2018年1月23日 (火)

奥の細道を読む・歩く(239)

汐越の松に向かって歩く

 

 「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

    終夜嵐に波をはこばせて

     月をたれたる汐越の松   西行

 此一首にて数景尽きたり。もし、一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。}

 

 大聖寺の駅前からバスに揺られて汐越の松を尋ねます。吉崎というバス停で降りて、そのまま松林のある方向に向かって歩き始めましたが、どうも様子が違うなぁと思い始めました。汐越の松は、芦原ゴルフクラブの場内にありますので、予め電話で依頼をしています。方向が怪しくなって、電話でクラブに確かめると、やはり方向が違っており、しかも、かなり離れていることがわかりました。乗り継ぐようなバス路線はありませんから、歩きます。

 芭蕉は「越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。」と書いていますが、そのような優雅な舟もありません。バスを降りたところは石川県ですが、少し引き返してから、福井県境を通り、蓮如上人の吉崎御坊の建物などが集まっているところを通り過ぎます。しばらく行くと北潟湖が広がり、小さな浜坂漁港を過ぎます。この湖が「吉崎の入江」です。

 上り道にかかるところに石の道標があって「おくのほそ道 汐越の松碑 ここから右、九〇〇メートル」と書いてあります。汗をかきながら上っていくと、やっとゴルフクラブの入り口に着きます。

 さて、西行の歌ですが、嵐が一晩中吹いて汐越の松に波が打ちかかる、その水が松の枝から滴り落ちるところへ月の光が射すと、まるで月が松の枝から垂れ下がったように見える、という情景です。

 ゴルフ場で来意を告げると快く案内をしてくださいます。けれども、海は見えませんから、更に少し離れたところまで歩かなければならないことを覚悟します。

|

2018年1月22日 (月)

奥の細道を読む・歩く(238)

一夜違いの曾良と芭蕉

 

 全昌寺の境内には、「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。」から、「草鞋ながら書捨つ。」までの「奥の細道」本文を記した碑があります。芭蕉の自筆を刻んだものです。そして「終宵秋風聞やうらの山」の曾良の句碑と、「庭掃て出ばや寺に散柳」の芭蕉の句碑とがあります。

 曾良の「終宵秋風聞やうらの山」は、師と別れて今夜はひとり寺に泊まったが、一晩中眠ることができず、裏山に吹く秋風を聞きながら夜を明かしたと詠んでいます。技巧も凝らさず、ありのままの様子を述べているのです。

 曾良の残した句を芭蕉は目にしたはずですが、曾良に呼応した句は作っていません。「庭掃て出ばや寺に散柳」は、寺を出立しようとすると庭の柳が散ってきた、せめてこの柳だけでも掃き清めてから発ちたいものであるという、感謝の気持ちを込めた挨拶の句になっています。「心早卒にして堂下に下る」という言葉には、曾良を追って先を急ぎたいという気持ちも込められているようです。

 師弟の句碑の近くには、「全昌寺、芭蕉忌における深田久弥(九山)作・全句」と題した句碑があります。「翁忌や師をつぐ故に師を模さず」をはじめとする11句が刻まれています。大聖寺は日本百名山などで知られる登山家、また、山の文学者である深田久弥の出身地です。「翁忌や」の句だけ独立した別の句碑も作られています。

 本堂の左前の方に羅漢堂があって、江戸時代の末期に作られた517体の五百羅漢が安置されています。本堂には芭蕉坐像があり、芭蕉が泊まったとされる部屋を復元して芭蕉庵と名付けている一隅があります。

 7万石あるいは10万石と言われる小さな城下町であった大聖寺ですが、九谷焼をはじめ独自の文化や美意識が開花しました。その落ち着いた町をゆっくり歩いて駅に戻ります。駅のホームの片隅にある芭蕉句碑には「山中や菊はたをらぬ湯の匂」が刻まれています。

|

2018年1月21日 (日)

奥の細道を読む・歩く(237)

全昌寺へ向かう

 

 「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此寺泊て、

    終宵秋風聞やうらの山

と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う、読経声すむままに、鐘板鳴て、食堂に入。けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかゝへ、階のもとまで追来る。折節、庭中の柳散れば、

    庭掃て出ばや寺に散柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。」

 

 芭蕉と曾良は山中温泉で分かれて、曾良が先に泊まった全昌寺に、芭蕉も一日遅れで泊まります。

 曾良の日記によると、曾良は8月5日の夕刻に全昌寺に着き、6日も滞在し、7日朝に寺を出発しています。「曾良も前の夜此寺泊て」というのを事実とすれば、芭蕉は7日夜に全昌寺に着いたことになります。

