「葦 夕べに考える」、多賀谷克彦)

 

 撮影・採寸・原稿のことを、英語の頭文字を並べて言おうと考えた人もいたかもしれませんが、「ささげ」という言葉が定着したら、その方が馴染んだ言葉になるでしょう。「ささげ」は、アズキよりもちょっと大きい豆を表す言葉でもあります。「ささげ」に新しい意味が生まれるというのは、日本語にとっては面白い現象です。「ほうれんそう」は菠薐草です。たまたまですが、この2つの言葉には、食べることのできる植物という共通点があります。

 アルファベットの略語にしても、KDDIの前身であるKDDは、国際・電信・電話のローマ字の頭文字です。NTTの頭文字は一旦、英語を経由しなければなりません。日本・放送・協会のNHKもローマ字の頭文字です。アルファベットで略語を作るときも、日本語を大事に考えたいと思います。けれども、「卵かけご飯」をわざわざアルファベットで「TKG」などと言おうとする心理は、理解できません。

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2019年2月15日 (金)

言葉の移りゆき(300)

「大阪・関西万博」は略称ではない

 

 経産省という言葉は、経済産業省の略称です。経済産業省自身が決めたわけではありませんが、みんなが使えば定着していきます。略称とは、名称を省略して呼ぶことであり、その省略した名称そのものも略称です。

 さて、おかしな略称が誕生しました。記事には次のように書かれています。

 

 2025年に大阪市で開かれる国際博覧会(万博)について、経済産業省は24日、正式名称を「2025年日本国際博覧会」、略称を「大阪・関西万博」とすることを決めた。広く使われる略称は誘致の段階から関西全体をアピールしてきたことや、1970年の「大阪万博」と区別できるようにすることを踏まえたという。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月25日・朝刊、13版、34ページ)

 

 「2025年日本国際博覧会」や「大阪・関西万博」という名称については何の異議もありません。

 ところで、略称というのは、元の名称の一部分を使って短く表現するもののことです。「2025年日本国際博覧会」を略しても、「大阪・関西万博」という言葉は生まれてきません。「大阪・関西万博」は略称ではありません。別称とでも言うべきものでしょう。

 経済産業省が別称を決めることは問題ないと思います。けれども、それを「略称」と称することは間違っています。国のお役所が、間違った日本語の使い方を率先して行ってはなりません。

 この発表に対して、報道機関が、言葉の使い方が間違っているという声を上げないのは、新聞や放送も、間違った使い方に気付いていない、あるいは、間違った使い方を容認しているということでしょう。報道機関が日本語に敏感でないということは、まったく悲しいことであると思います。

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2019年2月14日 (木)

言葉の移りゆき(299)

「国魚」で輸出拡大

 

 この連載の(292)回で、国技と国石のことを書きました。その続きです。こんな文章がありました。

 

 日本の国鳥はキジで、国蝶はオオムラサキである。鳥と昆虫の学会がそれぞれ昭和の時代に選定し、広辞苑にも明記されている …(中略)

 国魚にニシキゴイを推す動きが浮上している。輸出拡大につなげようと、自民党の有志が議員連盟を発足させるという。そこで何が国魚にふさわしいか、同僚と話してみたが、めでたいのタイだ、清々しいアユだ、食卓でなじみ深いサンマだ、と議論百出、結論に至らなかった

 (読売新聞・大阪本社発行、2019年1月23日・夕刊、3版、1ページ、「よみうり寸評」)

 

 国石を日本鉱物科学会の総会だけで決めるのはどうかと疑問を持ちましたが、鳥も蝶も同じようなことだったのですね。こういうものを決める際に、国民全体の議論などはできないでしょうから、学者の集まりで決めるというのは、一般の人にも納得しやすい方法であるのかもしれません。(ただし、国石、国鳥、国蝶というものを決めなければならないかどうかというのは、別の問題です。)