 小松で泊まった私たちは、朝の間に、小松天満宮に行って「あかあかと日は難面もあきの風」の句碑などを見て、葭島神社などを巡ってから、電車で小松から大聖寺に向かいます。

 大聖寺という駅名は、北陸線の拠点駅か何かのように印象に残っている名前ですが、古びたような印象で、大きな駅ではありません。かつては、山中温泉方面への電車が発着していましたから、特急も停まるような駅であったのでしょうが、今では加賀温泉駅からのバスが山中、山代などの温泉を結んでいます。駅構内のプラットホームの片隅に芭蕉句碑がありますが、これは鉄道としては珍しいことだと思います。

 大聖寺駅から歩いて10分ほどで全昌寺に着きます。全昌寺のことを、山麓の高低差のあるところに堂宇があるよう、私は勝手に想像していました。「鐘板鳴て、食堂に入。」から「心早卒にして堂下に下る」というあたりの文を、建物を下り降りているように解釈していたのです。実際は平坦な土地にあります。

|

2018年1月20日 (土)

奥の細道を読む・歩く(236)

ドレミファそら日記(43)     2017年5月24

 

0755分 東横イン金沢駅東口発。

0818分 JR北陸線、金沢駅発。普通・小松行。

0849分 小松駅着。

0915分 建聖寺。(0925)

0935分 すわまえ芭蕉公園。

0940分 菟橋神社。(0945)

1000分 本折日吉神社。(1020)

1025分 龍昌寺跡(芭蕉宿泊の地)

1030分 多太神社。(1100)

1120分 「カレーの市民」で昼食。(1140)

1210分 小松バス、小松駅前発。那谷寺行。

1252分 那谷寺着。

1255分 那谷寺。(1545)

1605分 小松バス、那谷寺発。小松駅前行。

1647分 小松駅前着。

1710分 アパホテル小松着。

|

2018年1月19日 (金)

奥の細道を読む・歩く(235)

那谷寺と芭蕉

 山門から向かって左半分に普門閣や奇岩遊仙境や大悲閣があって、右半分には芭蕉句碑や護摩堂、鐘楼などがあります。どちらかというと左に人の流れが多く、右に少なくなっています。

 芭蕉150回忌の天保年間に建立された句碑に刻まれているのは「石山の石より白し秋の風」ですが、すぐ右側には翁塚があって、「山中の温泉に行ほど、白根が嶽後にみなしてあゆむ。……」から「……奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」までの文章と、「石山の」の句が刻まれています。あたり全体が苔むした感じになっているのを好ましく感じます。高等学校の頃だったと思いますが、はじめて「石山の」の句を習ったときは、近江の石山寺と比べてそれよりももっと白く、という意味を教わったと記憶しています。けれども、「石山」を那谷寺の眼前の石山と見て、その石山よりももっと白く、秋の風を感じると考えてもよいのだという気持ちになりました。那智、谷汲、石山寺というような他の寺院とは関係なく、那谷寺はすっくと存在していると思うのです。

 近くに縁結びの神としての庚申像があって、縁結びのご利益が書かれていて、現実世界に引き戻される気がします。

 すこし上っていったところに、修法を行う護摩堂と、袴腰の上部まで石造りの鐘楼があります。どちらも寛永年間の建立で国の重要文化財ですが、このあたりまで足を延ばす人は少なくて、静かな雰囲気を味わえます。

 下ってきて、バスの時刻まで間がありますから、聖茶(ひじりちゃ)と菓子をいただきます。

 私たちは小松に戻り、一泊します。

|

2018年1月18日 (木)

奥の細道を読む・歩く(234)

那谷寺をめぐる

 

 那谷寺の山門を入ったところは、寛永年間に作庭された庫裏庭園です。杉の木の根元など、あたり一面は苔でおおわれています。

 普門閣・宝物館は、寺院とは異なる感じがするのですが、1965(昭和40)に白山の山麓、旧新保村の春木家を移築・保存したものだと言います。休憩所・売店を兼ねています。商業的に施設も、寺の運営のためには必要なのでしょう。

 大きな木々の間を参道が貫いていますが、それが終わって空が見えたところで 左手に池が現れて、その向こうに奇岩遊仙境が見えます。ここは「おくのほそ道の風景地」として国名勝に指定されています。山門までの田舎の村落風景、山門を入ってからの古木のたたずまい、そして奇岩霊石の世界。眼前のものが次々に変化していきます。