 国石について、一部の人たちへの利益誘導のような気配があっては困ると書きましたが、国魚の場合は、正真正銘の利益誘導です。ニシキゴイの輸出拡大を図るためにニシキゴイを国魚にすると、堂々と主張しているようです。ひとつの党の議員で推進するというのも、国鳥・国蝶・国石とは異なったやり方です。

 国魚を何にしようかということを国民全体で議論したら、たぶん決まらないでしょう。国民が関心を持たない間に、そそくさと決めてしまおうといういう目論みかもしれません。 学会ではいろいろな候補から選んだことでしょう。ところが、ニシキゴイの場合は、それを国魚にしようという目標点が決まっていて、それをいつ、どのようにして決める(決めてしまう)のかということだけの方法論になっているようです。

 そんなふうにして決めるのなら、誰もそれを本当の国魚だなどとは思わないでしょう。言葉はみんなの納得、共通理解の上で成り立つものなのですから。

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2019年2月13日 (水)

言葉の移りゆき(298)

東京ローカルを日本全体に押し広げる

 

 NHKラジオ第1放送に「ラジオ深夜便」という番組があります。毎日、持ち回りで担当アナウンサーが変わるのですが、週に1日だけ関西発ラジオ深夜便があって大阪局が担当しています。それ以外にも月に1度か2度ぐらい仙台発とか岡山発とかの地方局の担当があります。

 この番組の冒頭に担当アナウンサーの日常報告のようなものがあるのですが、「渋谷の駅からNHKに来るまでの間に、こんなものを見ました」とか、「渋谷の交差点は…」とか、「渋谷の街角では…」とか、「渋谷の空模様は…」とかいうように、渋谷の話が多いのです。アナウンサーも一人の人間ですから、渋谷での見聞が多いのは当然でしょう。

 1週間7日のうち6日間を東京局で独占しているのですから、こういうことになります。そして、そういうことに何の疑問も感じていないようです。毎日、全国持ち回りにしましょう、と言っても、鼻先でフフンと笑われるだけだけでしょうね、きっと。

 総合テレビの「シブ5時」などというのは番組名にまで露骨に現れています。首都圏の人は何とも感じていないのでしょうが、他の地域の人に対する配慮が根本的に欠けているのです。

 新聞も同じです。東京で書いた記事が全国に流されます。政治・経済がけでなく、文化に関わることも東京一極集中です。こんな文章がありました。

 

 書棚の奥からひょいと出てきた「渋谷語辞典2008」。この本は「渋谷に生息する若者たちが日常的に使っているコトバ《渋谷語》を紹介する本です」とある。大きく「ギャル語・略語」「KY語」「ネオ漢字」の3ジャンルにわかれている。 …(中略)

 渋谷に生息する若者は、新しいコトバを発信しながら、優しいフォローも忘れない。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月23日・夕刊、3版、6ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 なぜ今頃になって「…2008」という本を話題に持ち出したのか理解できませんが、渋谷から発した言葉が日本全体を左右しているような言い方になっています。「キチョる」という言葉や、「神」や「民」という表現が渋谷から発信されたように書いてありますが、事実はその通りなのでしょうか。「…2008」という本は、その当時に渋谷にいた若者も、たまたま使っていたというだけなのではないでしょうか。

 東京にいる人間は、渋谷が若者の街であるから、若者語も渋谷から発信されていると思い込み、そしてそれが全国の人を導いているかのような錯覚を強く持っているのではないでしょうか。

 東京人の視野は意外に狭く、自分たちが日本の代表だというような誤解を心の奥底に持っているように感じます。渋谷という東京ローカルを、日本の中心だというように誤解して、それを日本全体に押し広げようとするような愚挙は、そろそろお終いにしませんか。

 放送や新聞の世界はずいぶんと思い込みの強い世界であるようです。地方分権は政治や経済だけのことではありません。

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2019年2月12日 (火)

言葉の移りゆき(297)

眠りながら使う「枕詞」

 

  あまざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門()より大和島見ゆ

 万葉集に載せられている柿本人麻呂の有名な歌です。「あまざかる」は「夷」にかかる枕詞です。

 枕詞とは、一定の言葉の前に置く5音節(もしくは4音節)の一定の修飾語のことです。枕詞よりも長い「序詞」が作者の創造性に満ちた表現であるのに対して、枕詞は慣用的に使い古されてきた表現で、作者が創造するものではありません。

 国語辞典を見ても、「枕詞」は、上のようなものとして説明されています。

 ところが、現代の文章の中では、枕詞の意味を理解していないような表現が見られます。

 

 「伝説の……」といった枕ことばがつく映画の修復版が、続々と劇場公開されている。近年は高精細な4Kデジタルで復活する事例が増えてきた。

 (朝日新聞・大阪本社発行、201812月2日・朝刊、13版、30ページ、小峰健二)

 

 -著書で元号では時代を表すことができないと指摘しましたが、改元を控えて「平成最後」という表現があふれています。

 「流行語のように枕詞として使われているが、イベント的な盛り上がりに過ぎない。新元号の予想ブームも起きた。 …(以下、略)…」

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月18日・朝刊、13版、4ページ、「元号を考える②」、話し手・鈴木洋仁、聞き手・田嶋慶彦)

 

 ここで言う枕詞とは、「伝説の」と「平成最後()」という言葉です。和歌の修辞の枕詞とは違ったものです。これは枕詞ではなく、連体修飾語というべきものです。(使い方しだいでは、連用修飾語も成り立つのかもしれません。)

 いくら、言葉の慣用・誤用に寛容な国語辞典でも、認めたくはないのでしょう。そんな意味を載せている国語辞典は珍しいのです。私も、その考えに賛成です。

 ただ、『三省堂国語辞典・第5版』は、新しい意味・用法を取り入れることに積極的です。①②の二つの意味が併記され、②は次のように書かれています。

 

 ②話のはじめに添えて言う決まり文句。

 

 繰り返して言いますが、枕詞には独創性がありません。現代の文章の場合も「決まり文句」に過ぎません。本当は使わなくてもよいような言葉を、話のはじめ(または、文頭)に書いているだけなのです。眠りながら使ってよいような言葉ですから「枕」の言葉であるのかもしれません。

 修辞技法のことや、文法(語法)のことや、言葉の慣用的な用法を無視したような文章を読むと、苛立ってきます。話し言葉で使われることはやむを得ないとしても、書き言葉としての新聞では、配慮が必要であると思います。

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2019年2月11日 (月)

言葉の移りゆき(296)

懐炉と歯磨き粉

 

 子どもたちが「かいろ」という言葉を国語辞典で引いたとき、違和感を持つのではないかと思います。かいろ、つまり寒いときに衣類に貼り付けたりして使うもののことです。

 

『三省堂国語辞典・第5版』  衣服の内がわに入れて、からだをあたためる道具。

『新明解国語辞典・第4版』  衣服の内側に入れ、からだを暖める道具。

『現代国語例解辞典・第2版』  懐などに入れて体を温める器具。

『明鏡国語辞典』  衣服の内側に入れて体をあたためる携帯用の器具。

 

 違和感というのは、このように小さくてやわらかいもののことを「道具」や「器具」と言うのだろうかということです。「道具」や「器具」の定義が気になります。

 かいろは「懐炉」ですから、かつては道具・器具でした。国語辞典のこれらの説明は、例えば白金懐炉のようなもののことを説明していて、現在、主流となっているペッタンコのカイロのことに気づいていないのではないかと思えるほどです。『岩波』は、旧来のものに限った説明をしています。

 

『岩波国語辞典・第3版』  衣服の内側に入れて体を温める道具。金属製の小箱で、特殊な灰揮発油を燃料とする。

 

 どういう物体に変化をしても、「懐炉」という言葉は生き続けてほしいと思います。けれども、「道具」「器具」という説明は時代遅れのように感じます。

 