 そこに一枚の掛札があります。「遠い遠い昔、自然は神だった。人は皆、神の恵みに感謝していた。だから誰も自然を傷つけることをためらった。生きとし生ける全てのものと共に生きる喜びに満ちあふれていた。しかし今、我々は……」

 「しかし今、我々は……」で文章は終わっているのですが、今の人たちはこのように手取り足取り、説明されないと、自然の恵みを忘れてしまって、平気で自然を傷つけてしまうのです。眼前の喜びに心を奪われ、自分たちを取り巻くものからの恩恵を忘れてはなりますまい。

 真っ赤な紅葉の向こうに本殿である大悲閣が見えます。観音霊水の前を通って、大悲閣への石段を上ります。一向一揆の兵乱で荒れたものを1642(寛永19)に前田利常が再建したということですが、岩壁に依りかかるように建てられています。殿内には胎内くぐりもあります。岩を切り開いたような、狭い切り通しの道を通って下に向かいます。

 同じ寛永期に建立された三重塔があり、色鮮やかな楓月橋を渡って、展望所に出ます。下から仰ぎ見た奇岩遊仙境に対峙する高さになります。ここは浄土を思わせる境地です。紅葉もありますが 全山が緑におおわれた静かな世界です。しばらく、見入ります。

|

2018年1月17日 (水)

奥の細道を読む・歩く(233)

那谷寺と白山、そして花山法皇

 

 「山中の温泉に行ほど、白根が嶽後にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふとや。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

    石山の石より白し秋の風 」

 

 芭蕉は、7月24日に小松に着き、25日に多太神社に詣でています。26日は天候不順でしたが、27日に菟橋神社に参拝した後、山中温泉に向かっています。山中に9日間滞在した後、再び小松に向かい、その途中に那谷寺に参拝しています。私たちは、小松から直接、那谷寺に向かいます。今回は山中温泉へ行かず、次回の3泊4日のときに訪れる予定です。

 小松駅前からのバスで40分余りかかりますが、バスの終点は、意外に山深いところではありません。

 「奥の細道」に言う「白根が嶽」は石川・岐阜県境にある白山のことです。四季にわたって雪が消えることがないので白山と呼ばれるようです。小松から山中へ向かう道では、白山は東南の方角、つまり前方に見えるはずですが、道の曲がり具合で「後にみなしてあゆむ」こともあったのでしょう。「左の山際」にある「観音堂」が那谷寺のことです。

 花山法皇が天皇を退位したときのことは「大鏡」などにも書かれていて、在位3年で退位させられています。退位後に西国巡礼を始めたと言われており、西国三十三所の霊場とつながりの深い方です。

 那谷寺は717(養老元年)開創と言いますから、今年でちょうど1300年になります。高僧・泰澄によって白山が開かれたのと同時です。ここは白山信仰とつながりの深い寺です。那谷寺の「那」は那智の那、「谷」は谷汲の谷です。花山法皇が御幸されたときに、古名の岩屋寺を那谷寺に改められたと伝わります。

 ここは確かに岩屋の寺です。村里にある寺のように思いましたが、山門を入ると様子が一変します。芭蕉が詠んだ「石山の石より白し秋の風」は、芭蕉150回忌に建てられた句碑に刻まれています。

 那谷寺の石山は、近江にある石山寺のように白く、それよりもさらに白い秋風がここを吹き巡っている、という風情です。

|

2018年1月16日 (火)

奥の細道を読む・歩く(232)

実盛と「むざんやな」の句

 

 越前が生国である斎藤別当実盛は加賀の篠原の地で討ち死にをしています。はじめ源義朝につかえ、平治の乱ののち、平宗盛につかえています。幼少の頃の木曽義仲の命を救いましたが、巡り巡って平家敗走のときには、義仲軍の手塚太郎光盛に討たれています。

 「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句は、討ち死にをした実盛の甲の下できりぎりすが鳴いている、これはなんといたましいことだ、という意味ですが、そんな訳文では言い尽くせないものがあります。老武者と侮られまいとして白髪を染めて義仲軍との戦いに参加し、討ち死にした実盛の甲を取り上げてみると、その下にきりぎりす(今のコオロギ)がいたというのですが、戦乱の世の中の一点景として見ると、実盛の他にもこのような結末をたどった者は幾人もいたことでしょう。謡曲などに取り上げられる人もいれば、そういうこととは無縁の人も大勢いたはずです。

 多太神社は木曽義仲が戦勝を祈願した神社であり、義仲は命の恩人であり、節を重んじて戦った実盛の供養として、その甲冑や弓矢を奉納して慰霊したのです。芭蕉は簡潔に、「實盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。」と書いています。