 話題が変わります。次は「歯磨き粉」です。

 幼いときのことを思い出すと、歯磨き粉は、正真正銘の粉でした。ゴホンと咳をすると、缶に入った粉が吹き飛んでしまうようなものを使いました。今は、粉を練ったものがチューブに入っています。でも、やっぱり「歯磨き粉」と言いたいのが私の気持ちです。

 こんな記事がありました。

 

 虫歯や歯周病の予防、歯の美白、口臭の軽減……。ドラッグストアの棚にはさまざまな特徴をアピールする商品が並び、目的に合った歯磨き粉が選べます。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月19日・朝刊、13版、9ページ、「きりとりトレンド」、辻森尚仁)

 

 見出しにも「歯磨き粉」という文字が使われています。「歯磨き」ではなく「歯磨き粉」であるのが嬉しいのです。

 ところで、上にあげた5種の国語辞典は、すべて、「歯磨き」の見出しだけで、「歯磨き粉」はありません。歯磨きのことを、粉状またはペースト状の洗剤というように説明はしていますが、「歯磨き粉」という言葉は省かれてしまっています。「歯磨き」というのは用途・作用などに注目した言葉です。もの自体を表す「歯磨き粉」が消えてしまったのは寂しいことです。

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2019年2月10日 (日)

言葉の移りゆき(295)

「絶滅危惧動作」の面白さ

 

 楽しい記事を読みました。絶滅危惧というのは動物や植物のことだけではなく、人間生活の中にもあふれていることに注目した図鑑のことです。

 

 東京芸術大学の大学院生、藪本晶子さん(25)の作品について取材しました。その名も「絶滅危惧動作図鑑」。最近、あまり見られなくなった「テレビを叩く」や「墨をする」といった全57種類の動作が図鑑にまとめられています。 …(中略)

 「モノは博物館などで紹介されるが、動作は残らない。ならば、置き去りになってしまう動作を残すものがあってもいいんじゃないか」。そんな思いが今回の図鑑につながったそうです。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年1月19日・夕刊、3版、2ページ、吉田貴司)

 

 モノは博物館で紹介されるが動作は残らない、という考えに同感です。私は今、方言辞典を刊行しようとしています。博物館にモノは展示されていますが、言葉(方言)の収集・保存が行われていないという現状を踏まえての取り組みです。

 全国に博物館、歴史館、民俗館というようなものはたくさんありますが、言葉(方言)の博物館はありません。形のないものには無関心であるというのが、文化財行政の姿です。方言辞典の刊行には1円の補助金も出ませんが、個人で取り組まなければならないことです。

 さて、絶滅危惧動作を、自分で振り返ってみました。

 チャンネルをガチャガチャ変える。電話機のダイヤルをくるくる回す。切符にハサミを入れてもらう。ガムを噛んで風船を作る。立って伝馬船の櫓をこぐ。流れ出る鼻水を袖口でふく。間違ったところを砂ゴムで消す。木登りをして、木の股に座る。木切れを集めて焚き火をする。

 まだまだ、いくらでもありますが、このあたりにしておきます。

 私は、絵で書くことは苦手ですが、刊行を予定している方言集には、方言語彙の用例で、そのようなことをなるべく取り上げるようにしています。

 私が大学の卒業論文を書いたときは、パソコンはもちろん、コピー機も普及していませんでした。その時は「カーボン紙で複写する」ことをして、提出したものとは別に、手元に論文を残しました。

 私は子どもの頃から「新聞を切り抜く」ことをして、今も続けています。けれども、今は、切り抜いてからスキャンの作業をして、切り抜き自体は処分しています。今どき、新聞を切り抜いている人はどれほどいるのでしょうか。

 「新聞を読む」ことが絶滅危惧動作に入らないようにと願わずにはおれません。

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2019年2月 9日 (土)

言葉の移りゆき(294)

「無音のオノマトペ」とは何か

 

 オノマトペというのは擬音語や擬態語のことです。「無音のオノマトペ」と題された文章がありました。「無音のオノマトペ」という言葉自体は矛盾を含んでいると思いますか。それとも、当たり前のことを言っているに過ぎないと思いますか。

 私にとって、それは、当たり前きわまりないことでしかありません。擬音語というのは「音」を表しますから、何らかの「音」があります。「ざざっと水があふれ出る」とか「ぱちぱちと手を叩く」というのは、音が発生しているのです。

 けれども、擬態語には「音」がないのが普通です。「さっと手を挙げた」とか「そっと頭を撫でた」とか言っても、「さっ」とか「そっ」とかの音は聞こえません。擬態語をすべて並べあげても、音の感じられる擬態語は少ないと思います。

 さて、「無音のオノマトペ」と題された文章には、このようなことが書かれています。

 

 小野教授が教えてくれたのが、坂本眞一が描く「イノサン」(集英社)だ。

 フランス革命時代の死刑執行人の話。コミックス9巻までを読んだ。1巻は99ページまでオノマトペは見当たらない。馬が走る場面にも「バカッ、バカッ」などの擬音語がない。9巻までのオノマトペは、ほぼ全てが吹き出しの中で台詞として機能している。

 しかしね精緻な絵から確かに音が聞こえる。「あえて狙った高度な表現手法だ」と小野教授は話す。「無音のオノマトペ」でもいうべきか。うならされる。

 (朝日新聞・大阪本社発行、2019年2月6日・夕刊、3版、5ページ、「ことばのたまゆら」、前田安正)

 

 場面の描写にオノマトペがなく、吹き出しの台詞にオノマトペがある、というのは当然です。感心することではありません。

 なんとなんと、「無音のオノマトペ」という題名は、擬音語や擬態語が使われていないということでした。そんなことを言うのなら、世の中の多数の文章は「無音のオノマトペ」で書き綴られているということになります。

 誤解してはならないことは、文章として綴られるものにこそオノマトペは必要であって、目に訴えかける度合いの高い映像や漫画・劇画のようなものにはオノマトペの必要度は低い(極論すれば、皆無である)ということです。

 文字で書かれた文章では、それにふさわしい場所にオノマトペが使われて、効果を上げるのは当然のことです。そのためにオノマトペは存在しているのです。文章は文字だけで書かれているのです。具体的な場面や状況を文字だけで表現しなければならないのですから、オノマトペに頼る必要があります。

 それに対して、映像や漫画・劇画などで表現されるものにオノマトペが少ない(あるいは、必要でない)のは当然のことです。具体的な場面や状況が表現されているものに、擬音語や擬態語を付け加える必要度は小さいのです。

 映像や漫画・劇画にオノマトペが多用されるのは、言葉として無駄であるとも言えます。擬態語や擬態語を画面だけで表現できないのは、表現能力の不足であるのかもしれないのです。

 「イノサン」という作品に感心すべきではなく、むしろ、オノマトペを多用した作品の稚拙さを指摘すべきであると思います。

 

 冒頭のことに戻ります。「無音のオノマトペ」は何も珍しいことではありません。前述のように、擬態語の大部分が「無音」です。

 私は、「無音のオノマトペ」という言葉を見たとき、「しーんと静まり返った会場」というような表現を思い浮かべました。擬音語で、「しーん」という言葉を使う不思議さ、面白さです。まさに無音の状態を「しーん」という音で表現するというのは、不思議なことですが、これこそ日本語の面白さでもあるのです。

 テレビ画面で、静粛な会場を映しているのに、アナウンサーが「しーんと静まり返っています」と実況したら、愚の骨頂と言わねばなりません。

 

 新聞は、明確な誤りの場合は「訂正して、おわびします」という記事を書きます。けれども、上記のようなものには、見て見ぬふりをします。政治家の失言を目の色を変えて報道するのは当然のことですが、新聞社の内側のことは実に寛大です。

 なお、私は、『明石日常生活語辞典』(武蔵野書院)という方言辞典を今年、刊行しますが、この辞典では方言に現れる擬音語・擬態語を積極的に取り上げています。(小さな活字で850ページを超えますので、現在は校正作業を続けています。)

 

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