 境内には、実盛の供養祭が6月3日(私たちが訪れた10日ほど後)に、加賀市の篠原で催されるというポスターが掲示されています。また、社頭には実盛の甲の模型が碑として作られています。甲の正面には八幡大菩薩の文字が見えます。

 由緒の深い、大きな神社なのですが、私たちは朱印をいただきたいと思って、人影を探したのですが、神社全体が静まり返っているだけでした。その静けさこそが実盛に対する供養でもあるように感じました。

|

2018年1月15日 (月)

奥の細道を読む・歩く(231)

本折日吉神社から多太神社へ

 

 「此所太田の神社に詣。實盛が甲、錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打たり。實盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。

    むざんやな甲の下のきりぎりす 」

 

 菟橋神社から引き返して多太神社に向かいますが、多太神社の手前に本折日吉神社があります。

 真っ赤な鳥居の本折日吉神社は、山王さんとして親しまれており、芭蕉は小松滞在中に、神主の藤村伊豆宅の句会に招かれています。境内に芭蕉留杖の地という石碑が建っていますが、そこには、近江屋という旅宿に泊まった翌朝、出立しようとしたときに小松の人達に引き留められ、神主宅に泊まって句会を催したということが彫り込まれています。その時に披露した句が「しをらしき名や小松吹く萩薄」だというのです。

 本折日吉神社から多太神社への途中に、本折地蔵堂というのがあって、龍昌寺跡であって、芭蕉宿泊の地であると書かれています。

 多太神社は、6世紀はじめに創建されたと伝えられています。胸のあたりに笠を持って、右手で杖を突いている芭蕉像が、高い台座の上に建てられています。力強い足どりで、遠くをじっと見据えている姿です。芭蕉は、多太神社で斎藤別当実盛の兜などを見ています。実盛と木曽義仲の巡り合わせに感慨を覚えたのでしょうか、「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句を残しています。筆太の文字で書かれた句碑があります。さらに斎藤別当実盛公の像も作られています。

 芭蕉の句にあわせて、この時に供をしていた二人も句を詠んでいます。

  幾秋か甲にきえぬ鬢の霜   曾良

  くさずりのうら珍しや秋の風 北枝

|

2018年1月14日 (日)

奥の細道を読む・歩く(230)

小松を歩く

 

 金沢から30分ほど列車に乗って、小松に着きます。小松には、勧進帳の舞台である安宅の関がありますから、ここは歌舞伎の町です。隈取りの絵などもあって、駅前にはそんな雰囲気が漂います。イメージキャラクターは「カブッキー」です。

 駅から真っ直ぐ西(海側)に向かいます。真行寺などの寺が並んでいます。

 寺町通りを北に向かってたどっていくと、左手に建聖寺があります。室町時代後期に能美郡寺井の地に創建され、1640(寛永17)に現在地に移ったと言います。この寺には、加賀藩3代藩主の前田利常の子・亀松が5歳で早逝したのを悼んで乳母・侍女たちが追善のため寄進した仏涅槃図があって、小松市指定の文化財になっています。

 広くはないお寺ですが、門前に「はせを留杖の地」という碑が建っており、門を入ると右手に芭蕉の碑があります。「蕉翁」と刻んだ石碑があり、その右側に小さな句碑があります。「しをらしき名や小松吹く萩薄」の句です。

 小松というのは何と控えめでいじらしい名前であるのだろう、風はこの地の小さな松の木の上を吹き、萩や薄をなびかせている、と詠んでいます。

 建聖寺の住職は留守とのことですが、奥様に招き入れられます。所蔵されている芭蕉木像のことを話題にしたら、拝見できることになりました。厨子の中から取り出されたのは、芭蕉の門人・立花北枝が作った像です。

 北枝は、金沢から松岡までの16日間ほど、体調のすぐれない曾良に代わって同行しています。のちに芭蕉十哲のひとりに数えられています。

 建聖寺を出て北に進むと、広い道路のそばに、すわまえ芭蕉公園というのが設けられています。芭蕉句碑「ぬれて行や人もをかしき雨の萩」があります。雨にぬれる萩は趣深く、これを見ながらやはりぬれていく人の姿もまた風情がある、という意味です。

 歓生に招かれて句会を開きましたが、この句は歓生宅の庭をたたえた挨拶の句でしょう。これを立句に五十韻が巻かれています。句会に同席した小松の俳人達が詠んだ五十韻を刻んだ句碑が作られています。活字体の日です。句会は1689(元禄2年)7月26日のことです。

 広い道路を横断すると、そこが菟橋神社で、ここにも「しをらしき名や小松吹く萩薄」の句碑があります。

|

より以前の記事一覧